16.75 L'amore che si conslude con l'inzio






彼女を意識した瞬間がある。


それが、既に手遅れだったことも分かってる。


手が出せない、届かないところまで行ってしまった。


彼女は、前園から桑畑へと変わる。





















「松戸さん、この前の出張の時の領収書を出してください。そろそろ経理から文句を言われそうですよ」


言われて、俺はパソコンに向かっていた顔を上げた。


「あ、あぁ」


知らず、声が上擦る。


何だって、今になってこんなことに気づくんだろう。手遅れになってからなんて、笑い話にもなりはしない。


もう、前園は桑畑主任と婚約していて、1ヵ月後に結婚式を控えている。


俺は日々魅力を増していく前園に惹かれている自分を抑えるだけで必死だった。


そんな俺にも、ついに年貢の納め時って奴が来た。


数日前のこと。2人そろって俺の前に並ぶから嫌な予感がした。そして、その予感は的中して、結婚式の招待状を受け取ってしまった。その招待状は、机の隅にクリップで留めてある。見るたびに今でも心がざわつく。


「…… もうちょっと、整理したいな」


言いながら、前園に言われた領収書を準備する。


情けないことくらい分かってる。あの懇親会で、完全に俺にチャンスがなくなったことだって知ってる。そもそも、勝負にすら出ていなかったことも分かってる。


でも、こんなに惹かれるなんて想像もしてなかった。


「はぁ」


溜息を吐いて、かぶりを振る。


今だけでいい。この一瞬だけでいい。首を擡げる感情に蓋をして、心の底に押し込めた。今だけでは、出てくるんじゃない。


「前園、これ領収書。申請はこの前ので大丈夫だった?」


「はい。では、早速経理に提出してきます」


フロアを出て行く彼女の後姿を見送って、俺もフロアを出た。


コーヒーでも飲んで、少し落ち着こう。


一番近くの自販機まで行って、缶コーヒーを買う。安っぽい味だけど、今はそれでいい。いいのを飲んでしまうと、前園が挽いた豆で淹れたコーヒーを思い出してしまう。朝に、配られてたあのコーヒー。


今は思い出したくない。決して自分のものにはならない、自分のためだけには淹れてくれない。そう思うだけで、苦しくもなる。


一気にコーヒーを呷る。


「不味い……」


このどうしようもなさが、自分の選んだことだ。


第一、前園が桑畑さんに触れて変わっていくのを微笑ましく見ていた自分に何か言う権利があるとは思えない。それ以上に、常に何かに怯えていた印象のある前園をああまで変えてしまった桑畑さんを凄いとさえ思う。


「敵わないんだよな、これが」


最初から。


彼女に初めて休みを取らせたのも桑畑さんだったし、誰よりも先に病院に飛び込んだのも桑畑さんだった。俺は何も気付かなかった。


もっとも、初めは噂のこともあってだらしない人だとも思っていたのだけど。そのあたりの話を本人とすると何も言えなくなった。桑畑さんの結婚観と彼に寄ってきた女性達とでは決して相容れない。その予防線は張っておきたかったんだろう。


そのために余計な苦労もしたって言っていたけど。


「さてと。そろそろ行くとするか」


今日も元気に外回りだ。



























出掛けに開発に寄っていく。今日の営業先に持っていく資料を請求していたからだ。


「お、松戸。これが資料だ」


「ありがとよ、和泉」


同期の和泉から資料を受け取って踵を返そうとして、やめた。


「和泉。お前、またふられたのか?」


彼女ができてはすぐにふられる。それが俺の知る和泉新という人間だった。


そもそも、こいつの生活能力が高すぎるのが問題なんだ。料理から掃除洗濯を一般の女性以上にこなす。そんな男と一緒にいて耐えられる女性はそうはいない。


「嫌な話をするなよ。あれ、全部戸崎の嫌がらせだったんだぞ。しかも、俺じゃなくて相手の女に対する」


「知らなかったのはお前だけだぞ」


「それこそ嫌な話じゃないか」


そりゃ、和泉の残業の日に集まった同期が戸崎の宣言を聞いていたわけだからな。知らぬは本人ばかりだ。


「ま、気にするな。それをお前が知ったっていうことは、もう打ち止めってことだからな」


そう言って、今度こそ踵を返した。


開発のフロアを出てすぐに、総務の子が来た。


名前を思い出せないけど、たしか前園と仲がよかった気がする。


「お疲れ様です」


「あ、あぁ」


不意を疲れた部分もあって、中途半端な返事しか出来なかった。


…… 思い出した。小野寺さんだ。高卒採用だから同い年の先輩だっていうんで桑畑さんをはじめとする先輩に気をつけろって言われた人だ。年が一緒でも先輩だから失礼はできないからな。


って、さっきの失礼じゃないか?


当人は既に開発のフロアに入っていた。今更開発に戻るのもどうかしている。


「今度あったら話聞いておくか」


失礼だと思われていたらきちんと謝ろう。


思えば、前園が来てから総務に行く機会がずいぶん減ったように思う。総務だけじゃない。経理だってそうだ。


おんぶに抱っことはまさにこのことか。


当たり前は当たり前じゃない。変わらないものは、俺達にとっては存在しない。本当に変わらないのは、俺達を超えた、いまいち得体の知れないものくらいだろう。


でも、その変化にしても。前園が桑畑さんから俺のほうを見てくれるという変化はありえないんだろう。そこに確信がある。


あの二人の式まではまだ時間がある。だから、俺はそれまでにきちんと祝福できる俺になろう。


変わらない俺は存在しない。変えられていく、変わっていく俺が存在する。


それに、結婚という単語がわりとリアルに聞こえてしまう年になってきたから、先に進まないと。


前園には、抱えてる想いは言わない。桑畑さんにも言わない。


俺のこの恋は、始まりと一緒に終ったんだから。


だから、これでいい。




























言い訳がましい後書き。




松戸が主人公のスピンオフでした。ちなみにこの松戸君、若さを武器に静季のライバルになってもらいたくて登場させて、一度は噛み付かせたんですが、樹の方が気にも留めないので、結局は自覚と一緒に終ってもらうことになりました。


ここで松戸が頑張ったところで横恋慕にしかならないので。


本編スピンオフはここらが限界だと思うので、いい加減、本編最終話にシフトしたいとも思います。


ちなみに、今回の副題は松戸君も最後に言ってくれましたが、始まりと共に終る恋、でした。

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