第27話
霊峰ブ・ラ・ンガヤの頂で、人の頭ほどもある蒼煌石が、役目を終えて色を消した。
見よう見まね――正確にはルブラからの聞き取りと古典的資料を参考にして――ナーリムが作った竜言語による宣言は、ちゃんと届いただろうか。
俺の言葉は、届いただろうか。
ズィークスは転移門にも似た石柱――竜の言葉でいう《空渡の標》から距離を取り、右手で戦鎚を取り、竜血晶を握りこんだ左手を小さな盾に通す。鎧竜の鱗でできた外套を解体して貼り付けた竜鱗の盾だ。余った鱗はルブラの髪を糸代わりに左半身の衣服に縫いつけた。左右非対称の不格好な装いだが、祖父の時代におこわれていたという人の決闘の正装に似ていた。どうせならもっとニンゲン式に、向こうにも盾と戦鎚を持ってもらいたいくらいだが――。
角、牙、鱗、さらに竜魔法と、最も原始的な武器の全てをもつ竜には望むべくもない。
ガァァァァァァァン!
と、凍てついた空を切り裂き、雷が降った。
突如として現れた気配に大気が押しのけられ、暴風となってズィークスを嬲った。小盾をかざして肌に突き刺さる冷気から顔を守りつつ、ズィークスは竜血晶を口に含む。
まったく、ルブラとはえらい違いだよ。
胸のうちで毒づき、竜血晶をカチリと歯で噛むズィークスは、闘争の予感に笑んでいた。
黒き竜。薄気味悪い黒い鱗を見るのは二度目だ。不気味に捻じくれた角。ぎょろりと光る左右で高さの違う目玉。凍った大地を踏み割る巨躯は恐怖の象徴に相応しい。
ズィークスはごくりと竜の力の源を飲み下し、言った。
「ヒトの言葉で、囁く者、だったか? 《むるぐいよ》ってのよりはいい。言いやすい」
「名を愚弄するのがどれほどの罪か、理解っているか?」
静かな口振りと裏腹に、体表に醜怪な斑紋が浮かび上がっていた。鼓動に合わせて斑紋が蠢き大きさを変えている。遥か昔なら敵を怯ませたのだろうが、戦う覚悟をしてきたズィークスにとっては呼吸と感情の動きを掴む手がかりでしかない。
「……どうかな。今度ルブラに聞いとくよ」
〈ニンゲン如きが調子に乗るなァ!〉
竜の言葉による咆哮。あの夜に浴びたのと同等かそれ以上の圧力だった。だが、
恐れることはない。俺にはルブラがついている。
「何言ってんのか分からねぇんだよ! ヒトの言葉で喋りやがれ!」
ズィークスは吼えながら戦鎚を振り上げた。鳴洞器が《金剛不壊》の呪音を鳴らす。
同時。高まる戦意に応えるように、視界が一度、赤く明滅した。長柄を握りしめる手に異常な力を感じる。硬化した柄が軋んだ。時間が飴のように溶け引き伸ばされる――。
どくん、と拍動が全身に熱を送った。
――いける。
ズィークスは盾を前面に構え地を蹴った。さながら火砲が放つ弾丸。削り飛ばした石片が地に落ちるあいだにムルグイヨまでの間合いを半分潰した。
黒き竜は目を大きく見開き、その場で旋回を始める。長い首を畳んで加速し、首を鞭のようにしならせた。大木と見紛う首が地表すれすれを薙いでいく。
あと半分――届かねぇ!
右方から迫る首。ズィークスの脳裏に二つの道が閃く。受けるか、躱すか。受けてみる手もないではない。しかし反撃できるかどうか。力比べは得策ではない。
一瞬で判断を終え回避を選択、ズィークスは大きく跳躍した。足元を過ぎる首を踏みつけ一歩。がら空きの首の付け根が視界に写った。
おあつらえ向きに、大きな斑紋が蠢いていた。
ズィークスは目を爛々と輝かせて前宙を始める。一回、二回、三回――。
「――ッオラアァァァァァァ!」
全身を回転しながら飛翔する投斧と化して、戦鎚を振った。ドッ! と柄頭が肉に沈んだ。柄を通じて筋肉が軋む感触を得た。ムルグイヨが大口を開いて声をあげる。だが、
足りねぇ!
