第7話

 翌朝、瞼を開いたズィークスは、数度ぼんやりと瞬き、躰を起こした。またソファーで寝ちまったのかと髪をなでつけ、違うそうじゃないと苦笑する。


 ルブラを、竜を泊めたのだった。


 疲れていたとはいえ我ながら大胆なことをしたもんだ、とズィークスは思う。秘密主義的な性格を自認している彼の家に、出会って一日――より正確には半日しか経っていない者が足を踏み入れるというのは、非常な出来事といってよかった。


 ……やっぱり惚れてるのだろうか。だとしたら、一目惚れという現象に該当する。ありえるのだろうか。ルブラの顔形、鮮烈な赤髪と紅玉のような瞳――。

 ガシャン、と薬缶をストーブコンロに置き、ズィークスは天井を見上げた。


 竜って、紅茶は飲めるのか?


 相手が人や獣人なら迷わず淹れたのだが……竜だ。朝の紅茶の一杯を提供するにも神経を使わなくていけない。ボナエストのとこの嫁さんは、どうやって彼と暮らしているのだろうか。

 そんなことを思いながら、ズィークスは階段を昇っていった。

 一応ノック。礼儀は大切だ。返事がないので再度叩いて、


「ルブラさん? 朝ですよ。今日は調停院に来ていただきたいので、起きてください」


 扉を叩いてしばらく待って。ためいきを一つ。


「入りますからねー……?」


 自分の家だというのに、なぜか声が小さくなった。どうしてそうしようと思ったのか自分でも分からないまま音を立てないように扉を少し開き、首を突っ込む。と、


「……はぁ?」


 ルブラが寝ていた――のだが、なぜか枕を抱えて床に座り、ベッドの側面にもたれかかるようにして、縁に顎を乗せていた。転がり落ちたにしては整いすぎた姿勢。奇妙だ。

 ズィークスは困惑顔で近づき、静かに上下する細い肩を叩いた。


「あの、ルブラさん?」

「ん……んんぅ……」


 ルブラは悩ましげに呻き、長いまつ毛をゆっくり持ち上げ、やがて数度、瞬いた。陽の光を受けて瞳孔がすぅっと縦に細まる。


「ずぃいくす……?」


 舌をもつれさせるような口調で言った。かと思うと、柔らかそうな頬が朱に染まった。


「ズ……ズィークス? な、何をしているのですか?」


 ルブラは背筋をしゃんと伸ばし、昨晩と同じキリっとした表情を取り戻す。が、頬は紅いままだし枕は抱えているしで、何やらとても可愛らしい。


「おはようございます。ベッドはあまり合いませんでしたか?」

「えっ?」


 ルブラはキョロキョロと寝室を見回し、コクリと頷いた。


「す、少し……」

「それは失礼いたしました。早い内に何か対策を考えましょう」


 対策と言っても何をすればいいのやら皆目検討がつかないが。


「――ところで、もしかして枕の使い方が分かりませんでしたか?」


 ズィークスはルブラが胸の下に抱える枕を指さした。ようやく落ち着いてきた可愛らしい竜は、指先を辿るように視線を落とし、こちらを見上げ、自慢げに微笑んだ。


「普段のように寝ると胸が苦しくて、この上に乗せると楽だと気付いたのです」


 見れば、ルブラは枕を床に立て、その上に豊かな双丘を載せていた。ズィークスは生白く柔らかそうな深い谷間に目を奪われ――いかん、と視線を切った。

 すると、なぜかルブラが顔を曇らせた。


「……お見苦しいものを、お見せしました……」


 喉を絞ったような不安げな声音に、ズィークスは彼女が自身の容姿をひどく卑下していたことを思い出す。慌ててその場に膝をつき、うつむく顔を覗き込んだ。


「ルブラさんは今日も変わらず……いえ、昨日よりも美しくなっていますよ。許されるならずっと見ていたいくらいなんですが、見ていると……つい、よこしまな気持ちが――」

「邪な気持ち? ですか?」


 きょとんとするルブラ。その純真無垢な紅い瞳に追い詰められるようにして、何を言っているんだ俺はとズィークスは口元を隠した。普段なら絶対に言わない歯の浮くような台詞を言うわ、頭に浮かべることすらしない感情が口からまろびでるわ、どうかしている。


