第2話

 三日後、クルィロフ公国首都オーレグ。

 先日、竜との調停交渉について報告を終えたばかりのズィークスは、久々に柔らかなベッドの上で目を覚ました。


 一級調停士が調停院近くに家――それも一軒家――を構えるのは大変だが、朝のひとときを落ち着いて過ごせると思えば、苦労した甲斐もあったというものだ。


 ――今頃ボナエストは嫁さんと一緒になって大騒ぎだろうな。


 いささか不謹慎な想像をしてくつくつと肩を揺らし、ズィークスは湯を沸かし始めた。

 首都ならではとはいえ、蛇口をひねれば新鮮な水が流れ、煌石を利用したストーブコンロがあれば薪も火打箱もいらない。今は亡きオレグ公が魔国から煌石術の使い手を技術屋として招き入れ、首都の生活基盤インフラを整備してくれたおかげだ。


 北は長大な山脈に遮られ、南は海岸線からしばらく砂漠というクラング半島が《地獄の舌先》と揶揄されていたのも過去のこと。首都の名にも冠される調停公オレグ・クルィロフが五十年前に東伐軍を抜け、西方は神皇ロウリアから独立して以来、東の魔国とは友好的な関係を維持している。北部山脈と半島の大地に埋蔵される煌石を交渉材料にしたとはいえ、たった五十年で国を作り上げた調停公の功績たるや言葉では言い尽くせない。

 ――もっとも、ごく個人的な事情からズィークスは手放しには讃えてはいないが。


 ズィークスは紅茶をゆるりと楽しんだ後、支度をすませ玄関扉を開けた。

 と、同時に。ビキリ、と眉間に皺を寄せた。

 一匹の猫がいた。キジトラ。足と尾が短く目つきも悪い。嫌な予感がした。

 猫はじぃっとズィークスを見つめると、突然、ごぶふぁっ! と毛玉を吐き捨てた。若干の緑が混じったデカい毛玉だ。傍目にはウ○コである。


「…………猫ぉぉぉ……」


 呻くように呟いた瞬間、猫はこれみよがしに頭を下げ塀に飛び乗った。


「てめぇら! いつまで恨んでやがんだ! 狭量すぎると思わねぇのか!?」


 塀の先でふりふりと振られる尻に吼えかけ、ズィークスは毛玉を蹴り飛ばした。この程度の摩擦は職業柄よくあることだ。いつか見てろと舌打ちし、調停院へと歩き出す。

 近所のヒトの子どもが通りを駆け、活発そうな獣人の子どもや、ヒトによく似てヒトにあらずの亜人と合流し、学校へ向かう。大通りには商店を開ける獣人達がいて、持ち前の俊足を生かして言伝を伝えまわるグラスランナーの姿もある。しかし、


 ……また調停依頼が増えたか?


 調定院庁舎の正面にある噴水前広場『憩いの泉』は、今日も開院を待つ相談者で溢れかえっていた。一日でさばけるのは半分ほど。諦める者は少なく、日々増えるばかりである。

 休戦状態にある神皇ロウリアではヒト族至上主義を掲げる国教が権力を増しているらしく、公国に逃げ込んでくる獣人は増える一方。休戦もいつまでもつか分からない。

 だからこそ公国の未来のために竜との同盟を目論んだのだが――。


 先日、報告機会をメルラドに奪われてしまった。決定次第ではこれまでの努力も全て水泡に帰す。功績に飢える上司は上手くやると思いたいが、気が気ではなかった。

 ズィークスは逸る気持ちをおさえ庁舎に入った。受付嬢に会釈し、若き二級調停士や見習いが押し込められている事務室――通称タコ部屋を横切り、自身の執務室に入る。


「やーーーーと来たーーーーーーーーっ!」


 いきなり丸っこい大音量が飛び出てきた。私設秘書のナーリム・ユリランダだ。今年で二十四(つまり年上)とは思えぬ童顔をもつ女性で、人のことは言えないが未だに恋人の一人も作らない、情熱的マニアな生物・考古・文化人類学者である。


