第15話
現在の実家には当然ながらズィークスの部屋がない。荷物は客間に置き、すぐに宴席を兼ねた夕食となった。バカみたいに広い食堂で、場に似つかわしくない家庭的な料理を食べた後、自然とハシェック家御用達(になったらしい)味の割に強い酒が振る舞われた。
ルブラは出されたものは残さず平らげ、ズィークスは慣れない酒で早々に潰れる。
母マリナは「ルブラちゃんはたらふくまんまねぇ」と謎の言葉を繰り返し、姉のユリエは酒を瓶から直接呷りながら、別れた男の愚痴を吐き捨てていた。
「だからね!? げーじゅつはわたしのじんせーなの! わかる!? いのち!」
「はい。先程もそう仰っていました」
ルブラはただ一人、鋼鉄の胃袋でもってほろ酔いで耐えていた。この話を聞くのは今晩だけで五度目だ。一、二回は興味深く聞けた話も三回、四回と続くと頷くしかできず、五度目ともなると、どう相槌を打てばいいのかもわからなかった。
ルブラは話を変えようと、呻くズィークスを横目で覗き、ユリエに尋ねた。
「ユリエ。私はズィークスに相応しいでしょうか」
途端、ユリエだけでなくマリナも固まった。いささか深刻に過ぎる話題だったのか、顔を見合わせた二人はしばらく無言のやりとりをし、こちらに向き直った。
「大丈夫よぉ、ルブラちゃんはたらふくまんまだもの」
と、クスクス笑うマリナ。
「しらにゃーい」
と、まるで参考にならないユリエ。
ルブラはぱちぱちと瞬き鼻で息をついた。食事の間は興味深い話もしてくれたのに、今はこの体たらく。古い記憶にある通り、酒というのは頭をダメにする飲み物らしい。
慣れると甘くて美味しいけれど、ズィークスにはあまり飲ませないようにしましょう。
心の底でこっそり決意を固め、ルブラは杯を空けた。マリナとユリエが、おおー、と小さく拍手した。特に何かしたわけでもないのに、なぜか少し楽しくなった。
空になった杯に酒を注ぎ足しながら、マリナが思い出したように言った。
「あ、でも、ズィークスに好かれる方法なら分かるかもしれないわぁ?」
「本当ですか? ぜひ教えてください!」
杯の酒をこぼす勢いで食いつくルブラに、マリナはちっちっと指を振ってみせた。
「でもぉ、条件がありまぁす。私のことはお義母さんと呼ぶことぉ。いいですかぁ?」
そう舌っ足らずに言って、くふくふと笑った。かなり酔っているらしい。酩酊だ。
「お義母様、教えてください」
しかしルブラもほろ酔いで、その呼称がどういう意味か深く考えずに答えていた。
マリナは紅潮した頬をにへら~っと緩め、上体をくねくねと左右にくねらせる。
「ん~やったぁ~。私、ルブラちゃんみたいな優しくて可愛い女の子が欲しかったのよぉ」
「ぬあっ!? わたしはかーいくないってか!?」
ユリエが酒気で濁った目で睨むも、マリナは構わず続けた。
「お義母さんの言うことを聞いたイイコのルブラちゃんにはぁ~、ズィークスに好かれる方法を教えちゃいましょう~。それはぁ~」
「それは?」
ルブラがぐいっと身を乗り出す。
「甘えちゃうことなの!」
声高に宣言しマリナは勢いよく杯を突き出した。ちゃぱっと溢れた酒が食卓を汚した。
「ズィークスは末っ子だからね? 弟か妹が欲しかったはずなの! つまりぃ、お兄ちゃんになりたかったのねぇ~。だから、いっっっぱい! 甘えるといいのよ!」
「甘える……なるほど」
いまいち意味がわからないなりに頷いていると、ユリエは急に白けた目になった。
「まったく。これだからかーさんは」ユリエは手近な布巾で食卓を拭いた。「わたしらはたまったもんじゃないよ。とーちゃんにぞっこんでまわりがみえてないんだもん」
途端にぶーたれるマリナ。実の姉に言わせれば違うらしい。
「では、ユリエはどうしたらいいと思いますか?」
尋ねられるや否や、ユリエはドンと食卓に肘をつき、不敵に笑った。
「ふふふ。しりたいかい、るぶらちゃん。おしえてもいーけど、じょーけんがあるのだよ」
「どのような条件でしょうか」
「わたしのことをおねーちゃんとよぶのだ! さすればなんじに、ちをあたえん!」
「お義姉様、教えてください」
即答。ユリエはおふっ! と口元を押えた。
「なんたるびせい! そーぞーいじょーのかりょく!」
ユリエは口の端を手の甲でじゅるりと拭った。
「わがやはずぅーっと、びんぼーだったのだ! がんばってはたらくだいにーちゃんと、しょーにーちゃんをみて、ずぃーくんは、てほんにしたんだなー……」
「つまり……?」
深まる緊張、つまらなそうに杯を空けるマリナ、ルブラはぐぐっと前のめりになった。
ユリエの酒気で濁りまくった目が、キラン、と光った。
「あまえたい! るぶらちゃんのほーまんなおっぱいにとびこみ、ままーってしたい!」
「……ママ?」
