第16話

 ズィークスが眠れぬ夜を過ごしているそのとき、遥か遠く首都オレグに、黒衣の男が現れた。

 うねる黒髪を肩に垂らし、ぎょろりとした両眼は左右別々の方向を向いている。ごつごつとした巨体と言って差し支えない体躯。みすぼらしい黒衣も相まり不気味な気配を漂わせる男は、片足を引きずるような足取りで、中央調停院の庁舎に入っていった。


 そのときズィークスの上司、上級調停官メルラドは、実家に帰省したという部下の仕事の一部を処理していた。大半は《人形遣い》とも称される采配で振り分けたのだが、どうしても他人には任せられない仕事があった。


 ズィークスから送られてくる竜に関する報告の転記である。

 情報の機密性は伝達時に介する人員の数と反比例する。情報の重要度は伝達手段によって露呈する。ズィークスが行く先々で地方調停院を通して報告しようとすれば、悪意ある者に竜との調停交渉中が知られかねない。そこでメルラドは、通常の手紙で報告するよう命じたのだ。


 一般にも利用される手紙の形をとれば特別注目を浴びずに済む。第三者に開封される恐れは増すが、ルブラが竜であると知る者はごく少数に限られているため、簡単な符丁さえ決めておけば誰にも悟られず報告できる――という算段だったのだが。

 メルラドは羽ペンを握る手を止めた。こめかみに青筋が浮いた。じっと強く瞑目し始めたかと思うと、カッと目を見開いて叫んだ。


「あのバカめ! 誰がここまで惚気ろと言ったんだ!」


 椅子を蹴倒す勢いで立ったメルラドは、羽ペンを振り上げ、ぶるぶる震え、やがてゆっくり手を下ろした。どすん、と音を立てて座り直し、速やかに転記に戻る。

 ――ズィークス・ハシェック一級調停士の手で迷彩を施された報告書は、彼の類まれなる才をもって、完璧なる恋人とのお惚気レターとして届いていたのだ。あらゆる言葉をもって恋人を褒めちぎり、あんなことが、こんなことがと書き連ねる手紙。その有り様は昼に調停依頼に来た、相談そっちのけで乳繰り合うカップルを彷彿とさせた。


「……パパに頼んで、私も縁談を探してもらうか?」


 ボソリと呟いたメルラドは次の瞬間、ぬぅあー! と叫んで羽ペンを投げ捨てた。立ち上がりながら椅子を背面キックで蹴り飛ばし、紫檀の机に何度も掌を打ちつける。ひとしきり暴れ、息を整えながら、薄くなり始めた髪に細い櫛を通した。


「荒れておられますな」


 突然、扉の方から低い声が響いた。メルラドはひゅっと息を飲み、すぐに自らの口を左手で塞ぎ、空いた手で机上の橙煌石式拳銃を取る。

 扉の前に、黒衣の男が立っていた。


「なんだ貴様! ノックはどうした! 礼儀を知らんのか!? 撃つところだったぞ!」

「ヒトにみせる礼儀など」


 黒衣の男は乱杭歯をむき出して笑った。


「なんです、それは?」

「……なるほど。煌石銃も知らん田舎者か。こいつはな、指一本で貴様を殺せる道具だ」


 メルラドは誇らしげに銃を傾けた。貴族として剣を吊る権利はあるが、腕には自信がない。重いだけの鉄の固まりを下げるよりはと選んだのが、魔国製の煌石銃だった。

 橙煌石式の銃は、バネじかけの金属針で銃身内の橙煌石を砕き、煌石術による小爆発によって弾丸を撃ち出す。火薬式に比べて射撃速度と弾速に優り、暴発や不発の危険も少ない。同じものが五十年前の戦時にあれば、今も戦争は続いていただろう。


「……欠点は、貴様のような田舎者には撃ってみせんと脅しにならんことくらいか」

「もう一つ。竜の鱗を貫けるかどうかがありますな」

「……何? 竜だと?」


 メルラドはじっと黒衣の男を睨み、銃を構え直した。


「ふざけたことを抜かすな! 貴様のような薄気味悪い奴が竜なものか! どうやってここに――」

〈ムルグイヨ!〉


 メルラドの言葉を遮り、黒衣の男が竜の言葉で叫んだ。ヒトの声とはまるで違う三本の喉を同時に震わせたような奇っ怪な声が、圧となってメルラドを襲った。風で巻き上げられた書類が舞い落ち、窓がビリビリと振動していた。


