第19話
乱戦だった。
恐怖に震えるボルィムィールを庇いながらボナエストは山刀を振るい続ける。鎧を避けた刃が灰色の肌を切る度に血飛沫と悲鳴が上がった。
その間、ルブラは言いつけ通りに一切の手出しをせず、ひらり、ひらり、と踊るような足取りで斬撃を躱し続けていた。
掴みかかろうと伸びるオークの腕を掻い潜り、横薙ぎに振られる大剣を顔色ひとつ変えずに飛び越える。冷めきった紅い瞳でつぶさに状況を観察し、衣服にひとひらの血花もつけぬよう立ち回る。
また一匹、ズィークスの戦鎚に頭を砕かれ、血の花を咲かせた。
徐々に数を減らすオーク達。一匹が鋭く吠えた。三匹が息を揃えてルブラに迫る。
ルブラは淡々と一閃を回避する。新たな斬撃がそこを狙うも、彼女は背後の一匹の股を潜って抜けた。獲物を見失った斬撃がオークの腹を断ち割り、激しく血を飛沫かせた。降り注ぐ血雨に顔をしかめて、ルブラは黒い外套を汚さぬように大きく飛び退く。
着地点に、石樹の大剣が伸びた。
「ルブラ!」
それを横目で目視しズィークスは思わず首を振った。同時。背筋に悪寒が走った。咄嗟に戦鎚を振り抜くも僅かに遅い。死にゆくオークの剣筋が波打ち、左肩を無いだ。
「――クッソ、がァァ!!」
冷え冷えとした痛み。懐かしい感触にズィークスの口から怒りと悲鳴が漏れた。
「ズィークス!」
悲鳴を聞きつけたルブラは名を叫び、迫りくる石樹の刃を指でつまんで止めた。
相手が並の竜なら刃を当てるくらいはできただろう。だがしかし、人とよく似た形をしていてもルブラは竜同士の争いを諌める《憤怒の牙》。竜族最強の竜である。
オークは大剣を押すも叶わず、引くことも許されない。呻き、血管を浮き立たせて力を込めるが、ルブラが三本の指でつまむ刃は微動だにしない。
《流血を望む者》を意味するルヴラルィンヤの言葉と息吹は、その一音、一呼吸すべてが力をもつ。まさしく息をするように超常の力を扱っているのだ。
〈……
竜の言葉。ルブラは己が牙を剥き出し、喉を鳴らした。それは戦に生き戦に死ぬオークすら怯ませる音。この世で最も恐ろしい生き物の、
〈その喉、引き裂いてやる!〉
バギンッ! と指と腕の力だけで大剣をへし折り、剣先を投げつけた。切っ先は易々とオークの胸甲を貫き、衝撃で巨躯を吹き飛ばし、大樹に串刺しにした。
ガヴッ! と一吼え、ルブラは背後の一匹に飛びかかった。怒り狂いながらもなお自身に捧げられた衣服を傷つけぬよう注意を払い、限界速度で腕を振り抜く。白く細い指が、その指先を守る小さな爪が、小枝を手折るようにオークの首を引き裂いた。続けて左足を軸に半回転し、倒れゆく死体を蹴り飛ばす。
あまりの速さにズィークスは動けなかった。すぐ横をオークの死体が飛び抜け、打音が響いた。見れば蹴り飛ばされたオークの亡骸の下で、もう一匹、絶命していた。
乱戦から一転、竜による一方的な虐殺が始まった。
ルブラは定形の呪音を紡ぐことなく、ただ己の呼吸が生み出す膂力をもって、目にもとまらぬ速さで疾駆する。一匹、二匹、三匹――立ち尽くす八匹目を血祭りにして、
ルルォオオオオオオオオオオオッ!