「……ズィークス。下で、何かが鳴っています」


 言われて、はっ! とズィークスは顔を上げた。気まずい空気を切り裂く笛の音は、


薬缶やかんかけっぱなしだ!」


 わざわざ事情を声にし、ズィークスは寝室から逃げ出した。以前、戯れで薬缶につけた笛が役に立つ日がくるとは。なんでもやってみるものだ、と過去の自分に感謝した。



「熱いので気をつけてくださいね」


 ズィークスは淹れたばかりの紅茶をルブラに渡した。ここが首都で自身が調停士でなければ喫むこともなかった、海を渡って南方からやってきた逸品である。

 ルブラはズィークスのやり方を真似るようにカップに鼻を近づけ、香りを嗅いだ。


「……甘いような、酸っぱいような……果物の香り……? ですか?」

「よく似ていますよね。でも植物の葉の香りなんです。葉っぱを揉んだり発酵させたりして、それを煮出すとこんな香りになるんだとか。譲ってくれた方からの受け売りですけど」


 ふっと息を吹きかけズィークスはカップを口に運んだ。丸い甘みと舌の奥に残る心地よい渋みに頬が緩む。ルブラの横顔をちらりと覗くと、眉を微かに寄せていた。


「……熱くて……苦くて……甘いのと……でも、苦いですね」


 ルブラはちろりと舌先を出し空気を舐めた。そういえばボナエストも紅茶は苦くて口に合わないと言っていた。ヒトに近い半獣人でもそうなのだから仕方ないのかもしれない。


「では、今日は新鮮な牛乳がないので、これで」


 言いつつズィークスは砂糖壺を開けた。故郷から届いた仕送りの返礼品だ。小匙で掬ってルブラのカップに混ぜる。あらためて口をつけた竜は、今度こそ柔らかに微笑んだ。


「とても甘くなりました。これは好きです。何を入れたのですか?」

「それは……秘密にしておきましょうか」


 つい得意になった瞬間、ルブラが露骨に眉をひそめた。


「ズィークス。昨日は言わずにいましたが、お伝えておきたいことがあります」

「ハッ、ハイ!」


 ルブラの鋭く尖った声音にあっさり気圧され、ズィークスは直立不動の姿勢を取った。


「私たち竜は嘘と秘密を掟で禁じています。私はこんな姿をしていますから、せめて掟だけでも守ろうと生きてきました。もしズィークスが竜と――つまり、わ、わたし……」


 何やら急に歯切れが悪くなった。生まれた小言の隙をつきズィークスは強く頷く。


「肝に命じます。俺は《外道》なんてあだ名をもらってしまうくらいで、どうもその手の機微に疎くて……。気付いたところがあれば、どんどん言ってください」


 紛うことなき事実である。悪印象を与えかねなかったが、嘘を吐くなといわれたそばから嘘をついて後に露見するより、事前に言い訳をしておいた方が得だと思った。

 ひとまず納得してくれたらしいルブラに、内心ズィークスは胸を撫で下ろした。


 朝の紅茶を済ませた後、美人すぎて人目につくからとルブラを言い含めて黒外套のフードで顔を隠してもらい、自身はいつもの準備を始める。

 先に用意を終えたルブラには玄関で待ってもらい、せっかくだからともう一つの仕送りの返礼品を革のベルトポーチに納める。火の始末と窓の鍵を確かめ、お待たせしましたーと軽く声にしつつ外に――出た瞬間、ぴしりと固まった。


「にゃーん。にゃう? にゃぁ……んなぅ?」


 玄関先にしゃがみ込んだルブラが野良猫を相手に猫の鳴き真似をしていた。それも身振り手振りを交え、目を閉じれば本物にしか聞こえない本格派だ。もっとも、猫側も鳴いたり首を傾げたりと応じているようなので、本当に会話している可能性もあるが――。


 竜が猫と何の話をするんだ?


