第12話
上級調停官メルラドに休暇を与えられてから、三日。
休んでいるはずの一級調停士ズィークス・ハシェックの執務室では、今日もヒトにしか見えない竜ルブラと、文化獣人類学者が談笑――もとい、調査をしている。
その対角線上、部屋の主の席では、当人が羽ペンを片手に書類と格闘していた。
「……ああもう! ズィークス! なんで今日もいるんですか!?」
商業区での調停調査を終えてから出勤してきたボナエストは、ズィークスに朝の挨拶をして席につき、しばらくペンを動かしてから、叫ぶように言った。
「うぉあ!?」
狼類獣人族の声はよく通る。椅子からズリ落ちかけたズィークスは、目をぱちくり瞬くルブラとナーリムに大丈夫だと片手をあげた。
「な、なんだよ。どうした? 調停調査、上手くいってないのか?」
「調査は順調ですよ。恐ろしいほどに。ズィークスの口利きのおかげですよ!」
「は、はぁ? 口利き? 俺はそんなことは――」
「いいんですよ、それは! 口止めが甘いのはいつものことですし感謝もしてます! そうではなくて、あなたのことです! 休暇を頂いたんですよね!?」
滅多に見れないボナエストの剣幕にズィークスは口を噤んだ。そわそわしだすルブラを見てナーリムが声を落とせとばかりに手を上下した。
「……失礼しました」
ボナエストは両手を小さく挙げ、深呼吸した。
「もう大丈夫です」
「やー……休もうとは思ってたんだが、その前に積み残しを、な?」
獣の耳がピンと立っているので怒っているのは丸わかりだが、あえて言及はすまい。仕事の積み残しがあるのも本当で、幸いにもルブラの竜の証拠集めはナーリムに任せられるし、この三日間で一気に片付けようと目論んでいたのだ。
「せっかくの休みで天気もいいのに、何でデートの一つもしないんですか」
ボナエストは眉間の皺を揉みほぐしつつ、情けないとばかりに息をついた。
「で、デートって……してるさ。今日だってこの後――」
「食事に行って、街をプラプラ歩いて、家に戻るんですか? 三日も四日も同じことを繰り返す気なんですか? 仕事してんじゃないんですよ!?」
徐々に声が大きくなっていく。仕事も半分入ってんじゃん、とはたとえ口を裂かれたとしてもいうまい。それをいえば全て終わりだ。とはいえ、
「俺に、他に、どうしろと?」
「――ッッッッ、ハァァァァァァァァ……」
ボナエストは
「ルブラさんは、ズィークスに連れて行って欲しいところとか、ありませんか?」
「私ですか?」
ルブラはかくりと小首を傾げた。
「私はズィークスが連れて行ってくれるのなら、どんなところでも構いません。繰り返しの中にも見るべきところはあります」
おおう、とナーリムが小さな歓声を上げ、ボナエストが感慨深げにうんうん頷く。
紅玉のように輝く慈愛、丸眼鏡越しの期待、そして獣の如き鋭い眼光。三者三様の眼差しを受け止めきれず、ズィークスは窓の外に目をやった。
青空も高く、散歩するにはうってつけではあるが――、
難しいんだって。実際。
仕事と恋の狭間。ヒトと竜の狭間。男と女、あるいは雄と雌。
この深い溝を飛び越えた先人たちは、いま何を思っているのだろうか。たとえば貴族の娘と結婚させてしまった半獣人は、恨んでいたりするんだろうか。まさか意趣返しとか?と、ズィークスはちらりとボナエストの横顔を覗いた。耳がへたりと横を向いていた。
「……最近、嫁さんとはどう?」
「いきなり何ですか」
ピン、と耳が立ち上がった。
「……よくやっているとか順調だとかそういう言い方は好きじゃありませんが、彼女の家の話を除けば概ね良好ですよ」
「あぁ……まぁ、貴族じゃなぁ……って、そういうことじゃなく」
「そういうことじゃなく、なんですか?」
漂い始めた奇妙な緊迫感にナーリムとルブラが顔を見合わせ、ズィークスを見つめる。
「……なんと言ったらいいか、こう、嫁さんのことをだな……」
「愛してますよ。当然でしょう」
さらりと言って、顔で選ばれたらしい妻帯者は書類仕事に戻った。まぁ、とばかりに口元を手で隠すルブラ。ナーリムの押し上げた丸眼鏡のフチが、光った気がした。
――踏み出した者だけが機会を得る……か。
賭け事狂いだったズィークスの父が、大損ぶっこく直前、必ずほざいていた言葉だ。
しかし、時と場合が違えば正しくもある。
ズィークスは負けたとばかりに諸手を上げた。
「ルブラさん、ちょっと早いですが昼食にして、少し遠出しましょうか」
「遠出、ですか?」
不思議そうに首を傾げたルブラだったが、すぐに小さく頷き、ナーリムに言った。
「そういうことらしいので、今日はこのくらいでよろしいでしょうか?」
「もちろんです!」
ナーリムは古ぼけた本をいくつかルブラに差し出す。
「じゃあ、この中から気になった本を読んで頂いて、感想をお願いできますか? 分からない単語があったらズィークスさんに聞いてもらえば大丈夫なので……」
「では、これをお借りしますね」
ルブラは『英雄ヨーグ』を抜き取り、大事そうに胸に抱えた。
*
そうしてズィークスとルブラが執務室の外に消え扉がバタムと閉まると、主を失った部屋には乾いた紙の擦れる音と羽ペンを操る硬質な音だけが残った。
ふいに、ボナエストが言った。
