第3話

 空を泳ぐ竜にとって霊峰ブ・ラ・ンガャは浅瀬であった。かつてはそこに住んでいた。

 しかし、地上に生命が満ちると、彼らは狭い大地を捨て空へ昇った。山の頂にある《空渡そらわたりしるべ》――ヒトが転移門と呼ぶ石柱と繋げられる臨界距離に、その島は浮いている。


 竜の言葉で《天海島》という。空色に輝く蒼煌石を地盤とする浮遊島だ。地上に住まう生命がどれだけ目を凝らしても彼らの目では見つけられない。しかし、島の上側には豊かな緑と山脈を備え、数多の竜が共に生きていた。


 その天海島の山間に、小さな洞穴がある。並の竜であれば首を突っ込むのも苦しいくらいの、しかしヒトが住むならちょうどいいくらいの大きさだ。洞穴の壁はなめらかに削られ、ところどころ顔をのぞかせる煌石が色とりどりの淡い光を放っている。


 奥に進むと、乾いた竜草が敷き詰められた空間にでる。竜の寝床だ。一匹の、外見はヒトと見紛うような竜がうつ伏せになり、静かに寝息を立てていた。竜の言葉で《流血を望む者》という意味の、ヒトの音に直せばルヴラルィンヤという名の雌の竜。数日前、ヒトにルブラという名をもらった竜だ。


〈…………ズィークス……〉


 ルブラは紅い瞳を瞬き、うっとりとした竜の言葉で呟いた。むくりと躰を起こし、鮮やかな赤い短髪をぐしぐしとかき回す。しばらくぼうっと虚空を見、やがて柔らかに微笑んだ。

 珍しく楽しい夢を見た。

 美しい鱗をもたず、猛々しき角もなく、優雅にくねる尾もない。醜い竜だと言われ続けたルブラを見て、美しいと音にしてくれたヒトの夢。ヒトの美醜は知らない。知る由もない。しかし、見惚れているかのようにこちらを見つめる黒い瞳に、嘘はなかった。 


「ル、ブ、ラ……ルブラ……」


 ルブラはほぅっと熱っぽい息をつき、豊かな胸の谷間に両手を重ねた。

 一音一音、ヒトの言葉にしてたしかめていくだけで胸が高鳴った。外に出てみようかと、まだ明るいけれど水辺に行こうかと、そんな大胆な考えまで湧いてしまうくらいだった。


 普段のルブラ――生まれて二十年と経たないルヴラルィンヤは呼ばれない限り滅多に外に出ない。だが、本当なら躰いっぱいに陽の光を浴びたいし、空を泳ぎ、泉に飛び込みたかった。竜草を干したり、散策したり、やりたいことはいくらでもある。しかし、もし他の竜に見つかったらと思うと億劫になり、いつもやめてしまう。


 それでも、今日は寝て過ごすのも退屈しないかもしれないかと思う。寝る前に一度、宝物庫を覗こう。捧げられた黒い外套に触れてから眠れば、夢でまた彼に会えるかもしれない。


 ルブラの密やかな楽しみを邪魔するように、巣の外から竜が羽ばたく音がした。 

 他の竜よりも高く滑らかな呪音……唯一親しくしてくれているフヴァーカの羽音だ。安堵の息をついて巣の入り口に出ると、ちょうど滑空してきたところだった。


 いつ見ても美しい。輝く鱗は見る角度によって七色に変じ、くねる長い尾は柳のように妖艶で。唯一、角だけが形ばかりで脆さを感じさせるが、天海島の竜すべてが羨望の眼差しを向ける鱗と尾があれば、それも愛嬌でしかない。

