たとえ空を落としてでも

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第1話

 新月の夜だった。雲よりも高い極寒薄気の世界、星明りに照らされる霊峰ブ・ラ・ンガャの頂に、橙色に輝く光点が三つ。橙煌石のたいまつを足元に立て、三人の男が横列に並んでいる。

 彼らの視線の先には空へ真っ直ぐ伸びる《転移門》に似た石柱があり、かつて竜が人に与えたとされている竜を喚ぶ魔法陣が敷かれていた。


「ズィークス!」


 中央の、豪奢な服に身を包み装飾過多な剣を下げた貴族らしき男が、右手に立つ黒外套の青年に言った。青年は身の丈ほどもある戦鎚を杖の代わりに地に突いていた。


「いつまで待たせるんだ!? もう一時間は経ったぞ!? この私の貴重な時間を二日も使わせておいて、無駄骨でしたでは済まさんぞ!?」

「――メルラド? 俺、無駄かもしれないんで来なくていいって言いましたよね?」


 とうとつな上司の説教に、ズィークスはため息をつきつつ外套のフードを下ろす。耳に冷気が齧りついた。緋色の裏地がわずかな暖気を感じさせてくれるが、


 メルラドめ、よくこんな環境で顔丸出しでいられる。


 そう内心で毒づきながら、ズィークスはメルラド越しに左端で黙して佇む男に目をやった。無骨な鋼の胸当てをつけた……狼類の半獣人だ。

 獣人よりもヒトに近いとされる半獣人の大勢と同じく、顔や体格は人間そのものだが、頭には狼の耳を生やし、顔と腹を除いて白銀の体毛に覆われている。


「なぁ、ボナエスト。俺、来なくていいって言ったよな?」 

「――そこで私に聞きますか? 知りませんよ。現場にいたわけじゃありませんし」

「いや、そこは上司の顔を立てろよ」

「上司と、上司の上司。自分が下っ端だとして、ズィークスならどっちを立てます?」

「貴様らぁ! 私を無視して好き勝手に話すなあああ!!」


 癇癪めいたメルラドの絶叫が、風に巻かれて夜闇に消えた――そのとき、

 頭上で雷鳴が轟いた。

 呆けるメルラド越しにズィークスはボナエストと顔を見合わせる。

 厚く張った雲は今朝のうちに通り抜けた。メルラドの無駄にかさばる荷物を山頂に置いたとき、たしかに満天の星を見た。普通に考えれば頭の上で雷鳴が響くはずがない。


「メルラド。準備を。竜が来ます」

「ふん。空を飛ぶトカゲの分際でこの上級調停官メルラド・デュエン・ニェーツクを待たせるとはいい度胸だ! ガッッッッッッツリ! 立場というものを教えてやる!」

「……宣戦布告に来たんじゃねぇんだから、穏便にお願いしますよ……」


 高まる緊張を台無しにするメルラドの咆哮を横目に、ズィークスは首を垂れた。

 刹那、眩い閃光を放ち稲妻が落ちた。メルラドは首を竦め、ボナエストは獣の耳を伏せた。

 しかし、ズィークスだけは平然と戦鎚の長柄を左に持ち替え、空の右手を垂らした。ヒトの作法で敵意はないと示すためだ。竜に通じるかどうかは別だが。


 落雷の余波で冷風が吹き抜けた。竜を喚ぶ魔法陣の中央に気配が現れる――が、

 竜にしては小さい。

 ズィークスは足元に立てていた橙煌石の松明を正面に差し向けた。傾きに応じて赤光が前方に集まり闇を裂く。そこから、するりと歩き出てきた生き物は、


「……う……お……!?」


 思わず言葉を失うほどの、美しい少女だった。年の頃は十七、八か。鮮やかな赤い短髪、紅玉のように美しい紅い瞳、皮の下に雪がつまっていそうな白肌の、少女。瑞々しく豊かな双丘としなやかな脚を衒うでなく晒す姿は、美の女神といわれても疑わないだろう。


 稲妻と共に現れた少女の裸形に、ズィークスは一瞬にして目と心を奪われた。仕事柄、公国内のあらゆる州に赴き、あらゆる種族と接し、あらゆる美を知っているつもりだったが、

 少女は、あらゆるものより美しかった。

 完全に呆けているズィークスに、ボナエストが鼻をひくひく動かしながら小声で言った。


「ズィークス。彼女、ヒトではありませんよ」


 言われてよく見てみれば、少女の紅い瞳はヒトのそれではない。たとえるなら、猫か蜥蜴のような、縦長の瞳孔をもっている。


「……当たり前だろうが。私たちは空飛ぶ蜥蜴どもと交渉に来たのだぞ?」


 メルラドはふんと鼻を鳴らして前に出、少女の爪先から頭の天辺まで見回した。


「……まさか半竜人ドラゴニュートとやらか? 竜はどこだ?」


 途端、少女の形のよい眉がぎゅっと寄った。


「今、なんとおっしゃいましたか?」


 周囲の冷気よりもさらに冷たい声音。古めかしく過剰なくらい丁寧な口調に怒りを感じる。

 しかし、メルラドは退かない。強気な態度から主導権を取るのが彼のやり口だ。


「半竜人かと聞いたのだ。お前のことだ、女」


 言い終えるかどうかというとき、少女が全身から鋭い殺気を放った。


「――メルラド!」


 ズィークスは咄嗟にメルラドの襟を引き、戦槌を下から振り出した。柄頭の付け根にとりつけられた鳴洞器が風が吸い、《金剛不壊》の呪音で戦鎚を硬化する。同時。突進を仕掛けてきた少女が右腕を突き出した。速い。ズィークスが手の内で柄を回した瞬間、