「それが私の名――」


 黒衣の男が言い終えるより早く、煌石銃特有の硝子を砕いたような銃声が響いた。黒衣の男の首が弾かれたように大きく後ろに反り返える。が、


「なるほど、恐ろしい威力ですな?」


 平然と首をおこす黒衣の男。黒い血のようなものが滲む額に、節くれた指を悠々と伸ばし、潰れた銀弾をほじくり出した。


「さて、これでお互いにやりあったということで……初めからやり直しですかな?」


 ふん、と鼻を鳴らし、メルラドは机に叩きつけるようにして銃を置いた。


「いいだろう。《むるぐいよ》とやら、貴様が竜だとして、この私に何の用だ?」


 そう強気に迫るメルラドの顔はしかし、青ざめていた。

 対し、黒衣の男――天海島から来た竜、《囁く者》ムルグイヨは飄々と言ってのける。


「では簡潔に申し上げましょう。《ルヴラルィンヤ》を我らに返してほしいのです」

「……なんだと? 貴様、竜だと言ったな。どういうつもりだ?」

「ヒトに話す義理はありませんな。ただ返してくれればいいのです」


 ハンッ! と、一際強く鼻を鳴らし、メルラドは椅子にふんぞり返った。


「何が返してくれればいいだ! 言われるままに引き下がるバカがいるか!」

「まぁそうでしょうな。話を聞いて頂けるように、こちらも少し調べておきました」


 ムルグイヨは足を引きずり躰を左右に揺らしながらメルラドの机に近づく。黒衣の内側から何かを握り込んだ手を出し、机上で開いた。様々な色の石がバラバラと散らばった。

 メルラドは片眉を跳ね、石の一つをつまんで灯りにかざす。原石だ。どれも色味が深く、澄んでいる。色形はまちまちだが磨けばそれなりの値がつくだろう。


「足りないようなら、もっとお持ちしましょう。それだけじゃない。必要とあらば別の竜との縁談も用意するつもりです。あなたの部下は失敗したことになるかもしれませぬが、代わりにあなた自身の手で新たな、もっと大きな話を手に入れる。どうです?」


 ムルグイヨと原石と見比べ、メルラドは口の両端を吊った。


「どう調べたのかしらんが、あの娘よりヒトについて分かっているようだな。面白い」

「ええ。あの娘は愚かすぎる。あれを渡せば竜の恥になるわけですな」

「貴様に協力すれば私は富と名声を得る。ズィークスは交渉の失敗を糾弾される、と」

「そうなりますな。よい話でしょう?」

「実にいい話だ。耳障りが良すぎて鳥肌が立つ」


 メルラドは悪い笑みを浮かべて肘掛けに片肘をつき、握った拳に頭を預けた。力を込めた両眼で黒衣の男の目玉を見つめ、そして、原石を上着のポケットに押し込んだ。

 ムルグイヨは乱杭歯を剥き出し、引き攣るような笑い声を立てた。


「実にいい選択ですな。あなたが話の分かるヒトでよかった」

「当然だ。私を誰だと思っている? 上級調停官メルラド・デュエン・ニェーツク様だぞ? この私より話のわかる奴がいるか? いるわけがない!」


 言ってメルラドは開いた右手をムルグイヨに突き出した。一瞬、戸惑う素振りをみせたムルグイヨだったが、すぐに思い出したようにその手を――握ろうとした瞬間。

 メルラドは素早く手首を返し、埃を払うように振った。


「貴様、臭うぞ。さっさと出て行け。仕事の邪魔だ」

「――ッ!?」


 歪んだ顔をさらに歪めるムルグイヨに、メルラドは上着のポケットを叩いて続けた。


「時間外かつ約束もないからな。こいつは相談料に頂いておく。せっかく私の国に来たんだ。帰りに時計というものを買っていくといい。次からは無駄な出費をせんで済むぞ」

「ニンゲン! 断るつもりか!?」

「そうだ。ついでに出ていけとも言った。臭い、ともな」


 ムルグイヨの発する音圧に髪を乱されながらも、メルラドは余裕の表情で続けた。


「考えてもみろ。見せられた現物はこれっぽっちの原石で、後は全部口約束だ。しかも相手の素性はよく分からん。クソ生意気だが腕は立つズィークスと、腐った魚に香水をかけたような臭いがするアホの貴様と、どっちを取るのが賢い? 考えるまでもない」

「……縁談が上手くいくとは――」

「上手く運ぶに決まってる! お前が来たのが何よりの証拠だ! いいか? そんなに止めたければ、なぜ私のところに来たんだ? 考えられる理由は三つしかない!」


 メルラドは手の甲を見せるようにして指を三本立て、親指から順に折り曲げていく。


「一つ、ズィークスに追っ払われた。二つ、あの娘に断られた。三つ目はこうだ。自分ではあの二人を説得できないから、この私に頼もうとした。つまり、あの娘を取り返したい貴様にとって、事態はよろしくない方向に推移している!」


 勝ち誇るかのような片笑み。


「『相手の損はこちらの得』。このメルラド様の言葉だ。覚えておけ、空飛ぶ蜥蜴とかげ

「……今この場で噛み殺してやってもいいのだぞ? ニンゲン」


 歯を剥き出すムルグイヨに、しかしメルラドは馬鹿らしいとばかりに首を振った。


「やれるものならやってみろ。貴様らの集落についてはすでに報告を受けている。数は減り、力は衰えるばかり。私を殺せば戦争だ。それでもできるか? できるわけがない!」


 メルラドは上級調停官の地位を示す天秤の襟章を見せつける。


「この襟章をつける私は、国だ。国家だ。どこだか知らんが島で遊んでるような蜥蜴には分かるまい。だから教えてやろうじゃないか。私という国は、たとえどんなに卑しい異種族であっても、自由という名の権利を与え、守ってやるのだよ。私の得になるならな!」


 ムルグイヨの、握り固めた拳が震えた。


「では、私の要請は聞かないと――」

「しつこい奴だ。さっきからそう言っている。……そういえば竜には耳がない奴もいると報告にあったな。貴様のその顔面では耳も悪いのだろう。聞こえるように言ってやる」


 メルラドは息を大きく吸い込み、大声で、ゆっくり、言った。


「さっさと、私の国から、出て行け。薄汚い、空を飛ぶ、蜥蜴め」

「……やはり、ヒトと交渉なぞ、どだい無理な話でしたな」


 ムルグイヨの顔から表情が消え失せ、顔のあちこちに奇妙な斑紋が浮いた。


〈眠れ、眠れ、我が意のままに〉


 まるで地の底から響くような竜の声。メルラドが顔を歪めた次の瞬間、ムルグイヨの口から漆黒の霧が溢れ、執務室を闇で満たした。

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