第8話
ルブラは中央のテーブルにつき、ズィークスの説教が終わるのを眺めて待った。ペコペコと頭を下げるナーリムの姿はとても奇妙だった。
ヒトでは二人目の、一見して私を竜だと認識したヒト。一人目がズィークスで二人目が彼の部下というのは偶然ではないのだろう。
そんなことを考えながらぼんやりと眺めていると、ズィークスは満足したのか――あるいは諦めたか――説教をやめ、執務机の上にあった封蝋のついた書簡を開けた。
「……ナーリムがいつも早出してくれて助かるよ。六人会議からのご命令だ。ルブラさんが竜だという確たる証拠を集め、提出せよ、だとさ」
瞬間、ぐりんっ! とナーリムが振り向いた。梟のような予備動作がまるでない見返りに驚き、ルブラは思わず姿勢を正した。
「ふひひひひ」
怪しげに笑うナーリムの瞳が丸眼鏡の奥で光った。
「私にお任せください。このナーリム・ユリランダ、持てる知識すべてを使って竜であると示します!」
説教されているときの態度はどこへやら、ナーリムは鼻歌でも歌いだしそうな様子で雑然とした机から古ぼけた手帳と羽ペンを掘り出しルブラの前に立った。
「さてさて! ではまず、耳から見せていただけますか?」
「……耳、ですか?」
「はい。獣人族の耳には類型があるのです!」
ナーリムは手帳を開いた。
「獣人の耳は大きく分けて三種です。人と同じ形の耳、人と動物の耳がある四つ耳、獣の耳だけがある獣耳。細かく言えばすべての耳が機能しているかどうかとか、人型の耳でも形が違うとかあるんですが……生物学的に重要な特徴なのです」
ルブラは自身の耳を見せた。ナーリムがいうところの人型で特別変わった形ではない。
「私の耳はこれだけで他にはありません」
「ふむふむ……? えと、たとえばですけど、他の竜の耳は見たことありますか?」
「他の竜の耳……」
ルブラは頭の中に納められている天海の竜の映像を見返す。
「竜によってまるで違いますが……たとえば
「……大空蛇? 耳がない?」
ナーリムは眉間に深い皺を刻みズィークスに目をやった。彼はぎょっとして自分の顔を指差し、囁くような声で、俺に聞くな、と答えた。説明したほうがよさそうだ。
ルブラはフッと短く息をつき、言葉を選びながら竜の世界について語り始めた。
話は、大空蛇とは翼をもたない蛇のような竜のことだという枝葉から始まり、そもそも竜は空を飛んでいるのではなく泳いでいるという話、そしてヒトが空と呼ぶ《天海》に浮かぶ島――天海島の話、と大樹の幹に至る。
お役目もあって島の仔細を話すつもりはなかったのだが、熱心に手を動かしながら話を聞くナーリムと、徐々に呆けていくズィークスが面白く、つい饒舌に語ってしまった。
話しすぎたと気付いて口を噤んだとき、ナーリムがくわっと目を剥いた。
「すごいすごいすごいすごいすごい! すごいなんてものじゃないですよ! 世界も歴史も変えるお話です! これはもう可及的速やかにまとめあげて――」
「そのまま胸にしまっとけ」
「へぁっ!?」
ガンッと大げさに驚き、ナーリムは羽ペンを握りつぶしながらズィークスに詰め寄る。
「なんでですか!? こんな貴重な証言、まして竜からの――」
「一つ。お前の仕事は竜の証拠をまとめることだ。二つ。煌石の塊でできた島なんて悪人に知られた大変だ。三つ。……誰がどこで発表すんだよ? また国を追い出されるぞ?」
ナーリムはうぐぅと呻きながら腰を下ろした。また? とルブラは首を傾げる。
「ズィークス。ナーリムはどこかから追放されたのですか?」
その質問に二人は固まり、やがてゆっくりとルブラに顔を向けた。
「えっ? え、えへ……えへへへへ……」
乾いた笑い声をあげながら、ナーリムは癖っ毛に手櫛を通した。
