第14話
ヒトはどうして時間をかけて旅をするのでしょう?
そんなことを思いながら、乗合馬車の客車で揺られるルブラは、隣に座るズィークスを見つめた。ふと顔を上げた彼は目が合うと、もう少しだからと唇を動かした。
旧・無名戦士の記念碑で過ごした夜から一週間後、二人は馬車を乗り継ぎながら、公国北東部に位置するズィークスの故郷に向かっていた。空を泳ぐのに比べると、地形に左右される馬車の歩みはひどく遅く感じる。しかし、馬車に揺られるのも旅の醍醐味だからと言われると強く言い返せなかった。
まぁ、ヒトの暮らしを見て回るには、この方が都合もいいのですが……。
ルブラはふぅと息をつき、首を巡らす。風が少し冷たくなってきていた。針葉樹の林を横目にまっすぐと伸びる土の道。どこか天海島を思わせる静かな風景に、ヒトの気配は驚くほど少ない。旅に出る前は首都のような街が延々と続いているのかと思っていたが、どうやら街と街の間にはほとんど何もないと言ってもいいようだ。
できれば、ヒトの暮らしの素晴らしさを伝える何かがあってほしかった。本当にズィークスと結婚したければ古竜を説得しなくてはいけないのだ。
しかし、ズィークスの故郷は遠いらしく、街についてもすぐ次の馬車に乗り、夜であれば宿に泊まって朝一番に出るという繰り返しである。しかも、彼は道中ずっと紙に何かを書きつけていて、邪魔をできる雰囲気ではなかった。
旅の面白さ……ヒトは難しいものですね……。
と、退屈を持て余したルブラはズィークスの肩に頭を預けた。なんとはなしに手を取りむにむにと押してみる。同乗の老婦人が、まぁ仲のおよろしいこと、と微笑んだ。二言、三言、言葉を交わす。うとうととしてきたルブラは指を絡めて瞼を閉じた。
どれほど眠っていたのか、ズィークスに肩を叩かれて目を開けると、道のすぐ先に夕焼けに染まる石造りの町並みが見えていた。
荷物を受けとるから待つようにズィークスに言われ、ルブラは往来の邪魔にならないよう少し先に進み、他の客を真似て両手をぐっと上に伸ばした。新たな献上品、特急でお直しをした旅装束はよく躰に馴染み、動きにくさを感じさせない。
その日の気分に応じて好きな鱗を選び、身に纏う。天海島のように誰かに笑われるようなこともなく、時には褒めてもらえる。こうなってくると、旅から帰る頃には仕上がっているという一から仕立てた服も待ち遠しかった。
まだ見ぬ服の仕上がりを想像してルブラが躰を揺らしていると、
「悪い、遅れた。あとはあいつに乗ったら、もう俺の家だよ」
背後から声をかけてきたズィークスが、二人乗りの小さな馬車を指さした。
馬車が自宅に近づくに連れ、ズィークスは気が重くなってくるのを感じた。最後に家に帰ったのは石工をやめてメルラドの元を訪ねる前で、そのときはまだ貧民街にあった。
仕送りで始めた《星の欠片》が当たり、今は高級住宅に移っているらしいが、はたしてあの賭け事狂いの父がまともに商売なんかできるのだろうか。
ズィークスは思い切り深く息を吸い、細く、長く吐き出した。
「大丈夫ですか? 気分が悪いのなら馬車を降りたほうがいいのではないですか?」
家族に会いたいとおねだりした張本竜が、ズィークスの服の裾を引いた。
「……ちょっと疲れただけだから、そんな心配そうな顔しなくていいよ」
乗り合い馬車でのお返しとばかりにルブラの両頬をつまむ。むにむにと動かし、笑顔を作った。されるがままのルブラは不思議そうに紅い瞳を瞬いた。
まぁ心配してくれてるときの顔も、俺はけっこう好きなんだけど。
そんなことを言おうとしたとき、馬車が止まった。
「さ、降りて。まずは俺の家族にルブラを紹介しないと……って、なんだこれぇ!?」
馬車を降りたズィークスは、予想だにしなかった我が家の姿に頓狂な声を上げた。
豪奢な鋳鉄の門扉の奥に庭が広がり、そのまた奥に、いったいどこから採ってきた石で建てたのか白亜のお屋敷があった。住所を間違えてやしないか、とズィークスは門柱の紋章を確認する。一つはハシェック家を示す戦鎚と剣で、もう一つは金槌、つるはし、片耳を折った兎耳の組み合せ。《兎耳の兄弟団》の紋章だ。間違いない。我が家だ。
ま、まぁ、《星の欠片》は高級菓子らしいし、家ぐらいは建てるわな……?
