14.estate






夏が来た。


季節が流れると共に、外堀から確実に埋められている気もする。


それが悪いことだとは思わないけれど。


未だに、結婚というものに実感が湧かない自分がいる。





















夏が来た。


あれから、どうにか交際を続けてきた私たちだったのだけど、つい先日のこと。ついにと言うべきか、もうと言うべきか。とにかく、私は桑畑さんからプロポーズをされ、断るだなんてことを一切考えられなかった私は、それでも悩んだ末に承諾した。そうして、現在の状況に至る、というのが大筋。


さて、そして今。汗が止まらない。これはきっと暑さとは関係ないはず。そう、今、これからのことに緊張しているだけ。一つずつ整理してみれば緊張もほぐれるかもしれないし、ちょっと整理してみよう。


今、私は桑畑さんのおうちで座っているわけなのですが。うん、落ち着こう。ただ座るだけならもう慣れたはずだし、真央ちゃんは友達だし、ただこの部屋にいるだけで緊張することはないはず。


そう、ただこの部屋にいるだけならば。


「樹、硬くなりすぎだ。別に獲って食うわけでもないんだから」


「そ、そう言われても」


緊張するなって言うほうがどうかしてると思う。だって、今は桑畑さんのご両親に結婚の挨拶をするためにここにいるんだから。


まだなのかな? 来て欲しいような、来て欲しくないような。こういうのを生殺しっていうのかもしれない、なんて馬鹿なことを考えつつ。


「お兄ちゃん、来たよ」


扉を少しだけ開けて真央ちゃんが顔を出した。


「樹さん、頑張って」


それだけ言い残して真央ちゃんはいなくなった。薄情者。そんな単語が頭を過ぎる。うん、真央ちゃんは別に薄情じゃないし、これからのことは代わりはきかないのだから。真央ちゃんに当たるのはどうかしてる。でも、当たりたくもなる。


「入るぞ」


ノックに続いて、男の人の声。もしかしなくても、桑畑さんのお父さん。


扉が開け放たれ、そこからがっしりとした体格の男の人と、ちょっとふっくらとした女の人が入ってきた。


「悪いね、普通ならそっちに行くのが礼儀なんだろうけど」


「構わんさ。何せ、お前のほうがいい部屋に住んでるくらいだからな」


入り込む余地がない。


「で、そこで黙り込んでしまったのが、か?」


入れないと思っていたところで急に矛先を向けられ、一瞬、体がはねてしまった。


「驚かすつもりはなかったんだが。すまんな」


「い、いえ」


小さな声だったと思う。というか、緊張してる所為か、自分がどんな顔をしているのかもわからないし、言葉だって思ったとおりの言葉が出ているかもかなり怪しい。


どうしよう。ここで変な印象なんて持たれたら結婚どころの話じゃなくなっちゃうんだよね?


「静季。お前、こんな娘をどこで見つけてきたんだ」


「会社だよ。同じ部署に秘書として配属されてる」


矛先が自分でなくなったことに、ほっとしてる自分がいた。でも、違う。それじゃ駄目なんだ。


びくつく心を無理やりねじ伏せる。エアコンの効いた部屋なのに、汗が流れ落ちた。


「も、申し遅れました。私、前園樹と申します。この度は、お忙しい中……」


「いや、本題からでいい。自己紹介もしてもらったわけだしな」


そう言って、桑畑さんのお父さんは隣の桑畑さんのお母さんに目配せをした。


「そうね。堅苦しくないのがいいのでしょうし」


うん、それはそれで無理な注文だと思う。でも、そうだね。その言葉に従うしかない。


「では、私と静季さんとの結婚をお許しいただけないでしょうか?」


幾らかの沈黙。そして、ご夫妻そろって大きく息を吐き出した。


「許すか許さないかだと、許すしかないだろう」


「ええ。中々、こんな話を持ってこない息子が結婚したいといった子が、こんなにかわいらしいお嬢さんだって言うんなら拒む理由はこっちにはないわ」


あまりにもあっさりしていた。こんなに簡単な話なんだろうか?