ハシェック家に伝わる戦鎚術の、必殺の一撃だった。本来は駆けた勢いで柄頭を地につき跳躍、回転するところを竜の力に代え、威力も増しているはず。衝撃は浸透した。手応えもあった。しかし致命傷には程遠い。
ズィークスは打撃の反動を使って背を反らし、間合いを取った――否、取ろうとした。
ムルグイヨは一つ羽ばたき距離をつくり、猛然と首を振り戻す。宙に浮くズィークスに翼はない。当然、回避もできない。受けとめるのみ。
ズィークスは咄嗟に躰を捻って左半身を向け、できる限り盾で隠した。衝撃。制御不能の加速度。受け身をとる余裕もない。
木っ端のように吹き飛ばされたズィークスは突き出た岩石に背中から突っ込んだ。痛みはしれている。だが肺から息が絞り出される。重力に従い躰が落ちた。
地に膝をつくズィークス。地響き。ムルグイヨが首をもたげていた。息吹か。違う。
ゴアァァァァァァァ! と
ズィークスは舌なめずりし、戦鎚の長柄を両手で握った。屈んだ姿勢のまま腰を捻り足に力を溜める。迫る牙。ふっと息を吐きだし、ズィークスは跳ねながら戦鎚を振った。
鈍い打音が鳴った。
柄頭がムルグイヨの上顎を横から打ち据え、突進の軌道を変える。岩石が砕かれる音を背中で聞きつつズィークスは駆けた。たたらを踏む前脚を狙い、振った。打音。ムルグイヨの柱のような足が滑り、腹が大地を打った。
「汚ねぇ歯並びしてんなぁ、てめぇは!」
ズィークスは挑発を繰り返しながら追撃を加えるべく戦鎚を構える。そのとき、ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
咄嗟に飛び退く。間一髪、元いた場所を黒い霧が舐めていった。ボナエストから報告を受けた息吹だ。吸ったメルラドは心を操られたという。ナーリムの調べた伝承には、竜は心を砕く力をもつと記述があった。
浴びれば廃人だっただろうかと、ズィークスは粘つく唾を飲み込んだ。
〈竜血晶とはな……ルヴラルィンヤめ……ニンゲン如きに血を分け与えたか……〉
竜の言葉。ムルグイヨが躰を起こした。再び、一人と一匹が対峙する。
「……だから分かんねぇって言ってんだろ? ヒトの言葉で喋れよ」
「ヒトの言葉なぞ!」
ムルグイヨがヒトの言葉で吼えた。
「使うのは、今日が最後だろうな」
「……なるほど? 死んじまったら、もう喋れねぇもんな」
不敵に笑うズィークスの脳裏で、無数の戦術が
やっぱ、アレでいくっきゃねぇか。
ズィークスは一瞬、腰に視線を落とした。先ほどムルグイヨの横っ面に叩き込んだ一撃は闘争に酔ったゆえの無謀だったが、結果として勝機も見た。
ズィークスは手に残る肉と骨の感触を思い出しながらムルグイヨの双眸を睨んだ。
「せっかくルブラから力を借りてるんだ。ちょっと試させてもらおうか」
「ほう? 何をする気だ?」
竜の表情は読めない。しかし、声色で勝者の愉悦に浸っているのは分かる。どれだけ打たれたところで耐えられる。竜血晶の制約も知っている。竜の力が切れたところで一呑みにしてしまえばいい。今しばらく茶番に付き合ってやろう。そう思っているに違いない。
愉悦が、強者の弱点だ。
ズィークスは大きく息を吸い込み、ルブラに習った竜の言葉を紡いだ。
「《ふけよほのお》!」
地を焼き尽くす火焔を吐く、定形の言葉――だったのだが。
魔法使いの喉がなければ、ヒトに竜の言葉は使えない。特に何が起きるでもなく、投げられた定形の言葉は風に吹かれて散った。
なんとも冷え冷えとした沈黙がブ・ラ・ンガャの頂に降りた。
ムルグイヨが高らかに笑った。
「面白いものを見せてもらったぞニンゲン! 教えてやろう! こうやるんだ!」
黒き竜が大きく仰け反り、《吹けよ炎》と、視界を埋め尽くすほどの火焔を吐いた。
勝機が一つ。
ズィークスは火焔の渦に正面から飛び込んだ。盾をかざし地を這うように駆ける。周囲の熱が鱗に守られていない衣服を熱し、躰を炙った。それでも足は止めない。
火を吹くムルグイヨ自身の視界も赤い炎で埋め尽くされ、ズィークスの姿は写らない。
「その喉、貰ったぁ!」
