第29話

 空を割らんばかりの爆音が、遥か上空で轟いた。ズィークスの耳には、それが審判の鐘のように聞こえた。額から垂れ落ちた血で、何度瞬きしても視界の濁りが取れない。時折やってくる世界が真っ赤に染まる拍動は数を増やし、痛みが躰を蝕み始めていた。


 ズィークスは鉄錆の味がする唾を吐き捨て、対峙するムルグイヨを睨みつけた。

 あれほど勇ましかった黒き竜も今は青息吐息。ヒトでいえば眉間より少し下の辺りに一本、右眼窩の上側に一本、すでに二本とも竜角の楔を打ち込んであった。しかし、


「……どうした? まだ私は……戦える……ぞ?」


 ムルグイヨは頭を僅かに傾けたまま、慎重に口を開いた。あらゆる感覚の発達した竜のこと、どう動かせば今以上に骨が割れずにすむのか、本能的に知っているのだろう。

 手応えはあった。二本目の楔を打ち込んだ時点でムルグイヨの頭蓋骨は割れている。

 ズィークスはそう確信していた。


 叩き殺すことはできた。できただろう。しかし竜を認めさせるには決闘を制するしかなく、また正当な勝利を伝え残させなくてはいけない。生かして降伏を奪おうとしたがために、戦闘不能に追い込むことはおろか戦意を奪うことすらできなかった。


「……見上げたもんだ。小賢しい真似しやがるから肝っ玉の小せぇ奴だと思ってた。まさか一度も空に逃げねぇなんてな」


 ハッ、ハッ、と笑うように息をつきムルグイヨは翼を動かした。


「この狭さでは飛ばせてくれんだろう。生まれつき翼も足も歪んでいてな」


 なるほど、と頷くズィークスは、ムルグイヨにつられて吹き出すように笑った。長い闘争で互いにおかしくなったのだろうか。こんなにも穏やかに語らえるのに、言葉を交わすために血を流さなくてはいけないとは。そして、そんなことを思うとは。


「……なんでルブラを?」

「……この見てくれだ。私が血を残すには……ルヴラルィンヤしかいない」

「変わってんだな、竜ってのは」


 掛け値なしに、そう思う。竜の世界では美しさこそが全てだとルブラも言っていた。誰よりも強いのに虐げられる側なのだと。それが竜の世界で、生き方なら。


「諦めてはくれねぇか」

「……ああ。たとえそれで死んだとしても、諦めるわけにはいかんのだ」

「そんなら悪いが、死――」


 ドグン、と強く心臓が打ち、視界が真っ赤に明滅した。次の瞬間、何かが腹の底から喉を駆けあがり、ドッ! と口から吹き出した。凍てついた灰色の大地が真っ赤に染まる。

 ズィークスは躰を折り曲げながら一度、二度と、大量の血を吐いた。


「……クッソ。ここにきて、か」

「……竜血晶の力が抜けるか……。では、今度は私が問おう。……敗北を認めるか、死ぬか」


 そう言うムルグイヨも、口を開くたびに額から黒い血を飛沫しぶかせていた。

 ズィークスは笑いながら口元の血を拭った。


「お前を殺すよ」

「――では」

「おう」


 ズィークスは戦鎚の柄頭を握りしめ、ムルグイヨは牙を剥き出した。睨み合い、呼吸を合わせていく。たった一撃。一撃を額に叩き込めば、終わる。


 ズィークスは《金剛不壊》の呪音を鳴らし地を蹴った。竜の力を失いつつある躰が酷く重い。ムルグイヨはその場から一歩も動こうとせず、息を大きく吸い込んだ。息吹だ。分かっていても躱しきる足と体力がない。


 痛む躰を軋ませズィークスは小盾をかざした。駆け続ける。鎧竜の鱗は健在だが、内側の盾そのものはすでに砕けていた。

 黒き竜が、口を大きく開いた。


《砕けよ魂、我が意のままに》


 まるで喉が三本、舌が二枚あるかのような竜の言葉。黒い霧。すべての光を吸い込む闇色の息吹が、ズィークスの躰を呑み込んだ。暴風のような圧。足を進めるたびに息が減っていく。人では防ぎようのない耳の穴から漆黒の呪詛が流れ込む。ヤバイ。思った瞬間、芯を砕かれていた小盾がひしゃげた。刹那。


 足に、何かがからみついた。


 足首から熱を奪い、這い上がってくる、何か。


 手だ。


 亡者の手。


 感触に覚えがある。初めて殺したあの男。這い上がってくる。一人、二人、三人――自らの手で殺めてきた数多の亡者が、ズィークスの頭を力任せに引き起こす。黒い指が顔にかかり、唇に滑り、顎を引き裂こうと力を込めた。躰が冷える。冷えていく。