「じ、実はそうなんです……ちょーっと、やらかしちゃったといいますか……」
「どこがちょっとだよ」
と呆れた目をするズィークス。
「竜の世界について教えてもらったので、代わりといってはなんですが、ヒトの世界の事情についてお話しますよ」
そう言って、ズィークスはヒトの世界の現況を話し始めた。
話はおよそ二百年前に遡る。半島は森に覆われ、公国もまだ存在しない頃。神皇ロウリア王国の南東部――半島と接する地域が深刻な寒波に襲われた。彼の地を捨てるか、森を切り拓くか、選択を迫られたヒトは、森の伐採を選択し命をつなごうとした。
半島の森に住んでいたエルフにしてみればたまったものではない。獣人や獣の苦境を知り、森の長としてロウリアに使者を送った。
しかし、ロウリアの民は森から現れた美しい使者を捕らえ、飼おうとしたという。使者となったエルフは命からがら森に逃げ帰り、ヒトの恐ろしさを伝えて息絶えた――
虚空に視線を投げ、ズィークスは淡々と続けた。
「そして半島全土を巻き込む戦争になった、というわけです。まぁ先に使者を送ったのは人間の方で、慰み者にされたから東伐が始まったって話もありますが――戦争が終わったのが五十年前ですからね。真相は闇の中ですよ」
「……開戦の経緯は分かりました。でも、それとナーリムの追放と、どういう関係が?」
「ロウリアは開戦にあたって国教で『ヒトは万物の長であり、全ての種の祖である』と定めまして、自然の摂理に反する獣を討伐するのだと主張したんです。その結果、戦後のロウリアでは獣人は奴隷以下の存在になっているんですよ」
ズィークスは続きを頼むとばかりに、ナーリムの肩を叩いた。
「私は公国とロウリアの国境近くで生まれたんです。田舎で、国教の影響も少なくて」
林業を営んでいたナーリムの家はロウリアの国民としては変わっており、森に慣れている獣人達をヒト並に重用していた。獣人達と分け隔てなく暮らしていたナーリムは長じて街で神童と呼ばれる学力を示し、王都の大学に送り出される。
しかし、王都における獣人の迫害に衝撃を受け、すぐに帰郷を望んだ。彼女の才を惜しんだ大学は、故郷で獣人の研究をしたらどうか、と提案した。
「――最初は上手くいってたんです。皆も協力してくれましたし、なり手の少ない領域でしたから、どんどん新説を発表できたりして……でも、ちょっとやりすぎてしまって」
もじもじと言い淀むナーリムを横目にズィークスは声を殺して笑い、言葉を継いだ。
「それまでの研究をまとめて、『ヒトと獣人は祖を同じくする、いわばヒトと血を分けた兄弟である』と主張したんです。ナーリムの師匠は気を使って論文を手元で止めたんですが、こいつは王都の学会に乗り込んでブチかまし……宗教裁判です。これがまた酷い話で論文を取り下げないと家族も師匠も同罪にすると脅されたんだそうです。で、こいつは論文を撤回して故郷に帰り、死んだことにして、獣人達と公国に亡命しようとした――」
亡命話が持ち込まれたのは、ズィークスが二級調停士として出世しようと躍起になっていた頃だ。ズィークスは深く考えずに承諾し、山間の国境近くに向かったのだが――。
「まぁ壮絶でした。合流地点で待ってたら大砲の音が聞こえてくるんです。慌てて現場に行くと、神輿を担いだ獣人達が兵隊に追われてました。しかもよく見たら神輿に素っ裸の女が座ってる。真冬で、雪まで降ってて、女は恐怖と寒さでガタガタ震えてました」
その神輿に乗っていた女が、ナーリムである。真冬に全裸という出で立ちも、輿に乗っていたのも、人質としてロウリアの兵士を騙すためだったのだ。
「もし現場に公国の兵士がいたらと思うと、ぞっとしますよ」
