第26話

 あれから、どれくらい経ったのだろうか。

 ムルグイヨの煩わしい呼び声に両耳を塞ぎ、竜草の山に顔を埋め、寝て、起きて、寝て、起きて、また寝て、また起きて。とうとう寝付けなくなり、むくりとルブラは躰を起こした。

 くるる、と腹が申し訳なさそうに鳴った。

 こんなときでもお腹は減るのですね、とルブラは腹を擦った。ズィークスと過ごしていた間、一日に三度も食事をしていた。あちらでの生活に躰が慣れてしまったのだろう。


 ルブラはきょろきょろと巣穴を見回した。食べられそうなものがない。何でも食べられるとはいえ寝床の竜草は食みたくないし、巣穴を広げる気にもならない。いっそのこと宝物庫に置いてある宝物の蒼煌石を……と竜にあるまじき発想に思い至った瞬間、ルブラは己を嘲り笑った。

 あれは、ズィークスに渡したままだった。

 子供の頃につくった竜角の冠も。鎧竜の鱗をつないだ外套も。長い尾に見立てた髪の毛も。キラキラと光る大きな蒼煌石も。みんな、みんな彼にあげてしまったのだった。


 口にした手前引っ込みがつかなくなっただけだけど。フヴヮーカと喧嘩してヤケになっていただけだけど。

 宝を見て、私を思い出してくれるでしょうか。

 ため息が薄暗い巣穴に霧散し、巣穴の外から声が聞こえてきた。 


〈早く出てこい! ルヴラルィンヤ! お前の胎はもう私の……〉


 おどろおどろしい、喉に泥が詰まったような声だ。ムルグイヨはいつから巣穴の前にいるのだろうか。誰に場所を聞いたのだろう。考えるまでもない。面白がった竜達が、こぞって教えたに違いない。


 ルブラは虚しさを吐息に変える。そうなったのは自分のせいだ。こんな姿で、あんな母の元に生まれたのが悪い。天海の底に潜って、ズィークスと出会って、美しいと言ってもらえて、何かが変わると思って――また同じところに戻った。

 彼のせいではない。戻ると決めたのは自分だ。竜を捨てられなかった自分が悪いのだ。

 何度も何度もルヴラルィンヤと呼ぶ声に、ルブラは気のない紅い瞳を向けた。


〈いい加減にしないと、この巣穴を打ち壊すぞ!〉


 怒り狂うとはこのことか。ムルグイヨなら本当にやりかねない。


「それは……困りますね」


 誰に言うでもなく人の言葉で呟き、ルブラは竜草の寝床に手をついた。いかにも行きたくないというふうに、ゆっくりと腰をあげる。足を進める度に躰が重くなっていくようだった。

