第22話

 男だけの二人部屋、ボナエストが荷物を整理する手を止め、扉の方を見やった。


「……どうした?」


 窓際の卓で酒を飲んでいたズィークスは、細かく動く狼の耳を見つめて言った。


「……ルブラさんかと思ったのですが、違ったようです。二人組でした」


 そうか、と一つ息をつき、ズィークスは杯を空けた。不味かった。どのみち酒の味など分からない。酔えればどんな安酒でも構わなかった。


「……飲み過ぎでは? 明日に障りますよ?」

「ほっとけ。俺が吐こうが喚こうがどうだっていいだろ? うるさいなら外に放り出せ」

「またそんな……私の鼻をお忘れですか? こっちは匂いだけで酔っ払いそうですよ」

「……じゃあお前も飲むか? 飲めないわけじゃないんだろ?」


 ズィークスが酒瓶を突きだすと、ボナエストは苦笑いを浮かべて首を横に振った。


「いつもより荒れていますね。ルブラさんが一緒だったからですか? この前も言いましたが、同じ部屋に泊まった方がいいのでは? 私に遠慮することはありませんよ」

「こっちこそ遠慮しとくよ。ルブラと一緒だとなかなか眠れないからな」


 ボナエストは吹き出すように笑った。


「珍しい。ズィークスがそんな話をするなんて。そんなに凄いんですか?」

「……凄い? 何がだよ? ルブラの寝息は静かだぞ? 緊張して寝れないって話だ」

「…………はい? 緊張? ズィークス、何の話をしてるんです?」


 部屋に奇妙な沈黙が満ちた。何か話が噛み合わないな、とズィークスはボナエストの言葉を反芻してみる。凄い。寝れない。同じ部屋。遠慮しなくていい。

 あ。

 ズィークスは顔がカッと熱くなるのを感じ、思わず顔を背けた。


「バ、バカじゃねぇの、お前。結婚前だぞ? ンなことするわけねぇだろ?」

「は? バカ? 私がですか? いえ、ヒトにはヒトの考え方がありますが……えっ? 結婚前だからって、そんなこと気にするヒトいないですよね?」

「はぁぁぁぁ!? い、いるわ! ここにいるわ!」

「……本気ですか? ……あぁ……あれ、本当だったんですか……」


 愕然とするボナエストに、ズィークスは眉をひそめて聞き返した。


「……あれってなんだよ」

「……あ」


 ボナエストはしまったとばかりに口を押えた。


「いえ、その……『猫に勲章事件』ですよ。娼館に泊めてもらったのを覚えてますか?」

「あ? あ……ああ、あれ、か……」


 人生で二度目の貞操の危機だった――いや、別に守っていたつもりはなかったのだが。

 事件解決後、帰りの馬車の手配が遅れ、村にもう一泊しようとしたら折り悪く宿に二部屋しか空きがなく、ズィークスだけ娼館で部屋を貸りることになった。

 その夜、当然のように娼館で一、二を争う二人の女が彼の部屋の扉を叩いたのだ。

 あの晩だけで、何度『止めてください。触らないで下さい』と、言っただろうか。

 思えば人生で一度目の危機も娼館だった。《兎耳の兄弟団》を抜ける際、団の兄弟達に奢ってやると言われて――よそう。過去の傷を自ら抉り倒すのは。

 パタパタと顔を扇ぐズィークスをよそに、ボナエストは悲しそうな目をして言った。


「ズィークスを迎えに行ったとき女将に『あのヒト初心で可愛いのね』なんて言われまして。何のことか聞いたら、お礼をしようとして断られたと言うんですよ。調停士は誰の施しも受けないというのは本当だったかのと感心したんですが……私がバカでした」


 その自嘲気味の笑みはなんなんだ、とズィークスはぐっと酒を流し込む。


「べ、別にいいだろうが! そういうのはもっとこう、なんだ――」

「よくはないでしょう。私の集落では十二になれば手ほどきを受けましたよ?」

「手ほどき!? んな話、初めて聞いたぞ!? ナーリムの報告にはそんな話――」

「ヨソから来たヒトの女性に話すわけないじゃないですか。バカですか?」

「バカってお前っ……!」


 ズィークスは絶句した。ボナエストにバカだと評されるのも初めてだが、別の意味のはじめてのせいで急に上から見られているような気分だった。


「……いい機会ですから大人になっては……違うか、童心に返ってみては?」

「どこがいい機会だっ! 状況としちゃ最悪だろうがっ! だいたい何だ童心って!」

「ズィークス。ずっと傍であなたの仕事を見てきたからこそ、言わせてもらいます」


 貴族の娘に一目惚れされた半獣人は、急に神妙な顔をした。


「な、なんだよ、急に。改まって」

「ズィークスは殻を破り直すべきです」


 なんとも奇妙な言い回しだった。破れならともかく、破り直すとはどういうことか。

 ボナエストは真剣な目をして言った。


「今のズィークスを見ていると、いつか壊れるのではないかと心配になります。引き込んでもらった私がいうのもおかしな話ですが、ズィークは調停士に向いていませんよ」

「何を言うかと思えば……どういうつもりだ? 喧嘩を売ろうってのか?」


 ズィークスは杯を置き、拳を固めた。昔ながらのやり方だ。


「心配してるだけですよ。分かって言ってるでしょう? そういうところが向いてないと言ってるんです。メルラドの真似なんでしょうが、彼と違ってあなたのそれは見せかけだけです。出会ったときからそうでしたし、あなたは本当のところを私やナーリムに話しませんから、勘違いだと思って黙ってました。でも、今日、考えが変わりましたよ」