 ガンッ! と激しい打音をたてて戦槌が押し返された。弾かれた柄頭がメルラドの胸を強かに打ち、大きく後方にふっ飛ばす。

 ズイークスは反動を利用し、その場で旋回、戦槌を両手に持ち替えた。


「ボナエスト! メルラドを頼む!」


 指示に従い半獣人の部下が駆け出していった。そして、正面の少女は、

 きょとんと目を瞬いて、自らの右手と、ズィークスの戦鎚を見比べていた。


「……驚きました。手加減したとはいえ……それに、今のは……」


 手加減? あれで? と、ズィークスは痺れる両手を握り直した。以前、西側の新兵器だという小径の砲弾を戦鎚で打ち返したことがあったが、それ以上の威力だった。


「その戦槌に付いているのは何ですか? 我々の声とよく似た音を出しましたね」


 我々とは、つまり竜ということだろうか。ズィークスは油断なく気配を探る。今はもう殺気は感じられない。獣人族は類を問わず気まぐれな奴が多いが、竜も同じなのか。 


「メルラド――ウチの上司がとんだ失礼をしました」


 喉を鳴らし、ズィークスは構えを解いた。戦槌の柄頭を地に突き立てる。

 仕掛けてくる寸前メルラドが口にしたのは半竜人という言葉だった。来る前に部下に調べさせた資料によれば竜は極めて誇り高いというし、間違えられて怒ったのだろう。


「……これは鳴洞器といって、あなたがた竜から頂いた道具だと言われています」


 興味があるならやり直せる、とズィークスは柄頭の鳴洞器を指差した。ふんふん、と小さく頷きながら近寄ってきた少女は、鳴洞器をしげしげと眺めた。


「ヒトが竜の言葉を使えるとは知りませんでした。触ってみてもいいですか?」

「……構いませんが、壊さないよう気をつけてくださいね?」

「壊しません」


 少女はぷぅと不満げに頬を膨らませた。


「これは……骨ですね?」


 少女の声音が僅かに冷え、ズィークスは自らの失態に気付いた。

 鳴洞器は竜言語を発する魔法使いの喉の代替装置だ。呪音を鳴らす笛のようなもので、形状ごとにいくつかの魔法を発現できるのだが――鳴洞器は竜の骨を加工して作られているのだ。もし少女が竜なら、祖先の遺骨をいじくり回したと思われるかもしれない。


「……面白いものを見せていただきました。ヒトも千年の内に変わったようです」


 少女は予想に反し、満足そうに戦鎚を返してきた。どうやら骨には頓着しないらしい。


「先程は失礼しました。私の名は……」


 少女の花弁のように可憐な唇が開かれた瞬間、耳に鉤爪を突っ込み頭の中をかき回すような音が鳴った。竜言語である。あえて音に直せばルヴラルィンヤが妥当だろうが、ヒトでは舌三枚と喉が二本はなければ正確に発音できなそうな音だった。


「えーと……申し訳ない。私の喉だと正確に発音できないのです。この場だけということでもいいので、ルブラと呼ばせて頂いてもいいでしょうか」

「……えっ? か、構いませんがっ……それはっ、私を、名付けるという意味ですか?」


 ルブラは真っ白い頬をわずかに朱に染め、視線を宙に彷徨わせた。ヒトであれば照れているとみなせるのだが、竜でも同じとみていいものかどうか。


 だが、何であれ相手の感情こころを打てたなら、交渉を優位に進められる。

 ズィークスは一気に調停を進めようと前に出る。ルブラがはっと顔を上げた。露わになった美しい裸体がより近く、少し腕を伸ばせば柔らかそうな双丘にも手が届――いかん。

 余計なことに気を取られかけ、慌ててズィークスはそっぽを向いた。


「失礼。そ、その……」


 なぜ服を着てくれていないのか。決まっている。竜だからだ。先の打突の感触からして相手は素手で鉄を引き裂くことができる。怒らせずに裸を肌を隠させる方法は――。


 必死になって脳内に資料を広げ、部下が転記してくれたいくつかの説を思い出す。たしか、竜は捧げ物を好み、鱗の美しさを競うという。なら捧げ物で隠すのはどうだ、とズィークスは外套を緋色の裏地が見えるようにふわりと広げ、少女の細い肩にかけた。