「    」


 音にならない悔恨。

 だが亡者は離れない。怨嗟の呻きを零しながらしがみつき、ズィークスを砕こうと数を増す。


 ――何してんだ、俺は。


 捨てると言ったのに。

 あののために。

 だったら、


「だったら、ついてこいよ。お前らだけは、ずっと背負い込んでやる」


 俺はルブラがいれば大丈夫だから。

 

 冷える心を受け入れ前に踏み出す――と、

 霧が、晴れた。

 ふっと躰が軽くなり、ズィークスは転げるように前にでる。顔を上げると、黒い竜が、闇色の血を吐いていた。喉に回った血だ。


「……まさか、ヒトに破られるとはな」


 竜の表情などまるで読めないが、笑っているような気がした。


「ヒト?」


 ズィークスは凍てついた大地に手をつき躰を起こした。


「見りゃ分かんだろ?」


 鎧の鱗を半身に纏い、折れた角を突き立てる、業という名の長い長い尾を引きずる者。


「我が名はズィークス。唯一無二の名をもつ竜なり」


 ズィークスは竜の如き喚声をあげ、駆け、戦鎚を振りかぶった。ムルグイヨはぎょろぎょろとした目を、諦めたように閉じた。

 黒竜の鼻先に足をかけ、残る全ての力をそこに込め、ズィークスが戦鎚を振り落とす――


「ズィークス!!」


 雷鳴すらかき消すび声に、ズィークスは白銀の戦鎚をすんでで止めた。やっと来たか、と竜の鼻先から飛び降り、天空から降ってきた一糸まとわぬ美しい少女に尋ねる。


「……ルブラ。この決闘、勝ったのはどっちだ?」

「《憤怒の牙》の名において、ここに宣言します。勝者はズィークス……!」


 そう言って、ルブラはズィークスの胸に飛び込んだ。


「私は……私はあなたのものです。ズィークス……!」

「俺の方から迎えに行くつもりだったんだけどな……遅くなっちまった」


 ズィークスは戦鎚を手放し、ルブラの躰を抱きしめた。吐息の、懐かしい甘い香りがした。柔らかな肌は焼けた石のように熱く、赤い髪の襟足が少し焦げていた。

 空の上でいったい何があったのか。聞くまでもない。

 ズィークスはそっと躰を離し、宝石のように輝く紅い瞳を見つめた。


「――ルブラ。愛してる。ずっと俺のそばにいてくれないか?」

「はい。ズィークス。私は――ルブラをずっとあなたのそばにいさせてください」


 一人と一匹――あるいは二人は、見つめ合う。


「ズィークス。口づけを。ヒトの世界ではそうするのだと本にありました」

「ああ。……けど、目は閉じてくれないか? 照れるからさ」


 参ったな。もう泣かせないと決めたのに。

 そう思いながら、ズィークスはルブラの頤に指を添え、

 そっと唇を重ねた。

 ――。

 ――――。

 ぶすぅ、という黒き竜の深いため息に、ズィークスは慌てて躰を離した。肩越しに首を向けると、ギョロギョロとした目玉がこちらを見ていた。


「《牙》が私の負けを宣言したなら仕方ない。負けを認めよう、ニンゲン」


 血を飲んで濁ってはいたが、穏やかな声だった。

 ズィークスはルブラに肩を支えてもらいながら近づき、ムルグイヨの鼻先に触れた。


「せめてニンゲンじゃなく、ズィークスって呼んでくれ」

「生きていれば、覚えておいてやろう」

「竜だろ? 見えないところで死んでくれるなよ? 寝覚めが悪ぃ」

「……できたらな。いい気味だ。一生、私の死を案ずるがいい」


 冗談まで言われるとは、とズィークスは苦笑しながら天を仰ぐ。よろめきかけた彼の躰をしっかりと抱きとめ、ルブラは言った。


「ムルグイヨ。私はズィークスと生きていきます」

「……ああ。だが――」

「分かっています。竜は頭を下げません。ですが私は、もう掟には縛られていません」


 ルブラは一時いっときズィークスの躰を離し、深々と頭を垂れた。


「ごめんなさい。私はあなたの妻にはなれません。あなたが私の胎を求めた理由は理解できます。ですが、どうかそんな理由ではなく、あなたが真に愛せる竜を探してください。私がそうだったように、醜さに逃げないでください」

「……それで終わりか? だったらすぐに消えてくれ。私はしばらく動けんのだ」


 そう、ムルグイヨはヒトの言葉で言った。

 なおも言葉をかけようとするルブラの肩を引き寄せ、ズィークスは耳打ちした。


「行こう」


 ルブラはズィークスとムルグイヨの間で視線を動かし、やがて小さく頷いた。

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