 ルブラが話しているのは数日前にウ○コようの毛玉を吐き捨てていった猫だ。悪口でも言われてやしないだろうかとズィークスは急に不安になった。


「あの……ルブラさん?」


 ルブラが弾かれたように顔を上げた。野良猫がふぎゃんと鳴いて塀に飛び乗り、走っていった。揺れる尻尾を見送ったルブラは紅い瞳を非難がましく細める。


「ズィークス。彼らに何をしたのですか? あいつは嘘つきだと怒っていましたよ?」

「……猫の言葉が分かるんですか?」

「はい。使うのは初めてでしたが、通じました。それで、いったい何をしたんです?」


 ズィークスは過去の失敗を思い出し、がくりと肩を落とした。


「……ま、まぁ……それは、おいおい話しますよ……話すと長いので……」

「……では道すがら聞かせて頂けますか? 今日も調停院? に行くのでしょう?」


 どうやら逃がしてはくれないらしい。


「はい……」


 と、力なく答えズィークスは天を仰いだ。本日も雲一つない晴天なり。王都の空は高く、救いを求めて手を伸ばしてみても、決して届きはしない。通りをルブラの足に合わせて歩みつつ、ズィークスは猫との因縁について語り始めた。


 一級調停士に昇進してボナエストを部下に迎えたすぐ後のことだ。クルィロフ公国地方州のある村から、奇妙な調停を依頼された。

 猫類獣人族が村に開いた娼館を閉めさせたいのだという。

 なんでも農業の手伝いに獣人を雇っていたのだが、求職者に対して仕事が足らず、獣人側との話し合いの末、浮浪者が増えるよりはと娼館の開業を認めたのだという。


 しかし、いざ娼館が開くと村の内外を問わず客が押し寄せ、ヒトに比べて貞操観念の緩い獣人達はこぞって娼婦・男娼へと転身してしまった。獣人族の噂は足が早い。放置すれば搾取する側から搾取される側に回ってしまう。なんとかしてくれ――と、いうわけだ。


「ところが、中央調停院は娼館を潰したくなかったんです。開業の許可を出したのは村の法ですからね。獣人達は正当な権利を行使しただけです。それにほら、見て下さい」


 ズィークスは腕を伸ばし、ルブラに様々な種族が入り乱れる朝の大通りを示した。


「獣人族だからといって皆が皆、娼館のようなところで働きたいわけじゃない。労働に見合う対価が得られるのなら、種族を問わず自分の得意を職にします」

「……つまり、ズィークスは獣人族の味方をしたのですか?」

「ええ。というか、そうするために俺が派遣されたんです」


 事情を聞いたズィークスは、農業に従事する猫類獣人族の労働環境の改善と、娼館の存続を最終目標に交渉を開始した。当然、住民の反発は激しく、交渉は難航した。

 そこでズィークスは、村で大量に飼っていた鼠捕りの猫に、遠い眷属のためにしばらく鼠捕りを休んでもらえないかと持ちかけたのだ。

 しかし、自立心の高い猫は利がなければ動いてくれない。ならば、と次の提案をした。


「君たちを偉くしてやろう、と言ったわけです」

「――偉く……ですか? 猫は言うことを聞いたのですか?」

「ええ。猫の代表はすぐに村中の猫にねずみ取りを止めさせました。倉庫は次々とねずみにやられまして、焦った村の連中はこっちの要求を飲んだんです」

「……交渉が成功したのに、猫といがみ合うことになったのですか?」


 ズィークスは当時を思い出し、頬を掻いた。


「実は……猫と話すために通訳をいれたんですが、どういわけか『偉くしてやる』を『美味しいものが食べられる』と訳してしまって。長きに渡る鼠取りの功績と遠い同胞を救った功績を讃え、ってことで勲章をだしたんですが、猫どもは『冗談じゃない!』って」

「美味しいものが食べられると聞いていたのに」


 くすくすと肩を揺らすルブラに、ズィークスは苦笑しながら頷き返す。


「猫には恨まれるわ、メルラドには嘲笑われるわ……おまけに部下のナーリムってのが『猫に勲章事件』だなんて面白おかしく命名して……俺はヒトのくせにヒトに厳しく獣人にも嫌われる調停士――ヒトの道から外れた《外道》だと呼ばれるようになりました」