《星を抱く者》という意味の名をもつ竜は、さざ風で佳芳を振りまきながら地に降りた。


〈おはよう、お寝坊さん。さっきのはヒトの言葉だよね? まさかずっと寝てたの?〉

〈……ずっと寝ていたわけではありません。《牙》のお役目がなかったのです〉

〈だろうね〉


 フヴァーカは楽しげに首を上下に揺すった。


〈だって、帰ってきてすぐ叫ぶんだもん。皆怯えてるよ? 面倒ごとを押しつけすぎて《憤怒の牙》が怒ったって〉

〈あれは……そういうものではありません。ただ……〉


 ルブラは頬をかすかに染めた。あの夜はいっぺんにいろんなことがありすぎた。

 古竜の命で嫌々天海の底に降りたのに、不愉快なことは一つだけで、ヒトの口ではあれど美しいといわれ、捧げ物をもらい、あまつさえ新たな名まで。だから、天海島に戻ってすぐ、つい我を忘れて音にしてしまったのだ。


〈あなたのあんな声、久しぶりに聞いた気がする。最後に聞いたの、いつだったかな〉


 フヴァーカはその場に伏せ、からかうような目をして瞬膜を開閉した。


〈やめてください。あれは……あれは、その、特別だったのです〉

〈そうだ! 最後に聞いたのは、あなたがこの横穴を見つけたときだった!〉

〈フヴァーカ!〉


 声を大きくしたルブラはむくれ顔で姿勢を正した。


〈私をからかうために来たわけではないのでしょう? いったい何の用ですか?〉

〈忘れちゃった。……と言いたい気分だけど、古竜様があなたを呼んでたの〉


 古竜とは天海島で最も古い竜を言う。古いゆえに全てを取りしきり、象徴であるがゆえに名を呼ぶことは許されない。古竜は古竜。竜にとって他の何者でもない。


〈……またですか? 今度は何をさせられるのでしょうね?〉


 ヒトと竜の婚姻、受けるつもりなのだろうか。だとしたら私の役割は、


〈……まさか古竜様はあなたをヒトに差しだして、私に護衛をさせる気でしょうか〉


 フヴァーカはきょとんとして、すぐに吹き出すように笑った。


〈それはありえないかな。島の雄どもは私を手放したりしないし……さ、行こ?〉


 平然と言ってのける姿に、ルブラは胸の奥で焼きつくような痛みを覚えた。自らの美しさを自覚し、当然のこととして口にできる。その自信が羨ましく、憎い。


 島で最も醜く忌まわしいヒトの姿形をした竜と、最も美しい鱗をもつ竜。母が生きていたころも、母が死んでからも、なぜかフヴァーカだけは気にかけてくれている。だけど、


 あなたの美しい鱗が大嫌いです。


 隠しごとは竜の掟に反すると知っていながら、ルブラはそれを胸のうちに隠していた。



 一頭の見目麗しき竜と、黒い外套を頭からかぶったヒトの姿形をした竜が、連なって天海の空を泳いでいく。だが、なぜか足並みが揃わない。先程から、フヴァーカが遅れるルブラを追い抜いて旋回、あらためて後ろから追うという奇妙な泳ぎ方をしていた。


〈だから止せって言ったのに……その外套、あなたの音を邪魔してるよ?〉

〈……外套が邪魔をしているわけではありません。破れてしまいそうで怖いだけです〉


 言って外套の銀金具をそっと押さえた。

 フスゥ、とフヴァーカは鼻で息をつき、先行して旋回、また後ろから追いついた。


〈まぁ分かるけど。でも、こんなヨタヨタ飛んでたら、また何か言われるよ?〉

〈構いません。そんなものは捧げ物を……と!〉


 横風で流された躰を立て直した。


〈捧げ物をもらったことがないから言えるのです。やっかみです〉


 そう、とフヴァーカは諦めたように前へと抜けていき、何度めかの旋回をした。

 大森林の大樹の葉陰に隠れるようにしてある古竜の御前は、すでに多くの若い竜が集まっていた。いずれもあまり見目のよろしくない、格も低いとされる竜だ。例外といえるのはフヴァーカと、久しく姿を見ていなかった他の《牙》の三柱、それに古竜だけだ。


