第10話
ズィークスが苦笑交じりに執務室まで戻ると、廊下に明るい声が漏れていた。はしゃいでいそうなのは一人しか思いつかない。飛んでくるであろう声に身構え取っ手を引く。
「あ、ズィークスさん! すごいですよルブラさん! 一目で文字を覚えちゃうんです!」
一から十どころか百くらいまですっ飛ばしたナーリムに、ズィークスは頭痛を覚えた。
「……面白いのはわかったから最初から説明してくれ」
ナーリムは面食らった様子で間を取り、矢継ぎ早に言った。
「竜は文字を持たないそうなんですよ! どうも魔法を使う道具として使い勝手を良くするために人間が文字起こしをしたみたいなんです! だとしたらすごくないですか!?」
いったい何の話かという疑問は諦め、話に乗っかることにした。
「竜言語を正しく発声できる人間なんてほとんどいないしな。ありえる話だ。気になるのはなんで竜が文字を作らなかったか……」
「私たちには必要なかったからじゃないかと、ナーリムが」
ルブラは少し楽しそうに言いながら、手元の本に目を落とす。
「私達は見たものをすべて覚えていられますから、形として残す意味がなかったのではないかと言うのです。面白いですね」
なるほど? と相槌を打つズィークスに、ボナエストが尋ねた。
「ところでズィークス、メルラドはなんと?」
「『休め』だそうだ。始まりは今日で、終わりは未定」
やるべきことは変わらないのに、いざ命令されると途端にやる気が削がれる思いだ。
命令書の収まるポケットを撫でると、腹がぐるると鳴った。ルブラは不思議そうにズィークスの腹を見、ボナエストとナーリムは眉をぎゅっと寄せる。
「休暇について聞きたところではありますが……ズィークス、昨晩はどちらで夕食を?」
一瞬にして血の気が引いた。すっかり忘れていた。
「……ルブラさん……お腹、空いてらっしゃいます?」
「お腹、ですか?」
ルブラは目をぱちくり瞬き、腹を手で擦った。
「どうなのでしょう? 私は空腹というのがどういうことなのか、よくわからないのです」
「それは……どういう……?」
「竜ですから」
言ってにっこり微笑むルブラ。
「ああ、なるほど。竜ですもんね……?」
つられて微笑み返すズィークス。
穏やかな沈黙が十秒。傍観していたボナエストとナーリムが揃って声を荒らげた。
「竜ですもんね、じゃありませんよ! 食事くらいはマトモにとってください!」
一級調停士は激務である。なかでも、ズィークスは仕事を始めると寝食を忘れがちになり、常日頃から部下二人に『せめて食事はニンゲンらしく』と説教されていた。
「……今後のこともありますし、お二人で昼食をとられては? 竜は何年も食べなくても生きていけるのかもしれませんが、ズィークスは三日も食べなければ倒れますよ」
ごもっともで、とズィークスは唇の両端を下げ、ルブラに聞いた。
「というわけですので、俺の食事にお付き合いしていただけます?」
「もちろんです。ズィークスがどのようなものを食べるのか、とても興味があります」
それはヒトの食性という意味なのか、それとも俺の食性という意味なのか。もし後者であれば、なんとなく嬉しい気がする。すぐに押えられる店で一番洒落ているのはどこだろうかと頭を巡らすズィークスに、すかさずボナエストが耳打ちした。
「ズィークス。初デートですよ。仕事は忘れてください」
「……何を言い出すかと思えば……」
勘の鋭い部下のやけに真剣な目を二度見した。デートて。単語を心中で反駁する。
……デートって、何するんだっけ? 何を話すんだっけ? というか、どういう店が望ましいんだ? あれ? ヤバくね?
じわじわと顔を硬くしていくズィークスに、ナーリムがそっと紙片を渡した。
『竜に嫌われないために。一、嘘はつかないこと。二、隠しごとはしないこと……』
掌に隠れるサイズの、安直としか思えない竜との逢い引きガイドラインだ。だいたいもう知ってるわ、と紙片を握りつぶすズィークスに、ボナエストが小声で言った。
「気取らないことです。ルブラさんは、ただのズィークスが見たいんですから」
意地悪く片笑みを押しやり、ズィークスはルブラに言った。
「それでは俺と共に昼食に参られましょうか、ルブラさん」
たっぷり意識させられたせいか、奇妙な言い回しになった。聞こえたため息は無視だ。
街に繰り出してしばらく道なりに歩き、ズィークスは
「――何か食べられないモとか、食べたくないモノ、あります?」
デートなる言葉に翻弄されて遅きに失した感もあるが、極めて重要な質問だった。
あらゆる種族が共に暮すオーレグは、食事情も複雑怪奇に発達している。中でも肉食をよしとするか、許すにしても何の肉かの二点は避けられない話題だ。
「俺なんかは気にしないでどんな肉でも食べるんですが、獣人や半獣人には『同族に手をかけているような気がするから』って方もいましてね?」
いつしか首都の食事処は、肉食を排した菜食主義者向けの店と、すべての肉を平等に食らう店に分かれることになった。魔国との交流も盛んになった現在では、
「――で、肉食に抵抗がないなら、俺の行きつけの店に行きたいんですが……?」
「……尋ねられても困ります。私は天海の底の暮らしを掠れた記憶としてしか知らないのですよ? そこがどんなところでも私にとっては初めての場所なのです。ズィークスはもっと自信を持ってください。妻を取ろうという竜が自らを曇らせますか?」
ルブラは毅然として紅い瞳を光らせた。ぐうの音も出ないまっとうな意見だが、
――俺は竜じゃないんだけど。