 巣穴の入り口から光が差し込んでいた。ナーリムから借りた『英雄ヨーグ』の一節を思い出す。洞窟の奥深くから生還した英雄は、外から差し込む光に希望を見る――が。


『昏く深い闇の底では光を求める。だが、絶望は光の下で明らかになる』


 水鏡を見なければ己の醜さは分からない。比べる相手がいなければ迷いはない。

 しかし、すでにルブラは比べる相手を知っていた。

 外に出れば終わり。終わるための歩み。その先で――、


〈ムルグイヨ! そこをどいて! 私が話す!〉


 この世界で最も美しい鱗を持つ竜が、凛、と声を響かせた。《星を抱く者》の名に違わぬ七色に輝く鱗が巣穴の入り口を塞ぎ、絶望を知らしめようとする光を遮った。


「フヴァーカ……!」


 久方ぶりに親友の名前を音にしたとき、ルブラはその音色に身震いした。



〈……そう。うん。分かった。そう伝える〉


 ルブラの巣穴を隠すように伏して二言、三言、言葉を交わし、フヴァーカは長い首だけを動かしてムルグイヨに顔を向けた。


〈あなたの妻にはなりたくありません、だって〉

〈……なんだと?〉


 ムルグイヨは、くぁ、と呆けたように口を開いた。今さら何をと言わんばかりの目をして巣穴を、今は美しい鱗が隠す小さな洞窟を睨みつける。


〈駄々をこねるなルヴラルィンヤ! お前の胎はもう私のものだと言ったろう! 古竜様が呼んだのが聞こえなかったとでも言うのか!? 早く出てこい!〉


 粘つくような黒い体表に、毒々しい赤褐色の斑紋が浮かんだ。

 怒声を浴びせかけられたフヴァーカは煩わしそうに喉を鳴らした。


〈古竜様、古竜様って、雄として恥ずかしくないの?〉

〈お前に何の関係があるフヴァーカ!〉


 躰の斑紋がさらに増した。だが、フヴァーカは涼しげな目のままだ。


〈関係? ルヴラルィンヤは誰よりも大事な友達だもの。大事な友達があなたみたいなダメな雄と番うだなんて放っておけるわけない。せめて私より――〉

〈――美しさなどどうでもいい!〉


 ムルグイヨは朽ちた石柱のような牙を剥いた。斑紋がどくんと脈打った。


〈醜い躰を笑いたければ笑えばいい。ルヴラルィンヤも大して変わらん。醜い者同士その胎をもらってやろうというだけだ。美しいお前は嘲り笑っていればいい〉

〈……誰もそんなこと言ってないじゃない。バカね〉

〈もういい。そこをどけ。どかぬと言うなら、お前の鱗に牙を立てでもどかすぞ!〉

〈怖いな。怖いから、私もあなたに倣わせてもらうわね?〉


 言いつつフヴヮーカは翼を丸めて躰を隠し、首をもたげ、大きく息を吸い込んだ。


〈誰か助けて! ムルグイヨが私の鱗に牙を!!〉


 まるで歌うような口振りで天に向かって吼えた。途端、方々で翼を広げる音がし、竜の遠吠えが無数にあがった。どの声も、黒く醜い竜への怒気を滲ませている。

 ムルグイヨは首を伸ばして辺りを見回し、低く喉を鳴らした。


〈フヴァーカ、お前……なんという……嘘を……竜の掟を破るとは!〉

〈そうだね。嘘を吐いた。だから何? ?〉


 フヴァーカはちらりと巣穴を一瞥し、凛然と言った。


〈竜の掟なんて、何の力もない。私はあなたより詳しいの〉

〈フヴァーカ、お前……美しいからと……何をやっても許されると思うな!〉

〈私は、思ってない。そう思っているのは、あなたたちよ〉


 言い合う内に竜が続々と集まってきた。雄は美しい鱗を守ろうと、雌は美しい鱗についたという傷を見ようと、輪になって二頭の竜を取り囲む。

 黒く醜い竜は忌々しげに首を振り、フヴァーカに向き直った。


〈……お前には、私がさぞや惨めに見えているのだろうな〉

〈ええ、もちろん。でもそれは、あなたの姿のことじゃない〉


 言葉を失うムルグイヨに、フヴァーカは淡々と告げる。


〈ルヴラルィンヤは私の大事な友達なの。血を残すためだけに妻に取ろうだなんて、そんな自分もルヴラルィンヤもバカにするような話、私は絶対に認めない〉

〈バカな……ならば私やルヴラルィンヤのような竜は、血を絶やすだけではないか……〉

〈バカはあなたよ、ムルグイヨ。掟さえ捨てればいくらでも方法はある。私の、かけがえのないルヴラルィンヤは、そうして生まれた〉

〈また忌み子を生んで血を繋げと? ふざけるな! そんなことは私が許さん!〉


 ムルグイヨの全身に斑紋が浮き、蠢いた。


〈貴様を噛み殺してでもそこをどいてもらう! ルヴラルィンヤは私のものだ!〉

〈どうぞ? やってみせて? その意気よ、ムルグイヨ〉


 フヴァーカが満足気にそういった。瞬間だった。

 雲の遥か上にある天海島の空に、巨大な鐘の音にも似た音が響いた。

 その場にいた全ての竜が空を見上げ、本能に従い耳を澄ます。ここしばらくの間に二度も鳴った、千年も前の古竜が練り上げた音色が、天海の底から言葉を運ぶ。

 

〈我が名はズィークス・ハシェック! 我が前から《るゔらるぃんや》を拐った卑怯者に決闘を望む竜だ! 我は天海の底の岩礁、《空渡の標》で待つ! 浅ましき竜、《むるぐいよ》よ! 角と牙があるなら、我と戦え!〉


 ヒトだ。ヒトが、舌っ足らずだが荒々しく、竜の言葉で言った。

 なんと酷い発音だろうか。ヒトが竜の真似事をするとは。卑怯で浅ましい竜とはよく言ったものね。まさかヒトなんぞから逃げるわけじゃないだろう?

 集まっていた竜が口々にムルグイヨを囃し立てる。

 そのとき、また一つ、天海の底から言葉が届いた。


「たとえ空を落としてでも、俺はルブラを迎えに行くぞ!」

  

 今度はごく短い、ヒトの言葉だ。意味を解するまで一拍の間が過ぎる。瞬間――。

 雄の竜どもは天を焦がさんばかりに怒り狂う咆哮をあげ、雌の竜どもは言葉を失ったまま憧憬の眼差しを忌み子の巣穴に向けた。

 フヴァーカは熱っぽいため息をつき、うっとりとした声でルブラに言った。


〈ルヴラルィンヤ、ヒトの男に何をしたの? だなんて……あんな熱烈な求婚をされたの、私達の歴史であなたが初めてじゃない?〉

 

 巣穴の中のルブラは両手で顔を隠した。火を吹きそうなくらい熱かった。躰が震え、立っていることさえできない。掠れた記憶を辿ってみても見つからない。

 唯一無二の名をもつヒトが、ヒトとしてでだけでなく竜としても私を求めてくれた。


 ヒトの形という醜い姿で生まれた竜は、生まれて初めて己の姿に誇りを持った。

 そしてまた、巣穴の外から聞こえてくる翼の音に、彼の身を案じた。


 どうすれば……私はどうしたらいいのですか? ズィークス――

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