「――ところで、少し意外なのですが……ナーリムはあの二人を見ても冷静なんですね。私はもっと慌てるのかと思っていましたよ」
「……冷静? 冷静ですか……?」
書類整理の手を止めたナーリムは、力を溜めるかのようにプルプル震え――、
「冷静でいられるわけないじゃないですかァ!!」
ドバン! と感情を爆発させた。火山の噴火の如き勢いにボナエストが仰け反る。巻き上げられた書類が噴煙よろしく舞い落ちるなか、ナーリムがズビシ! と指を伸ばした。
「竜ですよ!? 竜! 伝説が今! 目の前に! 私ぁ、私ぁもう、大・興・奮!!」
文化獣人類学の歴史を覆す知見が山ほどあるのだという。すべてがルブラの証言に依っているのが苦しいところだが、彼女が竜だと断定できればそれも変わる。魔国で流行中のボードゲームのように、黒から白へと、すべてがひっくり返るのだ。
そう熱っぽく語るナーリムに、ボナエストは冷めた目を向ける。
「そっちですか。てっきりナーリムはズィークスを好きなんだとばかり……」
「へぁ?」
ナーリムは途端に冷静になった。
「……まぁ好きは好きですけど……好きの意味が違うと言いますか。あ、でも、ボナエストさんが勘違いするのも分かりますよ。狼類獣人族は典型的な『男女の交友は番うため』とする文化をお持ちですからね」
「……兄弟でもない男女が長く一緒にいて何にもならないとは、不思議ですね」
「アッハッハ! 分かっていませんねボナエストさん!」
ナーリムは高らかに笑いながら背後の本棚に振り向き、ズバッと腕を広げた。
「私が最も長く一緒に過ごしてきた男性は彼らですよ!? 肩を並べるなら彼らの傍です!」
「……そこは、せめてヒトであってくださいよ……」
ボナエストは呆れたように首を振った。
*
首都オレグの南門をくぐり、農場へ戻る馬車に同乗させてもらって少し。そこから土の街道を外れて草原に入り、ズィークスとルブラは丘を目指して歩いていた。
「――もうそろそろですよ、ルブラさん。足は大丈夫ですか?」
「はい。ズィークスも靴を脱いでみたらいかがですか? 柔らかくて気持ちいいですよ?」
脱いだブーツをつまみ持ち、ルブラは青々とした草の感触を楽しむようにぴょんと小さく跳ねた。拍子に赤い髪が揺れ、若草の香りがした。この辺りなら人目も少ないからと黒外套のフードも下ろしていて、傍から見れば城を抜けだして野原で遊ぶ姫君だ。
「せっかくのお誘いですが、靴が無いといざって時に動けないので遠慮しておきます」
首都近郊ということもあって長閑なようにも思えるが、野盗や獣が出ない土地など半島には存在しない。忌み子だなんだと天海島では不遇の扱いを受けているらしいが、ルブラは大事なお客様である。そして姫君をお守りするのは騎士の努め――。
自分の発想に自分で照れて、ズィークスは戦鎚を吊る革帯を締め上げ、走り出す。
「ついて来てください! あの丘の向こうです!」
「あっ! 待ってくださいズィークス!」
慌ててルブラも足を早め、二人は一息に丘を駆け上る。
一足先に丘の頂に立ち、ズィークスは眼下の風景に頬を緩めた。少し息を弾ませながらやってきたルブラも肩を並べ、丘の下の光景に目を瞬く。
見渡す限りの花畑だ。まさに百花繚乱、咲き誇る草花は当地の植生でない品種もある。
「どうです? ここが俺のお気に入りの場所です」
「……すごい……。とても、とても――」
――美しい場所ですね。
そんなうっとりとした声音を期待したズィークスだったが、竜の姫君は一味違った。
「とても美味しそうですね」
ガクン、とずっこけかけるも、ズィークスはすぐにルブラの食性を思い出す。普段は干した竜草やらを食べているのだから、紅い瞳は花畑を飯場として見るに決まっていた。
「――でも、綺麗だとも思いますよ?」
ふいに続いたルブラの声に顔を上げると悪戯っぽく輝く紅い瞳があった。
「顔に書いてある、ですね。竜を相手に隠し事をしようだなんて、無謀ですよ?」
隠し事という単語にズィークスはさっと顔を強張らせる。またしくじった。最近はボロが出ないようになってきたのに気を抜くとすぐにこれだ。
身を縮こまらせるズィークスに、しかしルブラはゆるゆると首を左右に振ってみせる。
「そんなに怯えないでください。大丈夫です。私も、少し、変わってきたのです」
「変わってきた……?」
「はい」
ルブラは深く頷き、花畑の奥に見える石碑を指さした。
「でもまずは、あそこまで行ってみたいです。今度は負けませんよ?」
「へっ? えっ? いやあそこは慰霊碑――」
――だから騒がしくするのは、というより早くルブラは駆け出していった。しかも、
「早っっっ!?」
本でも読んで覚えたのか、スカートの裾をまくった竜の姫君の背中はみるみる内に小さくなっていく。力は抑えているのだろうが、とても追いつけそうにない。とはいえ、
諦めたちまったら興醒めか。
ふっと微笑を浮かべたズィークスは戦鎚を背負い直し、力の限り駆け出した。
彼のお気に入りの場所――五十年前、半島全土を巻き込んだ戦争の、最激戦地の一つ『旧・無名戦士の記念碑』の時間は、ゆっくりと過ぎていく。
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