老け込むには早いが、若かったという言葉がしっくりくる。耳を劈く砲声に咄嗟に戦鎚を振り抜き、砲弾を打ち返すというバカげた偉業を成した。あれから三年、半獣人を部下に加えて一級調停士になり、竜と結婚しようとしている自分がいる。
「……まぁ、おかげで退屈しないですんでるけどな」
「こちらこそですよ! ズィークスさんのおかげで研究もできていますし、感謝してもしきれないくらいです! これからもお世話になりますよぉ」
へらりと笑うナーリムを、ルブラが興味津々といった様子で見ていた。
「さ、昔話はこれくらいにして、証拠集めの再開だ」
「はい!」
はきはきした声で答えながらナーリムが再びペンを取った。
「いよーし。ルブラさーん? 続けますよぉ?」
「私にも角や尾があれば、こんな面倒はいらなかったのでしょうね」
そう寂しげに笑うルブラに、ナーリムは不思議そうに首を傾げた。
「角と、尾っぽ? 全然問題ありません! そんなのじゃ竜だと断定できませんからね!!」
「おいナーリム……!? 『そんなの』って失礼だろ……!?」
慌てて小声で叱責するズィークスをよそに、ルブラはきょとんとして尋ね返した。
「そんなの、とは?」
「えっと……失礼に聞こえたらごめんなさいですけど」
ナーリムはズィークスをなだめつつ、続けた。
「たとえば角なら牛や山羊にも生えてますし、尾っぽなら人間にも名残があります。角とか尾っぽがあっても竜の証拠としては不十分なのです」
「……では、鱗――」
「鱗だって同じですよ? よっぽど似ている種族なら鱗の形で違いをつけたりもしますけど、ルブラさんのお話を聞く限り、竜は一頭ごとに姿形がまるで違うみたいですからね。だったら鱗があっても竜の証明には至りません。竜を竜たらしめているのは、もっと他の部分です!」
むふんと鼻息もたかく力説するナーリムを、ルブラはしばし呆けたように見つめていた。やがて両手に目を落とし、なにか思うところがあるのかはにかむように笑った。
「そう……そうですか。角も、鱗も、尾も……」
「はい! ――と、いうわけでぇ……口の中をみせていただけますかっ!?」
「く、口の中、ですか?」
ナーリムはうんうんと頷きながらポケットに手を入れ、橙煌石式の筒型ランプを出した。素早く振るとキャリンと煌石の削れる音がし、筒の先端から淡い光が伸びる。
ナーリムは光をルブラの潤んだような瞳に当て、手帳にペンを走らせた。縦割れの瞳孔で瞬膜はなし。続いて恥ずかしがるルブラに口を開けさせ、覗き込む。歯は上下十六本ずつの計三十二本、前列は牙型であるが中列から形状が変わり、後列は人と酷似した臼型をしている。
「ふむぅ……古い資料にある竜の歯列とは違うようですねぇ……」
次にナーリムは舌を出すよう言った。ルブラはズィークスから目を逸らしつつ舌を垂らした。顎先よりも下にくるほど長い真っ赤な舌が妖しく光を返す。
と、吐息に乗って春先の花のような甘い匂いがした。竜涎――つまり、竜の唾液の匂いだろうか。香水の原料となるそれと違うが、えもいわれぬ香りは太古の記録どおりである。
真剣な面持ちで口の中を覗き込んでいたナーリムが、あ、と声を上げた。
「これですよ! これ! この喉の奥にある筒状の器官! これが竜の証拠です!」
「……どれだって?」
ズィークスは独特な甘い香りに目を瞬きながらルブラの喉を覗き込んだ。ヒトでいう口蓋垂――俗に言う喉ちんこのあたりに、穴の閉じた管のような器官があった。
「おそらく『竜の観察録』にある竜鳴管です! 竜語で何か喋ってみてください!」
興奮しきりのナーリムの声に、何が起こるんだ? と暢気に見ていると、窄まっていた竜鳴管がぷるぷると微動し、
「