 死の間際まで育つ竜のなかにあって齢六百年を数えるという古竜の巨躯は、成竜――ヒトでいう成人――と比べて三倍近く、足元から見れば山のようだ。年輪を重ねた角は天を突く稲妻を、硬い鱗は黄銅の壁を、うねる尾は地に張った大樹の根を思わせた。


〈ただいま参りました。この宝を労り泳いで参りましたので少し遅れてしまいました〉


 宝という言葉を殊更に強調し、ルブラは黒い外套を撫でた。若い竜達がざわめく。自由に卑下してよかったはずの醜い忌み子が今やヒトから捧げられた宝を持っている。


〈不細工な奴め……その汚い肌を隠せと言われただけだろうが〉


 誰かがそう口にしたのをきっかけに、他の竜も口汚く罵り始めた。ルブラが纏う黒い外套はヒトの基準に照らせば上等かもしれないが、宝と呼ぶには慎ましい。それが捧げられた物でなければ、ルブラが決闘を仲裁する《牙》でなければ、外套を罵られただろう。


〈ほら、ルヴラルィンヤ。見せびらかすのはそのへんにしとこう?〉


 不穏な気配を膨らませる若い竜を一瞥し、フヴァーカがたしめるように言った。

 たった十七年とはいえ毎日罵られてきたのだから今一時くらいはいいではないか、そう言わんばかりにつんと顎をあげ、ルブラは古竜の足元に控えた。


〈はじめるぞ〉


 古竜の重々しい声が響くと、ぴたりと喧騒が収まった。


〈我らの父が天海の底を捨ててから千年。天海の底に蔓延るヒトは、脅威になったやもしれん。お主らも知る通り、そこのルヴラルィンヤは我らの中で最も牙が鋭い。しかし《空渡の標》から我らを喚んだ『ヒト』は、その牙を受け止めたという〉


 ルブラは戦鎚を振るズィークスを思い出し、緩みかけた頬を引き締めた。

 じっと耳を傾けていた《牙》の三柱が一斉にルブラを見やった。最強の竜が雄の血を入れずに生んだ忌み子。だが、それゆえに《憤怒の牙》の格を継ぐ実力は誰もが知る。


 若い竜達がざわめきだした。もし攻めてきたら? 攻撃を待つのか? こちらから攻めよう。所詮はヒトだ……。口々に不安を吐露し、虚勢を張り、ついには、なんでその場で殺さなかったと、ヒトを返したルブラを責めだす。しかし、


〈黙れ!〉


 古竜が一喝した。


〈聞け。ヒトは我らとの同盟を求め、先んじて我らと縁定めをしたいという。そこで皆に問いたい。ヒトと縁組をしてもよいという者はあるか?〉


 問いは冗談のように聞こえたのだろう。誰がヒトに嫁ぐかと声をあげ、からかうようにお前はどうだと互いに囃し立て合う。しかし、一向に名乗り出る者はいない。来る前にフヴァーカが予想していたように、誰も彼女の名を上げない。そして、


〈ルヴラルィンヤにいかせればいい〉


 誰かが言った途端に空気が変わった。交渉に行った当人が責をとれ。同じ姿でお似合いだ。我らの中にルヴラルィンヤと番いたい奴がいるか? 泣いて乞うなら俺の子種をくれてやってもいいぞ。嘲笑。若い竜達がルブラを嗤った。ルブラの紅き双眸に怒りが滲む。しかしルブラの口から咆哮が迸るよりも早く、古竜が厳かに述べた。


〈皆の意見は分かった。やはりルヴラルィンヤが適任のようだ〉

〈古竜様。ルヴルラルィンヤの話は聞かないのですか?〉


 火を吹きそうなルブラに代わりフヴァーカが言った。古竜は落ち着き払って返す。


〈竜の掟には縁組を決める前に正しい相手か見定めろとある。つまりは今の天海の底がどうなっているのか、ヒトとはどういう生き物か、見識を深めてから決めればよいということだ。ヒトの世に潜り込むのであれば、ルヴラルィンヤが適任であろう? 違うか?〉