と、高ぶる感情に突き動かされるように咆哮をあげた。
この世のものとは思えぬ音圧が森を揺らした。ヒトは言葉を失い、半獣人は絶対に敵わぬ生き物を知覚し身を縮こまらせる。
戦うことしか知らないはずのオークが、慄き、震え、武器を捨てて逃げ出した。
森が静寂を取り戻し、ルブラの荒々しい呼吸音は妙に大きく聞こえた。
「ル、ルブラ……?」
圧倒的な竜の力を目の当たりにして、ズィークスはやっとの思いで名を呼んだ。
ルブラは弾かれたように顔を上げ、てててっと駆け寄ってきた。
「ズィークス! 傷は!?」
今にも泣きだしそうな震えた声。紅い瞳に怒りは見えず、涙が滲んでいた。
先の兇猛な姿との落差に、一瞬ズィークスは痛みを忘れた。
「えっと……大丈夫、大丈夫」
ズィークスはろくに傷も見ずに答えた。自分の傷よりも涙の方が気がかりだった。
「いけません! 見せてください!」
そう言ってルブラは真っ赤に濡れるズィークスの左肩に飛びついた。傷は見た目ほど深くはない。竜の言葉で何事か呟き、てろりと舌を垂らす。
「ルブラ? いったい何を――って、グッ! 熱っつ!」
舌先が触れた途端、
「――どうですか? 痛みはまだありますか?」
ルブラが傷を舐めるのをやめたとき、ズィークスは未知の感覚に朦朧としていた。
「だ……大丈夫……って? ……えっ? ……マジで、大丈夫だ……」
痛みがまったくしないことに気づき、ズィークスは傷に目をやった。肌はルブラの唾液でてらてらと光っているくらいで、傷跡すら残っていない。
「……ルブラ。何したんだ?」
「傷を癒やしただけです」
ルブラは柔らかく微笑み、どこか懐かしそうな目をした。
「ずっと昔、私も母に舐めてもらったことがあります。きっと同じ顔をしていました」
言って、ルブラはぎゅっとズィークスに抱きついた。
マジで? と背中を撫でつつ、ズィークスは周囲の惨状を見回した。
自分の手で打ち倒した数など十にも満たない。地に伏すオークのほとんどはルブラの手によるものだ。全てが一撃。それも、おそらく手加減をした上で。
……とんでもねぇな。
ズィークスはあらためて竜の強さに息を飲んだ。恐怖のさらに三歩は向こうにいってる。そんな竜に惚れている自分にも、そんな竜が自分を心配してくれているのも恐ろしい。喧嘩になったらすぐ謝ろう、と状況とそぐわぬ奇妙な感想が脳裏をよぎった。しかし、すぐに調停士たる自分が膨れ上がって言わせる。
「助かったよ。ありがとう。でも、あんまりその力は人に見せないように――」
「分かっています。手出し無用の約束、破ってしまって……ごめんなさい」
スン、と鼻を鳴らして躰を離したルブラは、自身の左の親指を噛んた。
「ちょ! えっ!? 今度は何!?」
慌てるズィークスに真摯な紅い瞳を向けて、ルブラは言った。
「人の脆さがよく分かりました。でも、ズィークスとの約束を破りたくはありません。ですから、もし、どうしても力が必要になったとき、使ってください」
親指をしごき血を絞りながらルブラは定形の、強い力を持つ竜の言葉を紡いだ。
ぷっと膨れた鮮やかな血の一滴が、垂れ落ちる寸前で留まり色を濃くする。
「ズィークス、手を」
言われるままにズィークスが両手を差し出す。そこにぽとりと、真ん丸の石が落ちた。《星の欠片》と同じくらいの、小さな血の結晶――竜血晶だ。
はるか昔、英雄ヨーグも幾度か飲んだとされる、人に竜の力を与えるという丸薬だ。現代に実物が現存していないため、これまでは何かの比喩だろうとされていた。
「竜の力とは血の力です。それを飲めば、ほんの少しだけですが私の力を使えるようになます。けれど気をつけてください。効果は長く続きません。それにヒトの身には過ぎた力です。力が切れたとき、もし深い傷を負っていれば……。ですので――」
「――分かった。他にどうしようもない時だけ、だろ?」
ズィークスはポンとルブラの頭を撫でて、竜血晶を《星の欠片》の小瓶に入れた。
「ありがとう、ルブラ。できるだけ使わないですむように気をつけるよ」
「はい……! ご自愛ください……」
ルブラは声を震わせて、もう一度ズィークス抱きついた。その鼓動を確かめるように背を無でさすり、首筋に頬を擦り寄せる――。
「な、な、な、なんなんですか、その人は……ッ!」
ふいに、ボルィムィールが悲鳴にも似た声をあげた。激しい戦闘による恐慌もあってか顔から血の気が引き、指を伸ばす腕もわなわなと震えていた。
ルブラは首だけをそちらに向けて、ぽつりと言った。
「私は――ズィークスの奥さんです」
「…………はっ?」
時が凍った。やがてボナエストがぷっと頬を膨らまし、吹き出すように笑いだした。
ズィークスもつられて笑いながら、ボルィムィールに答えた。
「そう。俺の奥さんだよ。式はまだなんだけどな。強いだろ? 俺の奥さん」
ズィークスは自慢げにルブラの背を撫で、立ち上がる。
「あんまり人に言ってくれるなよ? 見せびらかしたいわけじゃないんだ」
「そんなことを聞いてるんじゃありません!」
ボルィムィールは叫びながら手を大きく振った。
「こんな、こんな力! ヒトじゃないんですか!? それはいったい――」
「おい。他人の嫁さん、それ呼ばわりするんじゃねぇよ」
「そ、それは……でも……」
「いいよ。今は逃げた奴らの方だ。俺はさっさとこんな仕事は終わらせたい。森に迷い込んだだけかと思いきや、保護区域内で焚き火を囲んで麻薬をやってたバカどもだ。普通だったらこっちが平謝りするような案件だぞ? 最悪だ」
ズィークスは治ったかりの肩を回し、ボナエストに尋ねた。
「どうだ、ボナエスト。追えそうか?」
「ええ。さっきの今ですし、匂いは覚えました。追えますよ」
「頼んだ。――ボルィムィール、お前はどうする? もう帰ってもいいぞ?」
「えっ……その、僕は……い、行きますよ! 村の人達に約束したんですから!」
意地を張ってるだけだろ、と胸の内で呟きながらもズィークスは無言で頷いた。
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