かふぁ、と口が閉じた。花弁のような唇の端から一筋の光るものが零れていた。ルブラは紅玉のような瞳を潤ませズィークスに向けた。その睨むでもなく怒るでもない何とも気まずそうな視線に、ズィークスは躰の内にむらむらと湧き上がるものを覚えた。が、
「ルブラさん! もう一度口を開けて見せてください!」
研究者の無茶っぽい注文を耳にして、ズィークスは我に返った。
「バカ。困ってんだろ」
欲望に忠実な部下の頭をぺちんとはたき、ズィークスはハンカチをルブラに渡した。どうしていいのか分からなそうな涙目の竜に口元を拭う仕草をしてみせる。
戸惑いながら涎を拭くルブラを見ていると、またムラムラと――。
ゴンゴンゴン! と突然、執務室の扉が叩かれた。
「うはぁい! 何ぃ!?」
思わず頓狂な声をあげズィークスは扉を見やった。
「……なんだ、ボナエストか……焦らせるなよ」
「……なんだボナエストか、じゃありませんよ。なんて声を出してるんですか。外回りしてたら遅れました。帰りにメルラドに会いまして伝言を言付かりましたよ」
「メルラドからの伝言? なんでお前が?」
ボナエストは皆目検討もつかないとばかりに肩を竦めた。
「『三分以内に来い』だそうです。十分ほど前に言われました」
なんだそりゃ、と肩を揺らしながらズィークスは懐中時計を見た。昼過ぎて少し。思いのほか長く話し込んでいた。ボナエストの遅刻はいいとして、何の用だろうか。
ズィークスは背もたれを軋ませた。頭の真上から右に三歩。そこがメルラドのケツの下だ。以前の六人会議ではこってり絞られていたが、昨日はいなかった。普通に考えれば外されたのだろうが、ズィークスに呼び出しをかけてきたのなら理由は一つだ。
……一枚噛ませろって話だろうなぁ。
メルラド自身はたいした武力も人徳もないが、ときに《人形使い》とも揶揄される手腕は並外れている。調停士と貴族というまったく異なる立場を利用し有力な人材を集め、あらゆる場面に首を突っ込み功績を稼ぎだす。調停院はじまって以来の出世頭といえば、誰あろうメルラド・デュエン・ニェーツクだ。
六人会議の緊急招集、あるいは会議中にルブラが見せた火焔の一件。上司として責任を取るとかなんとか理由をつけ、監督者として名前を残させるつもりだろうか。
「……考えるだけ無駄だな。仕方ねぇわ。行ってくる」
ため息混じりに立ち上がり、ルブラに言った。
「申し訳ないんですが、ルブラさんはここでお待ち下さい。すぐ戻りますので」
「えっ」
ルブラは上げかけた腰をすとんと落とした。
「理由を教えていただけますか?」
瞬間、ピーン、と緊張の糸が張られた気がした。
さてどう言い訳したものか、と頭を悩ませるズィークス。じっと見つめて返答を待つルブラ。ナーリムは研究にしか興味がないので役には立たない。そのとき、《外道》より大胆なことをいうもある半獣人が、バチコンとズィークスに片目を瞑ってみせた。
「メルラドはズィークスの上司――気を使う相手なんですが、困ったことに嫌がらせが趣味みたいなところがあるんです。山でルブラさんを怒らせてしまったニンゲンがいたでしょう? あれがメルラドです。ズィークスは同じ思いをさせたくないんですよ」
正直にすぎるだろバカ、とズィークスは思った。
ルブラはむぅと頬を膨らませ、ズィークスにジト目を向けた。
「……気遣ってくれることは嬉しく思います。私も嫌がらせを見たくはありませんし、ここは待つことにします。……でも本当は、私はできるだけあなたと一緒にいたいです」
ズィークスが安堵するなか、ルブラの最後の一言にボナエストとナーリムが、おお、と感嘆の声をあげた。構っていられるはずもなく、そそくさと執務室を出た。
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