「あ、でも一応は確認させて欲しいのだけど」


「はい」


「ご自身やご実家に負債、借財、大きなローンなどはあるかしら?」


自分にそんなものがないことは自分が良く知ってる。家のほうは、多分大丈夫だよね? 家のローンは私が短大に入る前に返し終わっていたし、借金するようなこともないと思う。


「大丈夫だと思います」


「そう、良かったわ。いざ、結婚してみたら車のローンやらカードローンがたくさん、というのはちょっとね、息子がかわいそうだから」


うん。それはそうだと思う。


でも、そういった意味では私とその家族は健全なんだと思う。思えばタバコは吸わないし、ギャンブルもしない。精々、それぞれ何かしら飲み物に少しばかりの拘りを持っているぐらい。


「ねぇ、もし良かったら簡単な馴れ初めでも聞かせてもらえないかしら?」


この言葉で私と桑畑さんは固まってしまった。


馴れ初め。一体、どう話せばいいのか。


「俺のほうからでいいのなら」


「いいわよ。でも、できれば2人分聞きたいわね」


言外に、しっかりと聞かせてもらいますという意思が伝わってくる。逃げることはできそうになかった。


「同じ部署に配置になったときはそんなに意識はしてなかった。ただ、新人が来たのかって思ったぐらいだった。実際、俺は営業だし、彼女はオフィスに残って雑用をこなしていくのが仕事だったわけだし」


こういう話は初めて聞く。そういう意味では、これも私が知らない桑畑さんでもある。


「個人的な接点を持ったのは、今年の梅雨からで。雨の中、本を何冊も抱えて雨宿りしてる樹を見つけたときだったかな」


「ドラマみたいな接点ね」


「茶化すなよ。ともかく、それが最初だったな。あとは、仕事で助けてもらった後に、ちょっとあって。それから色々とアプローチをかけて、まぁ、危ないこともあったけど。最終的には結婚前提で承諾を得たってことかな」


色々省いてる。まぁ、あれは汚点だよね。できれば誰にも教えたくはないと思う。特に、肉親には。


「あなたにとっては?」


「私は」


口にして、思いを巡らせる。


出会いは、桜の頃。接点は紫陽花の頃。今は向日葵の頃。


「私も、意識をしたのはほぼ同じ時期です。ただ、私、お恥ずかしい話ですが、22年生きてきておいて初恋すらまだだったんです。ですから、静季さんが初恋の相手で、それが実ったというだけで驚きというか。何とも言えない感覚です」


恥ずかしいながらも、2人のほうを見ると、信じられないものを見るかのようにして私を見ていた。


「初めて?」


「はい」


「過去に交際した人だったり、関係を持った人は?」


「いませんが」


いたほうがいいのかな? でも、それも違う気がする。


「静季」


お父さんのほうが桑畑さんを呼び寄せる。


「いいか、絶対に逃がすんじゃないぞ? こんな天然記念物並みの娘なんて、そうそう見つかるもんじゃないぞ」


「わかってるけどさ。そういうこと、本人を前に言うことじゃないと思うけど」


「いや、お前はわかってない。いいか。結婚まで清いままの娘が最近ではどれだけ珍しいことか」


短大の大半の同級生はそれが恥ずかしいことだって言っていた。経験が多ければ多いほうがいいって言っていた。


でも、それは違うと思った。そんな簡単に捨てていいものじゃないと思った。


「樹さん」


「あ、はい」


今度は私がお母さんのほうに呼び寄せられた。


「あなたが、そうなったのは偶然なのかもしれないけど。でも、そうやって息子と出会えて、こうなったことは私たちにとってはとても嬉しいの。単純な話だと、遊び歩いてる子よりも、それをしない子の方がいいのよ。少なくとも、古い価値観で生きてきた私たちのような人間からしたらね。それに、初恋がウチのだって言うけど、それがとっても嬉しかったの。