自信をもって連れ回せといわれても、はいそうですか、とはいかない。
女性と街を歩いた経験すら乏しいのに、相手は人目を集めるほどの美人で、竜で、千年前からやってきた古代人も同じだ。
『気取らないことです。ルブラさんは、ただのズィークスが見たいんですから』
ズィークスの脳裏に妻帯者の助言が過った。悔しいが思い当たるフシもある。石工だ調停士だといっても所詮ズィークスは読み書きができるだけのチンピラあがり。メルラドに様々な作法を教え込まれたものの、付け焼き刃の域を出ていない。貴族の娘を妻に持つ半獣人と違い、ちゃんと気取れるはずがない。
ただの俺ね……と、迷った末に選んだ店は、普段から情報収集に使っている店だった。
名は『オレグの食卓』。夢と希望と料理の腕だけをもって田舎から出てきた店主が、首都の口うるさい食文化に怒りを抱いて開いたという。
店の入り口には『
そこはまさしく首都オーレグの縮図であり、調停公オレグの食卓に違いなかった。……おそらく、今は亡き先王は店の存在すら知らなかっただろうが。
「いらっしゃいませー……て、ズィークスさん! いつもありがうございますー!」
もこもことした頭から丸っこい角を生やす娘が、溌剌とした声で言った。桃色のエプロンドレスも愛らしい顔馴染みの看板娘で、店主の娘でもある。
「最近なかなか来てくれなかったから心配してましたよー」
と、愛想を振りまきながら伝票を出す娘だが、ルブラが黒外套のフードを下ろした瞬間、
「ズィークスさん……? ウチはデートには向かないお店だと思いますけどぉ?」
笑顔を凍りつかせた。どういうわけか娘の声は心なしか冷たい。
店の主義からして謙遜するとは意外だ、とズィークスは笑顔で応じる。
「そんなことないさ。ここの味は絶品だし、店員さんの愛想もいいしな」
「へ、へー……『店員さん』の、愛想も」
娘は殊更に『店員さん』を強調して言った。
「それで? 今日は何になさいます……?」
「俺はいつもの――ほら、あの骨付きの炙り肉で。ルブラさんには……」
言いつつ対面の席を覗くと、ルブラは店のメニューボードを不思議そうに眺めていた。
「何か気になるのはあります? なんでも頼んでいいですよ」
「えっ? ありがとうございます。でも名前を見てもどれがどういう食べ物なのか、私にはよくわかりません。ですから、ズィークスと同じものをください」
「なんでも美味しいですよー? でも、ちょーっとお嬢様のお口には合わないかもー?」
おっとりとした口調で注文するルブラに、娘は固い笑顔のまま応じる。
「そうか? 俺はあの絶品のソースがあれば宮廷にだって出せると思うけどな」
「ありがとうございますぅ。でも、お連れの方にはちょーっと量が多いかもですよー?」
たしかに。いくら竜とはいえ、ルブラの腰はそこらの女性よりもよっぽど細い。
「ルブラさん、普段はどれくらい食べるんですか」
「食べる量、ですか?」
ルブラはきょとんと目を瞬いた。
「普段は……干した竜草を一束か二束……気が向いたら蒼煌石の欠片を噛ったりしています」
干した竜草? 蒼煌石の欠片を噛じる?
ほっこりとした様子で語られたルブラの食事内容にズィークスと娘は顔を見合う。
「えーと……そう、お肉。たとえばお肉だったら、どれくらい食べます?」
「お肉ですか? 私はその……あまり分けてもらえなくて……あ、でも、友達の〈フヴァーカ〉が、食べきれないから、と持ってきてくれることがあります」
その〈フヴァーカ〉という竜言語の発声に、店内の空気が一瞬止まった。集まる奇異の視線に気付き、ズィークスはしまったと顔をしかめる。
「量は……鹿とか、熊とかを……一番たくさん食べたときは、三頭ほど頂きました」
「なるほどですねぇ。鹿肉とか熊肉をさんと……三頭!?」
指折り確認していた娘は、最後の文言に頓狂な声をあげた。
ルブラは少し驚いた様子でぱちぱちと瞬き、柔らかに微笑んだ。
「はい。〈フヴァーカ〉には『何も一度に食べなくても』と、呆れられてしまいました。でも、お肉は新鮮な方が美味しいですし、久しぶりだったので、つい」
あわせて可愛らしく小首を傾けた。
「……いやいやいやいや! 『つい♪』じゃないでしょ!?」
娘はルブラの声色を真似つつ言って、シュバッとズィークスの方に向き直る。
「どうします? 牛、三頭、焼きます?」
は?
「冗談だろ!? 牛三頭とかテーブルに乗らない――って違ぇ! つかルブラさんも」
「はい? なんでしょう」
「さすがに、今、牛三頭食べたいわけじゃないですよね?」
頼む。そんなつもりはないと言ってくれ。ズィークスはそう念じた。
フードを下ろした時点で客の視線はルブラに釘付け。鹿熊三頭とかいう謎の迫力をもつ単語がいやがおうにも客の期待を煽る。野性味を感じさせる美女の返答を、店にいる誰もが固唾を飲んで見守っているのだ。これ以上は目立たないでほしかった。
ルブラはキョロキョロ店内を見回し、しばし考え、やがてこくんと頷いた。
「出してさえいただければ、すべて平らげてみせましょう」
集まる視線の意味をどう勘違いしたのか、ルブラは何やら得意げだった。店内に広がるざめきに息を呑みつつ、ズィークスは看板娘に言った。
「とりあえず……俺に一人前、ルブラさんには二……いや、三人前で」
「お伺いしましたぁ! 父さぁん! 特製ダレの骨付き炙り肉、大っきめので四人前!」
厨房からすぐに「父さんじゃなくて店長って言え!」と、野太い返答があった。
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