第4話
雲より高い山に週二度も登頂するようなバカが、いったいどこの世界にいるだろうか。
「ここだよ。ここにいる」
息も絶え絶えにズィークスが呟くと、先を歩くナエストが獣の耳を動かした。
「なんです?
「違ぇよ。狼だの犬だの山羊だの、なんだって獣は高いとこが好きなのかって話だよ」
「ハッハッハ」
狼類半獣人の部下は快活に笑った。
「酷い種族差別ですね。狼が山や森に住むのは、石工みたいな荒っぽいヒトが来ないからですよ。知っていましたか?」
「それこそ酷ぇ職業差別だ。崖から落とされねぇように気をつけないとだ……な!」
ズィークスは最後の一歩とばかりに荒れた岩肌を蹴った。削り飛ばされた欠片が乾いた音を立てて遥か下へと消えていった。
今週、二度目の、頂上である。ズィークスは戦鎚の柄頭を地に突き、伸び上がる。背筋と骨が軋んだ。メルラドがいないだけマシだが、山頂への道のりは決して楽ではない。
「こんな短期間に二度も登頂したのは人類初の快挙じゃねぇか?」
「どうでしょうね? 山脈を越えて魔国に入ったとなれば初かもしれませんが……」
ボナエストは背負っていた布鞄を下ろし、天へとそびえる石柱と魔法陣を見つめた。数日前に敷いた魔法陣は風に乱され少しばかり崩れていたが、修正すれば使えそうだ。
「さぁ、ズィークス。人類初の花嫁を迎える準備をしましょうか」
「……花婿が来てくれねぇかなぁ……」
「それじゃナーリムが可哀想でしょう。彼女はとばっちりですよ?」
そう苦笑しながらボナエストは布鞄に手を入れ、蒼煌石の欠片を出した。魔法陣の起動につかう煌石の一種――いわば魔法陣の燃料で、持ちこんだ手のひら大の欠片でもかなりの値がつく。自腹だった先回は信じてもいない神に成功を祈ったが今日は別。経費だ。
他人の金だし失敗しねぇかな、と不穏な考えをしつつ、ズィークスは魔法陣を直した。
「ナーリムが可哀想だって? 竜に嫌われる方法調べろって頼んだら、あいつ俺に何て言ったと思う? 『なるほど! 嫌われちゃったら悲しいですもんね!』だとさ。あいつなら空飛ぶ蜥蜴とも上手くやれるに決まってる」
「でも竜にとって彼女みたいな女性はどうなんでしょう。尻込みさせやしませんか?」
「……ありえない話じゃないな」
瞼を閉じればペンと手帳を持って竜に迫る丸眼鏡の女がありありと浮かぶ。それに、仮に破談になったとしても、候補者目録からズィークスの名が消えるわけではない。
「ああ……空飛ぶ蜥蜴が嫁ってのは嫌だ……しかも政略結婚だなんて……」
「私に政略結婚を強要した《外道》のくせに、何を仰っしゃりますか」
「お前の嫁はヒトだし貴族の娘さんだろうがっ。空飛んで火ぃ吹く蜥蜴とは違ぇよ!」
「私からすればヒトも異種族ですよ」
ボナエストは狼類の獣人族特有の牙を剥き出すようなやり方で片笑みを浮かべた。
「まぁ、ウチはなんだかんだ上手くやってますが」
「なんだよ! だったらいいだろうが! 一瞬でも俺に後悔させんな!」
「ハッハッハ。あなたに出会った当初は後悔だらけでしたよ。さ、もう観念しましょう」
「あぁチクショウ。蜥蜴は嫌だ、蜥蜴は嫌だ……俺は今、世界で一番不幸な男だよ」
寒々とした山の頂から見上げる空はなお遠く、どこまでも青い。
「おめでとうございます。今のズィークスは人類史上初の悩みを抱えてますよ」
「……ったく、史上初にも色々あんなぁ」
手元の資料と見比べ魔法陣の出来を確認し、ズィークスはぼそりと呟く。