「遅い遅い遅い遅い遅い! 登院が遅いですよズィークスさぁん!!」


 少しばかり厚めの丸眼鏡の奥で、緑色の瞳が血走っていた。


「昨日、言いましたよね!? 人型の竜の話、聞かせてくれるって言いましたよね!?」

「……俺の鼓膜をぶち破る気かよ。まずは椅子に座らせろ。話はそれからだ」


 ズィークスはぐわんぐわんと揺さぶられた頭を押さえて戦鎚を武器棚に下ろし、部屋の最奥に置かれた自分のデスクについた。やっと『ヒト』心地だ。

 それほど広くない彼の執務室は、彼自身の執務机、部屋の中央に置かれた会議用の大きな机、混沌としたナーリムの机と本棚、対照的に整然としたボナエストの……ようは数多の机と資料で占拠されている。たとえば今、執務机の上に置かれている黴臭い本のように。


「……ぉおい、ナーリム? 勝手に他人の机に座るなって言ったよな?」

「違います! それは頼まれてた資料ですよぉ! そんなことより竜! 竜の話です!」


 瞳と同じ緑色の髪を振り乱すナーリムに、ズィークスは両手を挙げた。


「分かった。わーかったって。話すから……って、何? 頼まれてた資料?」


 誰が頼んだって? と本を取る。剥げかけた金文字で『英雄ヨーグ』とあった。千年以上前に竜とともに数多の戦場を駆け抜けたという戦士の物語だ。


「こんなん頼んだ覚えないぞ? ナーリム、お前、何か話すこと忘れてないか?」

「忘れてますよ! 竜! 竜の話を早く! 早くしないと私、死んでしまいます!」

「俺の執務室で勝手に死ぬな! つか竜の話より、この資料の話を聞かせろよ!」

「でもでもだって約束が――」


 食い下がるナーリムの話を遮るように、バン! と執務室の扉が開いた。思わず言葉を飲み込み目を向けると、顔面蒼白のボナエストが荒い息をついていた。


「探しましたよズィークス! 入れ違いになるなんて! 仕事があるからダメだって言ったのに夜は寝れないわ、朝はマナー知らずの蛇人の抜け殻を踏まされるわ、来たら来たで上司の上司に呼び出されて上司を呼べと言われ! 走っていったら入れ違いですか!」


 獣の毛を逆立てるボナエストは普段の紳士的な言葉遣いを忘れているようだった。


「えと、なんだ? こう、一旦、落ち着こう、一旦。な?」

「な? じゃないですよ! 《六人会議》がズィークスをお呼びですよ!?」


《六人会議》――それはオレグ公近縁と貴族以外は入れない雲の上の世界だ。参加者は一級調停士を束ねる上級調定官の上のまた上。中央調停院の代表を議長とし、公国六州にある地方調停院の監督官六名によって構成される、調停院の最高意志決定機関である。


「《六人会議》が……俺を? ……マジか?」

「大マジです! 早く行ってください! 今度という今度は東方送りになりますよ!?」

「わわわわ分かった! ボナエスとナーリムはここで待機! 行ってくる!」


 ズィークスは慌てて本を引っつかむ。


「えぇぇぇぇぇ!? 竜は!? 竜のお話はぁぁぁぁ!?」

「んなもん後だ! 東の果てでオークの相手だなんて冗談じゃねぇ! 行ってくる!」


 出かけ間際に足を引っ掛け、ズィークスは資料を撒き散らしながら駆け出ていった。


 同じ頃、調定院最上階の会議室は、裁判にも似た張り詰めた空気に支配されていた。

 もちろん、被告人役はメルラドである。椅子の上で縮こまり、落ち着きなく首を振って自分を見下ろす六人会議の面々の表情を窺っている。会議室に集う『七人』の表情は冴えない。正面に座る老人が、両翼に居並ぶ男女六人を見回し、重々しく口を開いた。六人会議議長であり、同時に中央調停院の院長である。