ルブラは首をかくんと首を傾げた。視界が揺れた。母と姉で言うことがまるで正反対である。甘えられたくて、甘えたい。相互矛盾。二律背反。表と裏だ。
結局、私はどうしたらいいのでしょう? とルブラは食卓に突っ伏すズィークスを見つめる。
天海の底に来て以来、甘えた記憶はあっても甘えられた覚えは――いや、何度か竜の掟に背く彼を許したのだから、甘えさせたと言ってもいいのでは。
悶々と思考の堂々巡りを繰り返しながら、ルブラは酒のつまみにと出された《星の欠片》を二粒ほど口に放り込み、噛み砕き、並々と注がれた酒を飲み干した。
「分かりました」
ルブラは、ひっく、としゃっくりをしつつ、決然と言った。
「甘えながら甘えさせてあげる方法を教えてください」
見た目は素面だが、しっかり酔っ払っていた。
ユリエとマリナは顔を見合わせケタケタと笑いあい、「よろしい!」と声を揃える。
「この、おねーさまが!」「この、お義母様が!」
「みっちりじっくり! 教えてしんぜよう!」
そうして、ハシェック家の暖かい夜は更けていった。
ゆらり、ゆらり、と水面を揺蕩うような微睡みのさなか、酒の匂いに混ざる若草の香りを嗅ぎ取り、ズィークスは瞼を空けた。霞む視界。二度、三度と瞬く。目の前で二つの小山が上下していた。いわゆる、お姫様抱っこだ。抱えられているのはズィークスだが。
……なぜに? と顔を上げると、気づいたルブラが眠そうな紅い瞳をこちらに向けた。
「大丈夫ですか? ズィークス。もう部屋に着きますよ」
「……ああ、うん……大丈夫は大丈夫なんだけど……なんで俺が運ばれてるんだ?」
「お義姉様に、甘えさせてあげるように、と言われましたので」
不覚。酔いつぶれている間に何があったというのか。お義姉様なる奇妙な呼称はバカ姉ユリエが何かしらの手練手管で言わせたに違いない、が。
甘えさせてあげるとは。
困惑するズィークスをよそに、彼を抱えたルブラは普段より幾分かふらついた足取りで廊下を進み、器用にもそのまま客間の扉を開いた。
部屋は真っ暗だったが、ルブラの目は見通せているのだろう。ズィークスの躰をベッドに横たえ、彼の靴紐を解き始めた。
「……で、次は何をしてもらえるのかな?」
酒気が残るせいだと自分に言い訳し、少しばかり尊大な口をきいてみる。悪くない。これって俺が甘えてるのか? と、いささかの疑問はあるものの、何から何まで人の手でしてもらえるとなると、まるで王様になったようでもある。
しかし、少し待ってください、というルブラの声に続く衣擦れの音に、酔いが冷めた。
ベッド、甘える、衣擦れの音――単語が繋がり、一つの行為を連想させる。
――だが、実家だ。
それに早い。早すぎる。せっかく苦しい思いをして貧民街のクソガキをやめたのに結婚前に致すなんてありえない。神などという狭量で融通の利かない冷血漢は信じちゃいないが、竜に処女信仰があったらどうする。
パサリ、と布が落ちる音が聞こえた。ズィークスは慌てて躰を起こした。暗闇の中で薄ぼんやりと識別できるのは、紅く輝く双眸だけだった。
「待ったルブラ! そういうのはまだ――」
「失礼します」
と、頭を下げる気配。
「えいっ」
ぼすん、とルブラがベッドに飛び込んできた。勢い押し倒されたズィークスは、胸のすぐ脇に大きく柔らかな二つの感触を感じた。耳元に吹きかけられる甘やかな香りの熱っぽい息。胸が張り裂けそうなほど強く心臓が脈打った。
ズィークスは生唾を飲み下し、恐々とルブラの背中に手を回す。
――あれ?
紐の感触があった。緩められてはいるが、脱いだわけではないらしい。
「えっと……ルブラ?」
「お義母様に聞いたのです。女の子はうんと甘えたほうが可愛いのだとか」
あのバカ母娘、何考えてんだ? と口の中で呟き、ズィークスは枕に頭を押しつけた。助かったような、残念なような、薬入りの餌の前で待てと言われた犬のような気分だった。
もぞもぞと躰をくねり、ルブラは自らの足をズィークスの足に絡ませた。
「どうでしょうか? 可愛いですか?」
ふいに放たれた一言に、ズィークスは思わず笑った。
「……もちろん可愛いよ」
他にどう答えろというのか。甘えるとか、甘えらえるだとか、そんなことはどうでもいい。言われたことを律儀にすぐ実践しようとするあり方が、何よりも愛おしかった。
「でも酒が抜けると冷えるから……入ろうか?」
「私は寒くありませんが……ズィークスがそうしたいのなら」
ルブラは抱きつく腕の力を少し強めた。
「私に抱きついてもいいですよ? 私も温かいのは好きです」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
ズィークスはルブラの首の下に腕を通し、細い躰を強く抱きしめた。
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