ズィークスは火焔から飛び出す直前、止めていた息全てを吐き出し叫んだ。
グヴアァッ! と、火焔を口の端から溢れさせながらムルグイヨが顎を閉じ、地につかんばかりに下げた。飛び込めば額を打てる距離。
勝機が二つ。
「――なんてな」
ズィークスは飄々と言いつつ腰に吊っていたそれを投げ、躍りかかった。喉は竜の最大の武器にして最大の弱点。狙うと宣言すれば守るとみていた。
ズィークスの投擲したそれが、緩い放物線を描き、ムルグイヨの両眼の間に届く。
それは竜の角。《憤怒の牙》ルヴラルィンヤに下賜された冠から得た、竜鱗を貫く楔。
「悪ぃな。俺ぁ元々、石工なんだよ」
ズィークスは渾身の力を込めて竜角の尻を叩いた。
鋭い打音が霊峰の頂に響く。
楔代わりの竜角は深々と突き刺さり、鱗の下にある竜骨すら貫いた。
耳を劈く絶叫をあげ、ムルグイヨは闇色の血を飛沫かせながら首を振る。躰を起こし、前脚で顔面を擦った。しかし爪と不器用な指では楔を抜くことはできない。
「何をした! ニンゲン!」
ムルグイヨは身を捩りながらズィークスに吼えかけた。
「誰が手の内を晒すか」
ズィークスは素早く飛び退り、片笑みを浮かべた。
「――と、いいたいとこなんだが、今回は特別に教えてやろう。俺はな、お前の頭を、割ってやろうってんだ。こいつでな」
言いつつズィークスは腰に吊るもう一本の角を引き抜いた。
「それは、我らの、角――グァッ!」
ムルグイヨはうめきながら首を振った。おそらく傷そのものの痛みではない。割れ目に沿って引き裂かれようとしている頭骨が苦痛を呼んでいるのだ。
――そう。ズィークスは《兎耳の兄弟団》で学んだ石の目を読む技術と戦鎚術で、竜の角を楔としてムルグイヨの頭蓋骨を割ろうとしていた。
竜の骨は固く、通常の刃物で貫くことはできない。
しかし、同じ竜の角ならば、そして竜と同等以上の膂力があればどうか。
人の手で握れる角で、どうやって竜に致命傷を与えるか。目玉に打ち込んだところで脳には届かず、守りを固めるであろう喉に打ち込むのは難しい。
だが、額を狙うなら?
喉を守ろうとすれば顔の正面を晒す。脳を含む重要な器官を守る頭蓋骨は厚く大きいが、しかし同時に重く、いくつかの継ぎ目ができる。
ズィークスにとって、それは石の目に等しかった。
どれほど硬い石にも規則的な割れ目があり、石工はそれを石の目という。目に沿って楔を打てば、巨大な岩石であっても容易に割れる。たとえば、木目に沿って叩けば素手でも樫の板が割れるように。
そして石工のズィークス・ハシェックは、目読みの天才を持っていた。金槌を片手に何度か叩けばどんな物の目でも読むことができる。戦鎚術の教本で字の読み書きを学んだ彼は、鎚と楔さえあれば相手が何でできていたとしても破断できる自信があった。
ズィークスは竜の角をムルグイヨに見せつける。
「次の一本。こいつをぶち込んだらどうなるか。てめぇの頭骨は右目の下から砕けて割れる。俺の目はそう見てる。生まれてから何があったかしらねぇが、歪んだ骨を恨みな」
ムルグイヨは痛みに耐えるように首を捩りつつ、言った。
「笑わせてくれる! 手の内を知った私が、打ち込ませると思うか!?」
「逆に聞こうか。どうやってその汚ねぇツラを守るんだ? 頭を捻るか? そんなら首にぶち込む。頭を振り回すか? お前の頭は重い。
「――グッ、ギッッ!」
ムルグイヨは首をすぼめ牙を食いしばった。知らなければ飛び込めただろう。痛みがなければ火を吹けただろう。知識と痛みが恐怖を呼び、恐怖が足を竦ませているのだ。
一人と一匹が睨み合う霊峰の頂に、凍てつく風が吹き抜けた。
「どうする? 続けるか? 負けを認めるか?」
「ヒト如きが……竜を舐めるなニンゲン!」
雷鳴にも似た咆哮が、轟、と響いた。黒き竜の全身に極彩色の斑紋が浮く。
今の竜は死や痛みに臆病なのだとルブラに聞いていたのだが、
「そんじゃ――覚悟を決めな」
どうやら
ズィークスは戦の長柄を握りなおし、《金剛不壊》の呪音を鳴らした。
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