「――かれこれ一時間は経つのじゃが……ズィークス君はまだかね?」

「わ、私も探しはしたんですよ! それに奴の部下にも――」 


 バン! と、言い訳なぞ聞きたくないとばかりに七人の誰かが机を叩いた。メルラドは書記を務めている職員と一緒になって首を竦め、慌てて引きつった笑みを浮かべた。


「こ、これだから田舎者は! 時間にルーズで……いつも指導しているんですが――」

「あら。いつも指導しているのに、彼の企みには気づけなかったのかしら?」


 七人の内の、険しい顔をした中年の女が冷たい声で言った。


「い、いえ……今回の一件も、私が気付いたから、ご報告できた次第で――」

「責任の所在は後にして今はズィークスくんじゃ。彼が来てくれんと話に――」


 議長の言葉を遮るように、会議室の二枚扉をぶち破るように件の人が飛び込んできた。

 ほとんど反射といってもいい速さで立ち、メルラドは遅刻者に怒鳴った。


「遅いぞズィークス! 何をしていた! 私の貴重な時間を無駄に――」

「――お前のじゃない!」右翼に座る厳つい壮年の男が言った。「我々の、だ」


 メルラドは亀のように首をすぼめ、ズィークスは顔をしかめた。


「さっさとこっちに来いズィークス・ハシェック!」


 どうやらウチの上司は失敗したかと冷や汗をかきつつ、そうとは悟られないように胸を張る。たとえどんな相手であろうと退かずに向き合うのが彼の流儀だった。


「遅れて申し訳ありません。途中でちょっとした行き違いがありまして……」


 すぅ、と七人の誰かが息を吸い込んだ瞬間、議長がコンと小槌を鳴らした。


「怒鳴り散らしても溢れた砂粒は戻らん。竜の言葉なら別じゃがの。話を進めよう」


 議長は手元の紙に目を落とし、小さな老眼鏡をかけた。


「――さて。ズィークスくん。メルラドくんから報告を受けておるが……竜との交渉とは大それたことを考えたものじゃの」

「それは……」

「まぁ待つんじゃ。少々やりすぎじゃが儂らは若い調停士の野心に寛容なつもりじゃ。それに君の秘書、ナーリムくんが見つけたという竜の住む移動する浮遊大陸だの、それがちょうど地上とつながる周期だの……荒唐無稽な話を信じて交渉に成功したとなればなおさらじゃ。冒険家としてならズィークスくんは一生食いっぱぐれずにすみそうじゃの?」


 冗談めかした言葉を受け、六人会議の面々が冷ややかに失笑する。

 ズィークスは乾いた唇を舐め、持ってきた本に目を落とす。


「お言葉ですが、『英雄ヨーグ』の伝説について最も原典に近いと思われる写本を――」

「ええ」


 左翼側に座っていた中年の女が、言葉尻を食いとるように言った。


「先日のうちに報告書も読ませていただきましたし、付記されていた資料にも当たりました」


 言いつつ刺すような視線をズィークスに投げた。それでタコ部屋にいつもより人がいたのかと、ズィークスは総動員されたであろう二級調停士と事務員に同情した。


「そこまで把握しておられるなら、もう私のような下っ端の手は離れていそうですが?」

「そう簡単にもいかないのよ、下っ端くん?」


 中年女は品定めするような目でズィークスを眺める。


「竜の結婚相手を探さないといけない。でしょう?」


 ズィークスは顔をしかめて頷いた。結婚相手の話に入るということは、交渉を進めるという方向で決まったらしい。喜ばしいことだ。しかし何か妙だった。


「どこの世界に、空を飛び火を吹く蜥蜴とかげと結婚してもいいという『ヒト』がいるの? 呼びかければ他国に知られる。内部のから募るにしても二級調停士ごときに任せられる?」

「……『英雄ヨーグ』は竜と出会ったとき、すでに結婚していたそうです。周辺の記録からすると竜と婚姻関係をもったと考えられるそうですから、竜は一夫多妻の――」

「それの、何が、どう、大丈夫なのかしら?」


「…………つまり、竜は長命とされていますし、年齢のいったヒトでも――」

「正直に答えなさい? 竜にとって、魅力的なヒトというのは、どんなヒトかしら?」

「……竜が残した言葉から推測すると……力があるヒト……ですかね?」

「そうよね。英雄ヨーグは今でいう騎士階級だった。竜は彼の武力を認めたそうね。下っ端くんの下っ端ちゃんが出してきた資料にそうあったわ。では聞きましょうか。下っ端くん? 今の公国で騎士階級にある人間はどれくらいいるかしら?」