仕送りで事業を始めて大成功――故郷からの手紙で知ってはいたが、クソ親父が話を盛りに盛ってるだけだろうとタカをくくっていた。まさか、これほどの成功だったとは。
「……どう考えても、俺の仕送り、もういらねぇだろ……っ!?」
「まぁ。ズィークスの巣より大きいのですね。すごいです」
暢気で無自覚かつ無慈悲な指摘にズィークスはがくんと首を垂れた。しれっと仕送りをもらい続けてきた実家にふつふつと怒りを沸き立たせながら門扉を押す。錠は下りていなかった。《兎耳の兄弟団》の紋章が泥棒よけになっているのだろうが、それにしても。
「門番くらい立てろよ! 大金持っても使い方が分からねぇんじゃ意味ねぇだろ!?」
「ズィークス?」
「なんでもない!」
心配するルブラに荒っぽく返し、庭に足を踏み入れる。と、今度は硬い石を
ガン! ガン! ガン! と若干の怒りを込めて打ち鳴らしたものの、扉の奥から聞こえてくる石打の音に負けているのか、誰も出てくる気配がなかった。
「…………っああああああ! 誰か出てこいっつの! 息子が帰ってきたんだぞ!?」
今度は力任せに、扉すら破壊する勢いでドアノッカーを鳴らした。屋敷内の石を打つ音が止み、荒々しい靴音が近づいてくる。殺気――いや、怒気。
ズィークスは嫌な予感を察知して数歩飛び退る。ほとんど同時。
「うっさいわボケェェェェ!」
庭に響き渡る怒声とともに、屋敷の扉が蹴り開かれた。
ズィークスとは似ても似つかぬ小柄で可憐な雰囲気の女性だった。もっとも、頬についた大理石の白い粉と、色気もへったくれもない作業エプロンと、革手袋にゴツい金槌という出で立ちが、可憐さの全てを台無しにしているが。
ユリエ・ハシェック。街でも変わり者と評判の、ズィークスの姉である。
ユリエは両手を腰に置き、眉をがっちがちに寄せ、ズィークスの顔を睨め上げた。
「なんだぁ? うすらデッカい奴だなぁ? 金の無心なら――」
「ちげぇよ! 俺だ! ズィークスだよ! てかなんで姉ちゃ――姉貴がいるんだ!?」
手紙でしか知らないが、姉のユリエは金持ちで物分りのいい男を見つけたはずだった。
「あ? ズィークスぅ? ウソつけ! ズィー君はねぇ! こーんな」
ユリエは金槌を自分の腰くらいの高さに伸ばし、ぶんぶん振った。
「ちっさい! かぁいい子だっつの!」
その想像上のかぁいい子の頭を金槌でぶっ叩くな、とズィークスは思った。
「まぁ。ズィークスはそんなに小さかったのですか?」とルブラ。
「いっ――ち、違うって! そんなのはガキの頃! それこそ石工になる前だよ!」
ほんのり頬を染めて訂正し、ズィークスは戦鎚の長柄をユリエに突き出す。
「ほらこれ! 俺が貰ってった、爺さんの形見だよ!」
ああん……? と、なおも訝しげな様子でユリエは柄を握り、ひょいと持ち上げた。柄頭をじっくり眺め、目をまん丸く見開き、やがてぷるぷる震えだした。
「マジ? ズィー君? お、お、お……おかえりぃ!」
ユリエは叫ぶと同時に戦鎚をほっぽり、撃ち出された砲弾のごとくズィークスの胸に飛び込んだ。鈍痛。ほとんど頭突きだ。肺から息が絞られ、ぐぼぉあ、と変な声が出た。
「た、ただいま。姉貴。で、なんで家にいんの? 婚約したとか結婚したとか――」
「あ?」
ユリエは胸から顔を離して言った。