「俺の家、竜の巣にしたら住宅税安くなるかな?」
ボナエストの爆笑とともに魔法陣が起動し、蒼煌石の力を吸って色褪せさせていく。
竜を呼ぶ音色が、青い光に乗って、空を駆け昇った。
そして、遥か空高くに浮かぶ天海島の地盤にぶつかり、
ゴォォォォォォォン……
と、大鐘にも似た音色の地鳴りを天海島に響かせた。
ルブラは巣穴でため息をついた。いよいよ、この日が来た。花嫁候補を装い天海の底に潜る。竜の掟の背いて嘘をつくようなやり方でヒトの世界を見てこなければならない。
私を美しいと言い、捧げ物をくれたあのヒトの同胞を謀るなんて。正直、気が進まない。
もう一つ深いため息をつき、ルブラは首を左右に振った。
〈準備をしないと……〉
そう言いつつも、昨夜のうちに必要な作業は済ませてあった。主が離れる巣穴の竜草を片付け、泉で身を清め、それで終いだ。問題は、宝だ。ヒトに捧げられた外套は羽織っていくからいいとして、ルブラ自身が集めた品を宝物庫に置いていって大丈夫かどうか。
鎧竜の鱗を拾い手づから作った鱗の服。折れた角で作った二本角の冠。尾の代わりにしようと伸ばした長い髪の毛。そして偶然見つけた大きさな蒼煌石の塊。いずれも他の竜からすれば他愛なく、それゆえに留守にしている間にいたずらされやしないか不安だ。
〈……やっぱり、持っていきましょう〉
巣に置いていけば気になって眠れなくなりそうだ。ルブラは思い出の品々を鱗の外套で包み、少し角先がはみ出てたそれを抱えて巣穴を出た。と、
ふすぅ、とため息を吹きかけられた。
〈……フヴァーカ。来ていたのですか。音を消して近づくのは趣味が悪いですよ?〉
〈そんなことしてない。あなたが気付かなかっただけ……なんだけど、来てよかった〉
フヴァーカはやれやれと鼻息をつき、その場に伏せた。
〈そんなの、まだ捨ててなかったの? まさか持ってく気?〉
〈……そんなのではありません。私の……宝物です。苦労して作ったのです〉
ルブラはぎゅっと包を抱え、黒い外套の下に隠した。鱗の外套も、角の冠も、長く伸ばして編んだ髪の毛も、少しでも竜らしい姿になりたくて子どもの頃に作った品だった。
〈そんなの、だよ。ルヴラルィンヤ、言いたくないけど――〉
〈分かっています〉
身につけて歩けば竜の真似だと嘲笑われる。裸で歩けば醜いと罵られる。だったらせめて巣穴の中だけでも。そう思うことすら許されないのか。
顔を歪めるルブラに、フヴァーカは物憂げな眼差しを向けた。
〈私があなたの見た目を気にしたことがあった? ないでしょ? ……そうだ。せっかく天海の底に潜るならちょうどいいし、置いてきちゃえば――〉
〈あなたには分かりません!〉
突然、ルブラが吼えた。《牙》の一柱、最強の《憤怒》の咆哮が大気を熱する。下草の葉先を焼き焦がし、木々を揺らし、フヴァーカを圧した。
ルブラは血のように紅い瞳を潤ませ、膨れ上がる怒りを音にする。
〈私は気にしない? だったら躰を交換してください。なってみればいい。どれほど惨めか、どれほど苦しいか。気にしたことがないなら分かるはずない!〉
〈ルヴラルィンヤ……私は――〉
〈うるさい!〉
熱波が七色に輝く鱗に爪を立て、フヴァーカに苦悶の声を上げさせた。
〈ルヴラルィンヤ……お願い、止めて……私が、悪かった……から……!〉
ふっ、と熱気が失せた。大気と大地がジリジリと燻っていた。