 木を隠すなら森の中へ。森に潜む木になれるのはルブラだけだと言いたいのだろう。


〈……ルヴラルィンヤは竜の掟に背き、嘘をつくことになりませんか?〉

〈気にすることはない。千年前、先に我らを謀ったのはヒトだ。だからこそ我らの祖は掟を立てたのだ。それに竜の掟は竜のもの。ヒトを騙したとて何恥じるところはない〉

〈しかし……〉

〈これはすでに決めたこと。反論があるならその筋を示せ〉


 なおも食い下がろうとするフヴァーカに古竜が決然と言うと、


〈では、私が示しましょう〉


 若い雄の竜が進み出た。《囁く者》――ムルグイヨという名の美しいとはいい難い竜だ。角は不格好にねじくれ、ぬめりを帯びた闇色の鱗には不気味な斑紋が浮き、尾は立てば地につくかどうかという短さ。その力も息吹を浴びせて心を操るという浅ましさである。


〈ルヴラルィンヤは最強の《牙》の一柱。いかなる事情があろうと天海の底に沈めようというのは賛成できません。それでなくても忌み子として生まれた身で、あと何年生きられるのか分からない。沈めるくらいなら早くはらに子を宿すべきです。何度でも繰り返し進言しますが、この私なら今すぐにでもルヴラルィンヤと番ってもいい。どうですか?〉


 ムルグイヨはなぜかルブラを欲していた。ルブラの母が死ぬとすぐに自身と番うように求め、拒否されると他の竜を扇動し追い込もうとした。彼と番いたくない雌の竜は嬉々として提案に乗り、それが露見するや堂々と説得だと言ってのけた過去がある。


〈何度でもお答えしますが、私はあなたと番う気はありません〉


 当然、ルブラは受けた仕打ちを忘れておらず、ムルグイヨを亡き母の次に嫌っていた。


〈またそのようなことを。私以外に誰がお前と番う?〉


 天海島では見てくれが良くなければどうにもならない。血を継ぎ、種を残すのが竜の至上命題である以上、いずれは言葉通りになるであろうことが口惜しかった。


〈やめんか見苦しい。ルヴラルィンヤがいなくとも《牙》は三柱も残るのだ。鈍っていないのは憤怒の牙だけだと聞いておるから丁度いい〉


 傍に控える《牙》達を一瞥してそう言い、古竜はムルグイヨに目を向けた。


〈それに、血を繋ぎたいのは我も同じよ。そう急かずともルヴラルィンヤの胎は逃げん〉

〈……古竜様の仰せの通りに」


 ムルグイヨは頭を垂れた。二頭の竜はやりとりを終えるまで一度としてルブラを見なかった。同意も拒否もさせてもらえない。意志を求められていないのだ。ルブラが若い竜だからなのか、忌み子だからなのか、女だからなのか、それは分からなかった。

 古竜は他に反論はないかとばかりに押し黙る若い竜たちを見回し、宣言した。


〈天海の底に降りるのはルヴラルィンヤとする。皆、しばらくの間は静かに過ごせ〉


 古竜は深く息を吸い込み、吼えた。竜の言葉は呪音としての力を発揮し、さらに音を大にする。巣を囲う木々を揺らし、大気を震わせ、天海の底へと伝播していく。

 ヒトは空から降り落ちる古竜の声を聞き、交渉が成立したと知るだろう。


   

 その日、クルィロフ公国首都オーレグの調停院本庁舎に、奇妙な音が轟いた。遠雷のようでもあり、獣の遠吠えのようでもある、本能的な恐怖を呼び起こす音だ。庁舎から正面の噴水広場までという局所で鳴り響いた轟音は、居合わせた人々を震撼させた。


 そしてまた、執務室に戻ったそばから「いやでも交渉失敗で返答がないって線も……」と、現実逃避しかけていたズィークスを机上に沈めた。

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