「だめだったわー、あの男は。一緒に住み始めたのはいいんだけど斫る音がやかましいから止めろとかふざけた……って、あれ!?」
ユリエはとーんとズィークスを突き放し、片手で顎をなでつつルブラに近づく。
「あれあれあれあれ? ほぉ? ふーん?」
品定めでもするかのような目をしてルブラの周囲をぐるぐる回り始めた。
ルブラはしばらくそれを目で追い、どういうつもりかフードを下ろした。すると、
「ぬぁ!? すげぇ美人! てか背ぇ高! おっぱいでか! 腰細! 何この子すご!」
実の姉のあまりに下品な驚嘆の声に、ズィークスは早くも目の奥に痛みをおぼえた。
「姉貴。失礼だろ? まずは――」
「母さーん! やばい! やばいよ! ズィー君、すんげぇ美人を拐って来た!」
こめかみを揉むズィークスを完全に無視してユリエは屋敷の中へ叫んだ。
「違ぇよ! 誰が誘拐なんぞするか!」
「ウソだぁ! ズィー君、女の子についてはからっきしだったもん! 母ーさーん!」
目眩を覚えたズィークスは、騒ぐユリエをひとまず放置し、ルブラに言った。
「あの、ごめん。俺の家族、皆こんな感じで……」
「大丈夫です」
ルブラはにっこり微笑んだ。
「とても元気で、可愛らしい方ですね」
「可愛い!? とんでもない。姉貴には――」
小さい頃ずいぶん泣かされたのだと続けるよりも早く、屋内から、がしゃーん、と何かを割り砕く音やら、ドタンバタンとなぎ倒す音やらを立てつつ、女性が飛び出てきた。
「ズィークス! とうとう人さらいになったの!?」
母、マリナ・ハシェックである。小柄で童顔、母娘だから当然ではあるが娘のユリエとよく似た雰囲気である。右手の木杓から察するに夕食の支度をしていたらしい。掃除だけで一日が終わりそうな屋敷なのに使用人はいないのだろうか。
匙より重たいものは持ちたくないと金槌片手に宣言した祖母とはまるで異なる母に、貧乏生活が躰の芯まで染みちまってるのかなぁ……と、ズィークスは情けないやら頼もしいやら、奇妙な感慨を抱いた。
マリナはルブラの顔をじっと見、胸を見、腰を見、ズィークスに木杓を突きつけた。
「ズィークス。返してきなさい。いくらなんでも女の子を拐うのはまずいわ?」
「だから拐ってねぇっつの! なんなんだよ二人とも! 俺を何だと思ってんだ!?」
マリナとユリエは顔を見合わせ、揃って首を傾げ、やがてこちらに向いて声を揃えた。
「ヤクザ?」
「ちっげぇわ! 泣く子も黙る調停士様だわ! つか親父と兄貴達はどうした!?」
「父ちゃんも兄ちゃんもズィー君からの手紙見て急な仕事に」ユリエは飄々と言った。
「で、父ちゃんは『俺は
天を仰いだズィークスは星空に父と二人の兄を幻視した。なんなんだあいつら。
「……もうなんでもいいから、とりあえず俺とルブラを家に入れてくれ……」
「まぁ! ルブラちゃんって言うのね!?」
マリナがポンと手を叩いた。
「よろしくね、ルブラちゃん。私は――」
「いいからさっさと家に入れろ!? 腹減ったわ!」
ズィークスの叫びが、月明かりに照らされる小さな庭に響き渡った。
やかましくも懐かしいハシェック家の夜は、そうして始まった。
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