〈フヴァーカ、私は……もう何年も、ずっと、気が立っているのです〉
ルブラは目元を手で拭い、苦しそうに肩を上下する美しい竜に背を向けた。飛び立つ寸前、待ってと喚ぶ幽かな声に足を止めたが、振り返りまではしなかった。
空を泳ぎ、黒い外套の下で鎧竜の鱗の包を抱え直し、《空渡の標》の前に立つ。もう千年もそこにあり、誰も手を入れないため苔生した石柱は、まるで墓標だ。
今はただ掟に従うのみ。せめて竜のように。
ルブラは《空渡の標》に手を触れ目を瞑り、大きく息を吸い込んだ。並べる呪音に呼応し、空渡の標が鳴動する。地盤となる蒼煌石に呪音の力が反響し、増幅し、青い光となって彼女の躰を包んだ。起動した《空渡の標》が、天海の底へ目には見えない探り針を投げ入れ、ヒトが霊峰と呼ぶ天海の岩礁に標を見つける。
そしてルブラは、天を裂く雷に身を宿し、天海の底へ飛び降りた。
耳を劈く爆音。突風が砂塵を巻き上げた。吹き飛ばされまいと足を踏ん張るズィークスは、口に飛び込んだ砂粒に小さな悲鳴をあげた。反射的に口中の砂粒を吐きそうになったが、先方に唾を吐いたと誤解されたくないので我慢する。涙の滲む目をシパシパと瞬きながら空から降りてきた何かを見つめる。見覚えのある外套だ。数日前、現れた竜の美しさに流され、つい捧げ物として差し出してしまった、無理して買った一張羅だ。
「……ズィークス、でしたか?」
砂埃を払い現れた竜は、薄紅色の唇を開き古めかしく硬い口調で言って、黒外套のフードを下ろした。月のない夜、魔石が灯す光のなかで見た色とはまた違う、鮮烈な紅。無造作な赤色の短髪も、意志の強そうな紅い瞳も、美しいの一言では足らない。
ズィークスは口中の砂粒を忘れ、喉を鳴らした。
「……ル、ルブラ……さん?」
あ、と幽かな声を上げルブラははにかむように微笑んだ。
その可憐な雰囲気にズィークスは一瞬で呑みこまれ、
「……そ、その節はどうも」
いつが『その節』で何がどう『どうも』かも分からないまま、そう口にしていた。
「ンンッ!」
ボナエストが咳払いした。
「ズィークス? 用件を忘れていませんか?」
用件? 用件って何だっけ?
一瞬、本気で忘れかけていた。だが、ボナエストに牙を剥かれて思い出し、わかったわかったと手を振りつつ向き直る。
「……可愛い――じゃなくて、失礼。ルブラさんだけですか? 花嫁か花婿の――」
「私です」
「……は?」
彼の発した間の抜けた単音に、ルブラは形の良い眉を少し寄せ、幽かに首を傾けた。
「私が、縁定めの候補として選ばれた竜ですが、何か不服ですか?」
「えっ……いや……そんな! そんなことは、全然ないんですが!」
「ですが、なんですか?」
ずずいっと前に出てくるルブラに圧され、ズィークスは一歩下がった。ゴクリと喉を鳴らして
振り向き、ボナエストのなんとも言えない複雑そうな顔に言う。
「……ボナエスト……俺は今、世界でも最も運がいい男かもしれない」
「……ちょっと現金すぎやしませんか?」
呆れ果てたと言わんばかりに肩を落とすボナエスト。好きなように言うがいいとばかりにズィークスは勢いよくルブラに振り向き、ズサリ、と片膝をついた。
「俺が……このズィークス・ハシェックがヒトの花婿候補です」
霊峰ブ・ラ・ンガャの頂は、奇妙な気配に包まれていた。
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