 だから、今度は娘として会いたいわ」


「ありがとうございます」


今日、一番嬉しい言葉だった。



























挨拶が終ると、桑畑さんはご両親に連れられて出て行った。まだ色々と言い足りないらしい。


そんなわけで取り残された私は真央ちゃんとアナベルまでやってきていた。


「おや、真央ちゃん。今日はバイトじゃなかったよね?」


「はい。今日は客として来てみました」


えへん、と胸を張る真央ちゃん。


「で、彼女さんも一緒、と」


「残念でした。今日から樹さんは義姉にランクアップです」


「ちょ、ちょっと真央ちゃん!」


こんなところでそんな大きな声で宣言するなんて恥ずかしいよ。


「あー。なるほど。お兄さんも隅に置けないってことね」


うぅ。こうなるってわかってたら絶対にここには来なかったのに。


「樹さん、可愛い」


「この状況じゃそんなに嬉しくない」


言ってから真央ちゃんに思い切り笑われてしまった。


「ますたー! 私、アイスオレで」


「じゃあ、このタイコーヒーで」


今日は原産地で選んでみることにした。前に飲んだブレンドが美味しかったから、今度は産地とかで選んでもいい気がした。


「真央ちゃんが『愛す俺』で、お義姉さんが『鯛コーヒー』ね?」


「マスター。ばれないと思って、頭の中で言葉遊びしてるのわかってますからね」


一体、何のことだか。


それからしばらく。コーヒーも並んで、私たちは最初こそ今回のご両親の話だったのだけど、すぐに雑談に切り替わった。


とはいっても。ほとんどは真央ちゃんの身の回りで怒った悲喜交々の話なんだけど。


「でですね、この前ゼミで一緒の男の子がとんでもないことを言い出したんですよ」


「とんでもないこと?」


何でもないように装いつつ、店長にお替りをお願いした。これ、思ってたのよりも美味しい。


「えぇ。って、樹さんもよくブラックで飲めますね? 私、ブラックでいける人って人間じゃないって思ってたんですけど」


「こればっかりは好みね。く、静季さんもそうでしょう?」


危ない危ない。真央ちゃんの前では桑畑さんって呼んじゃ駄目なのを忘れてた。


「はぁ。まぁ、話の続きですけどね」


「うん」


ここで店長がお替りを持ってきてくれた。


「ありがとうございます」


「その男の子、彼女に浮気がばれたって言うんですよ」


浮気。もしかして、桑畑さんもしちゃうのかな? そうなったら、私に魅力がなかった、足りなかったっていうことになるのかな。できれば、そんな場面には出くわしたくはないけれど。


「どうしてばれたの?」


「ストラップらしいんです」


言って、真央ちゃんは自分の携帯を持ち上げてストラップを指差してみせた。


「なんでも、彼女と浮気相手にそれぞれ色違いのを渡してて、両方がペアグッズらしいんですよ。どっちの子と会うかどうかで毎回変えてたらしいんですよ」


「それをつけ間違えた、と?」


「そうなんです」


力強く頷いた真央ちゃんはアイスオレの残りを一気に飲み干した。


「ますたー同じのー」


それにしても、徹底してたのね、そのゼミの男の子は。


「違うのをつけてたのに気付いた彼女が携帯を取り上げて、メールとか着信履歴を確認したらしいんですよ。それでアウトです」


「何て言ったらいいのかな。短絡的な言葉でいいのなら最低、の一言で終るんだけど」


私に経験がないだけで、それって普通のことなのかな? だとしたら、許せない気もする。


気もする、じゃない。私はきっと許せない。他の人を見てしまう桑畑さん。そんな状況を作ってしまう私。そして、全ての憎しみを向けられる他の人。その全てが嫉ましく感じる。自分でもここまで嫉妬深いとは思わなかった。もしも、桑畑さんが、と思うだけで何とも形容しがたい黒い想いがお腹の底のほうで渦巻く。