「……俺は、何かしくじったか?」

「ええ。『いつか俺は背中を刺される』と言いました。今までなら『メルラドは』だった。初めて聞きましたよ。今までと今日と、何が違うか分かりますか?」

「……ルブラがいたって言いたいんだろ? ルブラに、見損なったと言われたって」


 ボナエストは小さく首を縦に振った。


「そう。調停士のズィークスは嫌な奴だから気にしない。屁とも思わないんでしょう。でも、そうだと思い込んでる、ただのズィークスは違います。傷ついて、酒に逃げてる」

「……お前は俺の何なんだよ」

「友達だよ。少し歳は離れてるけどな」


 普段とはまるで異なる粗野な口調だった。

 即答かよ、と鼻を鳴らしズィークスは左腕を横に広げた。


「それで? ただの俺はどうすりゃいい? 何をさせたいんだ?」


 ボナエストは咳払いを一つ入れ、微苦笑を浮かべた。


「いますぐルブラさんの部屋に行ってください。きっと彼女は両手を広げてくれます」


 ズィークスは唇の端を吊った。冗談を言っているようにしか思えなかった。


「それでどうなる? 殻を破り直すだっけか? 断られたらどうしてくれんだよ」

「大丈夫。ルブラさんは受け入れてくれますよ。間違いありません」

「……そう思う根拠を聞かせてもらおうか? もしそんなもんがあるんならだが」

「――森での慌てようです。お互いに、ですが。ルブラさんは間違いなくズィークスを大切に思っていますよ。もしかしたら傷つけたと思って悩んでいるかもしれない」


 そんなのが根拠になるかよ。ズィークスはテーブルに片肘を立て頬を擦り寄せた。分かっている。これじゃ丸っきりふてくされた子どもだ。だが、しかし――。


「ところで――」


 ボナエストが悪い顔をして言った。


「ご実家までの道中はどうされてたんです? 部屋は同じだったんですよね?」


 ゴン、とズィークスはテーブルに額を打ち付けた。どうやら知られてはならない秘密を掴まれたらしい。ここで見栄をはっても逆効果なのは《兎耳の兄弟団》で学んでいた。


「……俺は枕の代わりだよ。うるせぇな」


 言って唇を尖らせながら顔を上げると、ボナエストは尻尾まで緩く振りだした。


「どうです? 早くこの部屋を出ていかないと私にからかわれ続けますよ?」

「……狼類半獣人ってのは嫌味な奴が多いんだな。再認識させてもらったよ」


 ズィークスはジト目で言って、杯を取った。


「行くから、もう一杯だけ飲ませてくれ。とてもじゃねぇけど素面じゃ無理だ」

「人間相手ならともかく、ルブラさん相手には悪手では? ルブラさんは私より鼻が利きますよ? 顔を近づけたとき息が酒臭かったら……」

「うるせぇ。行くって言ったろ? ちょっと待てよ」


 一杯くらいは静かに飲ませろと手をひらひら振って、杯に口を近づけた。舌に触れた不味い液体を胃袋に落とし、こみ上げてきた熱い息を窓に吐く。月の青白い光に照らされた国境線の街並みは、凍った湖のようだった。首都より多くの獣人が住み、魔国から来た観光客もいるのに、月の下で歩く人影は豆粒くらいに遠い二つだけ――。

 あれ? とズィークスは人影に目を凝らした。黒衣の男と歩く、フードつきの黒外套を着込んだ……女だ。歩き方に見覚えが、というより、あの黒外套は!


「ボナエスト!」

「なんです? 礼なら――」

「ルブラが外に出たかもしれない!」


 したり顔のボナエストに怒鳴り返し、ズィークスは廊下に飛び出した。見損なったと言われたときから、悪い予感はあった。二人で二週間を過ごして知っていたのだ。ルブラはとぼけているし、暢気だし、じっとしてるとすぐ寝てしまう可愛いやつだが、

 竜の掟が関わると凄まじく短気になる。

 見損なったと言われたとき、他に何と言っていた? 天海の雄達と同じと言っていなかったか。彼女の怒りが、竜としての怒りだったとしたら――。


「ルブラ! ルブラ! いるか!?」


 返事はない。もうノックへの対応は憶えているはずだ。ドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。飛び込んだ部屋は真っ暗だった。

 暗がりで光る紅い瞳は見当たらない。あの静かな寝息もない。肌が粟立った。これまでルブラを連れて外を歩けたのは、土地が平和だったからだ。


 首都はもちろん、実家に帰るときも時間より安全を優先してきた。だが、国境近くはまるで違う。人さらいが横行し、道を外れれば賊もいる。いや、道を外れなくても、街中に危険な奴らがゴマンと潜んでいる。


「ズィークス! ルブラさんは!?」


 背後からかけられたボナエストの声に、ズィークスは血の気の引いた顔を向けた。


「いねぇ。さっき窓から見たんだ。あれは俺がルブラにやった外套だった……」


 ボナエストの両手足を覆う白銀の毛が一斉に逆立った。


「追うぞ! ボナエスト!」


 騒ぎを聞きつけ部屋から出てきた他の客を押しのけ、ズィークスとボナエストは宿の外に駆け出た。窓から見た方向に人影はなかった。


「クソッ! 見失った! 追えるか!?」


 ズィークスは振り向きざまに言った。ボナエストがすぐに鼻をひくひくと動かす。


「……! 大丈夫、 追えます!」


 そう力強く頷いて腰に手を伸ばし、舌打ち。宿の窓を見上げた。


「得物が――」


 言われてズィークスも戦鎚を背負ってくるのを忘れたのに気付いた。


「ああ、クソッ! 後だ! とりあえず追うぞ!」


 言って二人は夜の街に駆け出していく。慌ててはいたが、そのときはまだ、最悪ルブラなら自力で対処できるだろうと思っていた。

 愚かな考えだった。

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