「どうぞ、こちらをお召ください。あなたの美しい肌は俺には刺激が強すぎます」


 美しい肌という語列がこうも言いにくいとは思わなかったが、甲斐はあった。

 目を丸くしたルブラは頬を薔薇色に染めこくんと喉を鳴らした。


「嫌味ですか? 輝く鱗もなく、長い尾も、角すら持たないこの躰が美しいと?」


 外見の話は禁句だったようだ。ズィークスは慌てて両手を左右に振った。


「ち、違いますよ! ヒトですから基準は違うかもしれませんが、本当に美しいと思ったんです! というか、それはもうあなたの物ですから、どうか着て頂けませんか!?」

「……本当に? 私の肌が……? そう……そうですか。では、この外套は、あなたからの、さ、捧げ物として、頂戴しておきます」


 ルブラはいそいそと外套を羽織り直して深呼吸をすると、キリっとした顔になった。


「それではヒト……いえ……そういえば、名前を聞いていませんでしたね」


 慣れない交渉のテンポに冷や汗をかきつつ、ズィークスは丁寧にお辞儀をした。


「一級調停士のズィークス・ハシェックと申します。どうぞズィークスとお呼びください。我々はこの山より遥か南、半島の中央にありますクルィロフ公国から参りました」

「そのような国は存じておりませんが……構いません。天海の底は移り変わりが激しいことは知っています。それに、ズィークス。あなたの名前は生涯忘れるないでしょう」


 厳かに言い、ルブラは両手を躰の前で淑やかに重ねた。


「では、そろそろ本題に入りましょう。ズィークス、あなたはなぜ竜を喚んだのですか?」

「我々は、交流が途絶えてから千年を超えた今、正式に相互不可侵の条約を定め、竜と公国の間で同盟を結べないかと提案しに参りました」

「……天海の底のことなど我らは知りません。天海に昇った時点で分かっているはずです。我らは生きたいように生きています。仮に同盟を結んだとしても、我らに利は――」

「あります。クルィロフの法を守る限りは、我々、ヒトから攻撃をうけなくなります」


 冷たく鋭くなっていく紅い瞳を見つめ返し、ズィークスは心を殺して言った。


「先ほど、私はルブラさんの攻撃を受け止めました。もちろん加減してくださったのでしょうが……ヒトは千年で膨大な数になっています。戦いを挑まれては面倒では?」

「……脅しのつもりですか?」

「いえ。我々はそれを望まないという話です。名目上この地を管轄しているクルィロフは現在、自由を掲げて中立を保っています。ですが、西方には人族至上主義を教義とする神皇ロウリア王国が、東方には莫大な武力を背景にもつ魔族を中心とした……」

「ですが、我らは天海の底に生きる者と交渉はしません」


 ズィークスの説明を遮るように言い、ルブラは瞼を落として顎を空に向けた。きた、とズィークスは内心でほくそ笑む。千年前、竜は竜以外との交渉を持たないと宣言して地上を去ったという。逆にいえば、竜族となれば交渉が進められるのだ。


 調停院が交渉してきた数多の種族には婚姻関係を結べば互いを同族とみなすという共通の法則があった。記録のうえでは竜と婚姻を結んだヒトの記述はないが、政略結婚はどこの世界でも行われているとズィークスは確信していた。


「――存じております。ですから我々は、ヒトから代表者を選び、同盟関係の礎を築くべく、竜と婚姻を結びたいと考えているのです。いかがでしょうか?」


 ズィークスのもちかけた話に、ルブラは視線を彷徨わせ、やがて静かに言った。


「…………私の一存では決めかねます。一度持ち帰ってもよろしいでしょうか」

「もちろんですよ。ただ、できれば返答は四日以上の間をあけていただけますか? なにしろ我々ニンゲンの足では、この山に登るだけで二日かかるんですよ」

「……分かりました。では決まり次第、昔ながらの方法でお伝えします。それからさらに三日後、またこの地にてお会いしましょう。いかがですか?」

「承りました」


 ズィークスは右手の手袋を取った。


「では、お手を拝借しても? ヒトの世界では交渉が成立したとき、握手を交わすのです」


 ルブラは差し出された手を興味深げに見つめ、くるりと背を向けた。


「竜の鱗は何よりも大事なものです。覚えておいてください」

「……かしこまりました」


 言ってズィークスは肩を竦め、手袋をはめなおした。黒い外套を纏うヒトの姿をした竜が闇の中へと消えていき、天へ昇る稲妻とともに姿を消した。途端、

 だぁはっ! とズィークスは溜め込んでいた息を吐き、強張っていた肩を回した。

 ルブラの姿が絶世の美女で裸だったのも多少は関係しているかもしれないが、それ以上に、戦えば万に一つも勝ち目がなさそうなことに緊張を強いられていた。


「っても、竜を話に乗せたんだ。報奨くらいは出るといいんだがな」


 そうぼやいた瞬間、頭上で特大の雷鳴が轟いた。

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