「それ、ただのアウトなのか、エンドなのか気になるよね。はい、真央ちゃんのお替り」


「まだどうなるかはわかりません。本人が協議中です。って、何で聞いてるんですか」


真央ちゃんが店長に抗議する。それを受けた当の本人は呆れたようにため息を吐いてみせた。


「あんな大声。聞こえないほうがどうかしてるね。まぁ、他にお客さんもいないから気にはならないけどね」


じゃ、と言い残して店長は去っていった。一方で取り残される形になった真央ちゃんはひとり色々と呟いていた。聞こえても聞かないのがマナー、とか色々。


それにしても。私にも普通に嫉妬心ってあったのね。しかもこれ、依存心から来る独占欲。


「はぁ。これから結婚するのよねぇ」


今がこんなのじゃ、先が思いやられそう。


「何です? マリッジブルーですか?」


「近いものはあるかも。でも、大丈夫。どうしなきゃいけないかはわかってるから」


そう、わかってるんだ。結婚が依存、占有によるものではなくて共生するものだって。


だから、私は自分の中の落としどころを見つけないといけない。間違っても、落し蓋なんてしないように。


























真央ちゃんと別れて家路についた私は、携帯電話のアドレス帳を開いた。


『実家』


単純な二文字と、数字の羅列。でも、ここ数年は一切連絡もしていなかったし、帰ってもいない。正直なところを言えば連絡はしたくない。し辛い。


でも、結婚という人生単位の一大事を家族に無断でするわけにはいかない。


ため息を一つ。そして、決定ボタンを押下した。


数回のコール音の後、つながった。


【はい、もしもし】


お母さんの声だった。


「もしもし、私。樹」


【樹!?】


凄く驚かれてしまった。


【ちょっと、あんた進学してからこっち全然連絡も寄越さないで、何してるの? 就職は出来たの? 世間様に顔向けできないことなんてしてないでしょうね?】


いきなりの質問攻め。何よりも、お母さんが怒ってた。


「うん、ごめんなさい。就職は出来たよ、食品メーカーの営業部で雑用してる」


【そう。それならいいの。でも、休みもろくに取れないの? 偶には帰ってくるなりしなさいよ】


そうだ。変える話をしなきゃいけないんだ。


「うん。今度、帰るつもり」


【そっか、久々だからお父さんも喜ぶわよ】


いや、多分喜ばない気がする。何せ、久々の帰郷でいきなり結婚したい人を連れて行くのだから。


「お父さん、多分喜ばない気がする」


だからこれは素直に言っておこう。


【どうしてよ】


「私、今ね。お付き合いしてる人がいるの。その人と結婚したいって思ってるの。その人と挨拶に帰りたいの」


お母さんは答えなかった。私もどうしていいかわからなくて、無言になってしまった。


無言の時と、突き刺すような日差し。どちらも私を責めているような気がしてしまう。


【それでも、帰ってくるのね】


沈黙を破ったのはお母さんだった。


「うん。必ず」


【じゃあ、帰ってきなさい。お父さんには話しておくから】


「うん」


図らずも、自分で言わなくてもよかったことに安堵してる自分がいた。同時に、それを許せないと感じる私もいることに気付いた。


【詳しい話と、お説教は帰ってきてから】


「うん」


【それじゃあね】


「うん」


こうして数年ぶりの家族への連絡は終った。思っていたよりもあっさりとしていたけど、終った途端に汗が一気に噴出した。暑さじゃなくて、緊張の糸が一気に切れた所為だとは思う。


「はぁ」


ため息。やり切った。そんな思いが脳裏を過ぎるけど、すぐに打ち消した。私はまだ、何もやり切ってなんていない。これから始まるんだ。終ってなんていないんだ。


その後、桑畑さんに連絡していつ行くかを決めて、もう一度実家に連絡した。


そう。ここから始まるんだ。


























帰省当日。移動は桑畑さんが車を出してくれることになった。


「思ってたよりも近くでよかったよ。おかげで休みに車を出すだけで済む」


「でも、疲れますよね」


心配して言うと、桑畑さんはそれをいとも簡単に笑い飛ばした。


「いいんだ。車を運転するのは好きだからな。じゃなきゃ、独身でこんな車には乗らないさ」


と言われても、桑畑さんがどれだけのお金と手間と愛情を車に向けているのかがわからない。この大きな車がどれだけの意味があるのかもわからない。SUVという種類なのは教えてもらったけれど、なんとなく、高かったんだろうなと思うぐらいだ。


「言ってしまえば、ここは俺の空間なんだ。基本的には誰にも侵されることはない」


「そんなところに私がいてもいいんですか」


「言ったろ、基本的にはって。これから家族になる樹と、家族はいいんだ」


これから家族になる、という言葉に気恥ずかしくなって俯いてしまう。そんなことをあっさりと言われても、困る。


でも、いつまでも恥ずかしいと言ってはいられないのもわかってる。だって、家族になることを許してもらうために、私の実家に向かっているのだから。


「あぁ。でも一応は言っておこうか」


「何をですか」


俯いていた顔を上げて、私は桑畑さんを見た。


「今、助手席に乗っていいのは樹だけだ」


いくら車に鈍い私でも、これはわかった。これだけは理解できた。私、今とんでもないこと言われた。


隣にいてもいいのは私だけ。そういうことなんだ。


一瞬で耳まで真っ赤になったのを自覚した私はもう一度俯いた。やっぱり、こんな顔を見られるのは恥ずかしい。


























後書


今回の副題は「夏」です。季節が一気に流れて夏になっています。


今回から数話かけて結婚準備から結婚までを描くつもりです。


書いていて、思ったよりも樹が怒られなかったことに自分でもびっくりしてたりはしますが。何故か、樹を本気で怒ろうとは思えない作者がいるわけでして。


きっと、私自身も樹みたいな子を目の前にすると怒れないんだろうなぁと思ったりする次第です。


コーヒーに関しては、ブレンドではなく、原産地や農園、品種、つまりはシングルオリジンと考えてください。私がそういうものにはまっているだけなので。


あと、一つ言訳です。静季の母親に「処女信仰」のようなものは言わせましたが、あくまでも上の世代の人の一つの価値観として扱っています。私が実際に交際する相手が処女でなくてはならない、というような主義で生きているわけではございません。


君は気付かない、の時は父親があれなのでそこは硬く守ろうとするキャラになりましたが。

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