 おどけるように肩を竦めて、それを話のオチとしておいた。

 実際の真相、つまり猫に嫌われた原因は、もっと重大な事態による。

 受勲によって猫に派閥が生まれ、猫類獣人族を巻き込む内部抗争に発展したのだ。後に猫族は和解したが、騒動の原因たるズィークスの名はのちに《外道》として広まった。

 そんな裏の事情を知るはずもなく、ルブラは両手で猫耳を作って言った。


「『魚を三尾用意したら私は許してやってもいい』と、彼女は仰っていましたよ?」

「……考えておきます」


 和解する気はある。が、ヒトと他種族の間で法を代弁者する調停士たる者、どれだけ苛烈な嫌がらせを受けたとしても、そう易々と屈するわけにはいかない。

 決意も新たに調停院本庁舎に入ると、見慣れぬ黒外套の少女を連れ歩く姿が職員の注目を集めた。悪目立ちを避けようと平静を装いながら受付の挨拶に片手で応じ、二級調停士の集うタコ部屋を尻目に階段を上り、執務室の扉に手をかける。鍵が開いていた。勘弁しろよと扉を開けたズィークスは、予想通りの光景に息を吐き、すぐに大きく吸い込んだ。


「朝だぞナーリム! どこで寝てやがる!」

「ひゃぁぁぁ!? すいませーーーーん!」


 ただでさえ狭い執務室をより窮屈にする中央テーブルの上でナーリムが飛び起きた。寝癖で容積を倍加しているくせっ毛に手櫛を通しながらズレた丸眼鏡をかけ直し――、


「――ッ!!!! そちらが竜!? 竜の方ですか!?」


 寝起きとはとうてい思えぬ俊敏さをもってルブラに迫り、彼女を一歩後退させた。六人会議にすら屈しなかった竜を退かせるとは、研究者マニアの熱意恐るべしである。


「おい、ナーリム! 先に言うことがあるだろうが」

「あ、ズィークスさん! おかえりょうございます!」


 帰宅の挨拶と朝の挨拶の合成語か。ズィークスはさっそく痛みだした頭を押えた。


「……寝るならせめて椅子か床にしてくれ。研究心をこじらせて生贄の儀式を自分の躰でおっ始めたんじゃねぇかと焦っただろうが」

「まっさかぁー」


 ナーリムはすちゃっと丸眼鏡を押し上げた。


「執務室で生贄の儀式をやる風習なんてありませんよ? 大抵は高さのある祭壇なんかでノコギリとか――」

「もういい。聞きたくない」


 ズィークスは肩越しにルブラに目配せし、横に退いた。


「ルブラさん。彼女は俺の雇っている――」

相談者アドバイザーのナーリム・ユリランダです!」


 ナーリムはずずぃっと間合いを詰めた。


「専門は文化人類学と生物学で、オマケとして考古学を嗜んでいますっ! はいっ!」


 とてつもなく鼻息の荒い自己紹介である。ルブラは一拍の間を挟んで落ち着きを取り戻したのか、普段どおりの泰然とした様子で応じた。


「私の名は――《ルヴラルィンヤ》です。天海島に住まう竜の《憤怒の牙》。ヒトとの縁談をいただき、伴侶に値するか見定めに参りました」


 昨晩と違い穏やかな名乗りだが、何度耳にしても心臓を鷲掴みにされるような竜言語の発音だけは慣れない。しかし、身を竦ませるズィークスと違ってナーリムは、


「す、すっごーーーーーい! 今のが本物の竜の声なんですねっ!? 私はじめて聞きましたっ! 人間の魔道士とは全然違いますねっ!」


 狼狽え気味のルブラにぐいぐい接近していく。部下の行動にいたたまれなくなり、ズィークスは手近な本を拾って振り上げた。


「今すぐやめろ。末期ケモナー」


 ゴスンと鈍い音が響き、「背表紙っ!」とナーリムが悲鳴をあげた。

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