 ズィークスは頭を抱えたくなるのをこらえ、微かな記憶を頼りに答えた。


「……騎士を名乗るのが許されているのは二百か三百くらい……でしょうか」

「それは戦前でしょう? 五十年も前のことだから忘れた、なんて言わせないわよ?」


 それは公国が魔国と講和するために払った犠牲だ。騎士は戦時下の行為を精査され、英雄から一転、戦犯となった。剣と家督は没収され、魔国への賠償金に充てられた。


「今、騎士を名乗る権利があるのは、亡命者か、戦争に加担しなかった者だけ……」

「覚えてるじゃない。そう、武力とは無縁の政治屋だけ。――さて、下っ端くん?」

「……戦う力がないと……竜のお眼鏡に叶うのは難しいと思います……」

「そうよねぇ。資料を見る限り、そういう結論になるわよね?」


 中年女の嫌味な聞き方に嫌気が差し、ズィークスは眼光を鋭くした。


「そこまでご承知なさっていて、俺を吊るし上げる意図はなんでしょう? まさかおたくの旦那さんが俺に惚れているとかって話ではないでしょう?」


 ビキッと中年女のこめかみに青筋が立った。近ごろ彼女の亭主は獣人の男娼にご執心だという噂があった。獣人が交わす足の早い噂話に長ずるのは下っ端であるがゆえだ。


「あなた、オークの相手は得意? 保護区域の近くに駐在する気はあるかしら」


 死にたいのか? の言い換えである。ズィークスと中年女が睨み合う。

 と、先程まで怒鳴っていた壮年の男が肩を揺らしはじめ、やがて声をあげて笑った。


「いや、そうなればウチは諸手をあげて迎え入れてやろうじゃないか」


 どうやら魔国と接する州の監督官だったらしい。男は躰を傾けズィークスの顔を覗く。


「監督官に喧嘩を売るとはいい度胸をしてるじゃないか。飛ばされそうになったらウチにくるといい。何、心配はいらんさ。喧嘩になったら竜の嫁さんを出せばいい」


 言ってハッハと豪快に笑った。つられて笑いかけたズィークスだったが、竜の嫁さんという聞き捨てならない単語に気づき、血の気が引いていくのを感じた。

 慌てて正面に向き直ると、議長が意味深な頷きを繰返していた。


「……いや、さすがじゃのう、ズィークスくん。交渉を進める方針つもりで昨晩は若いの総出で竜の伴侶に妥当な人材を探していてな? ズィークスくんの経歴を見てびっくりしたわい。とんでもない野心家が手元におったものだと感心していたんじゃよ」


 六人会議の面々が、ズィークスを見下ろし冷ややかな笑みを浮かべた。


「ズィークス・ハシェック。懐かしいのう。《竜鎚》のハシェック。儂が子どもの頃、お祖父さんはまぎれもなく英雄じゃった。それが講和と同時に戦犯……辛かったろう」

「……えっ? それは、たしかに、そのとおりですが……え?」


 そう。ズィークスがオレグ公の功績を手放しに褒められないのは、彼の祖父が家督を没収された騎士だからである。戦後処罰を免れたのも、家に戦鎚が残っていたのも、老いたハシェックの下に待望の男児が生まれたがゆえの温情に過ぎない。


「可哀想にのう。北の州に追いやられたお祖父様は肺を患い、失意の内に亡くなられたそうではないか。ズィークスくんもさぞオレグ公を恨んだことじゃろう」

「い、いえ……俺が物心ついたときには、もうオレグ公も……。というか、ウチが貧乏だったのも、俺が石工になったのも、親父がロクでもない奴だからで……」


 ズィークスの震える声をまるで無視して、議長は捲し立てるように続けた。


「いやしかし野心的な計画じゃ。脱帽じゃよ。英雄の血を引き、武力知略に秀で、末の子ゆえに家業を継がずにいい。しかも《外道》の異名をとるスゴ腕の一級調停士じゃ。この状況、この条件……竜にしても恥ずかしくない婿がおるなら君以外にありえん。それに嫁をだすなら竜に詳しい君の秘書がよい。それを見越しておったわけじゃな?」

「ま、待ってください! 俺は別に――」

「その遠謀深慮、儂は感服した! 見事な知略じゃ! 途中で看過はしたものの、ズィークス・ハシェック一級調停士の野心を鑑み、儂らは君を竜への婿として指名する!」


 ガァン! と議決の小槌が打ち鳴らされた。


「えっ……えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」


 小槌の音の余韻を打ち消すように、ズィークスの悲鳴が議場に響いた。

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