15.rientrare






いつ以来だろう。


ここに帰ってくる自分の姿なんて想像もしたことなんてなかった。


でも、私はここにいる。


目の前には慣れ親しんだ家。けど、そこはどこかよそよそしい。





















「入らないのか」


わかってる。わかってはいる。


ここが私にとっては本当は当たり前の場所でなければならなくて、こんなところで立ち竦んでいい場所ではないということぐらい。一歩を踏み出す勇気。それがまるで湧かない。


「樹は、こうして帰ってきたんだ。そこに疚しいことなんてないし、恐れるものもない。一人でもないしな」


そうだった。こうして話をして、言葉をもらって、それで漸く気付く。一人ではないこと。ここは決して疚しい場所でも後ろめたいことがある場所でもない。


私の、生まれ育った家。私の愛すべき家族がここにいて、私の帰りを待っている。


今日、戻ると伝えてある。もうじき着くという連絡も入れてある。


「行きましょう」


私は、扉を開けた。


「ただいま」


「おかえり」


いつも、これが当たり前のはずだった。でも、私が自分からここを離れた。だから、当たり前でなくなった。そんな気がしていた。


「こんにちは。急な訪問でしたが、お受けいただいて嬉しく思います」


「いいえ。今まで浮いた話なんて一つも聞かなかった娘のことですから。こちらもいくらか嬉しいので。さ、いつまでもこんなところにいないで上がってください」


「はい」


私の家、私の家族。今、帰ってきたことと自分がしようとしていることの両方の意味を実感した。


「静季さん。汚い家ですけどどうぞ」


「こら。3年以上も家に寄り付かなかった子にそんなこと言われたくはないわね」


ここでなら、当たり前のように冗談を言えて、笑える。私は静季さんと一緒にそうやって生きていきたい。きっと、それが家族だから。


「まあ、冗談を言っていられるのも今のうちね。お父さんは、それなりに怒ってるわ」


この前は喜ぶと思うって言ってたけど、やっぱり怒っちゃったんだ。


そして、私たちはお母さんによってリビングに通された。


「ただいま、お父さん」


テーブルについて、コーヒーを飲んでいたお父さんは視線だけをこっちに向けて応えた。昔からこういう人だ。言葉少ない、そんな人だった。


「初めまして。桑畑静季と申します」


「そこの樹の父親だよ。まぁ、座りなさい」


「はい、失礼します」


静季さんがお父さんの正面に座る。私はその隣。それを見計らうかのようにお母さんが私たちの前に珈琲を置いた。


「ありがとうございます」


一口、口に運んで静季さんは小さく、それこそ私にだけわかるように笑みを浮かべてお父さんに向き直った。その表情からは迷いは感じ取れない。


私とは違う。そのことを痛感させられる。だけど、静季さんと結婚したい、一緒に生きていきたい。そう願う私に嘘はない。そう決めた私に嘘はない。信じられる人がいて、信じさせてくれる人がいる。それだけでいい。それだけで私の迷いも見えなくなっていく。


「今日は、お願いがあってまいりました」


「樹が、欲しい。そう言うんだろう?」


静季さんの言葉を封じるように、お父さん。


「はい。樹さんが欲しいと願いますし、同様に、私のことを捧げたい。そう願っています」


「樹は?」


今度はこっちに向けられる声と視線。逃げ場なんてない。逃げる気もない。一番大切な人が逃げないのだから。


私は絶対に逃げ出したりなんてしない。もう、静季さんとのことに背を向けたくなんてない。


「私も、静季さんが欲しいし、私をあげたい。それをお父さんたちにもわかって欲しいの」


「勝手だとは思わないか? 家を出て一度も連絡をしなかったくせに、漸くしてきたと思ったら『結婚したい』だ。自分のことしかないじゃないか」


その通りだった。でも、ここで黙ることはできない。ここで黙ってしまったら、決して認めてもらえない。私たちは、私は今、試されてるんだ。だけど、私は逃げないと誓った。静季さんの真摯な言葉に、もう逃げないと誓ったんだ。


だから、私はそれでも言葉を紡ぐ。


「勝手よ。それは、私があまりに幼かったから。遊びたかったわけじゃない。ただ、密かな楽しみに埋もれて生きること。誰かに迷惑をかけないで生きていくこと。それだけに懸命で、他のものは何も見えてなかった。家に帰ってきたり、お父さんやお母さんの声を聞いてしまえば、そこから出て行けなくなる。そう思ったの」


私は、こんなに饒舌だったことが過去あったかと考えた。それは、きっと無いんだ。静季さんとのこと以外では。


「独りになりたかった。強くなってみたかった。その間違いに気付かせてくれた人がいるの。その全てのきっかけが静季さんなの。始まりで、初めてで、色々なことを教えてくれて、気付かせてくれた。だから、愛しいの。一緒に生きたいの」


言い切って、誇らしく感じる自分がいた。ずっと、こう言いたかったんだ。感謝を、伝えたかった。


「一緒に生きていきたい人と巡りあえたのは、お父さんたちが私をここまで育ててくれたから。だから、ほんとうに感謝してるの」


ここでお父さんがため息を吐いた。


「そういうことは、結婚を許されてから言いなさい」


「じゃあ、反対なの?」


不安が首を擡げてくる。


「いや。認めるよ。でも、連絡が今までなかったことについては怒ってる」


「ごめんなさい」


やっぱり、一番怒られるのはそこなのか。


「樹はいつだって結果しか言わないからね」


お母さんが言う。


そんなことはない、と言おうとしたけれども、思い当たることがたくさんあって否定できなかった。既に終ってしまったことだからいろいろ言うことは出来ても、変えられない。そうやって、後悔とかもして。


「結果しか言わないくせに。大切なことは何一つ言わないし」


「うん」


就職先が決まったこと。一人になって、友達ができなかったこと。怪我をして入院したこと。他にも色々。私は、きっと家族には伝えておくべきことを何一つとして伝えてこなかった。


まだ、こっちにいた頃のことも。


「でも、漸く、一番大事なことは伝えてくれたわね」


「遅いくらい、だと思うけど」


何しろ、連絡することには躊躇していたし。


「いきなり入籍したとか、子供が出来ました、よりは早いわよ」


それは、その通りだろう。


「まぁ、それよりも。一番大事なことを言い忘れてたわ」


「何を?」


思わず聞き返した私を見て、お母さんは笑った。微笑んでいた。


「おめでとう」


そのまっすぐな祝福の言葉に、私は何も言えず、涙が溢れてくるのを堪えられなかった。


それでも、感謝を伝えたい。だから、無理やりにでも口を開く。


「あ、ありっ」


そこまで言ったところで、お母さんが首を横に振った。言わなくてもいい。わかってる。ただ、その目がそう言っていた。


「ありがとうございます」


最後に、静季さんがそう言っていた。私には彼と同じように頭を下げることしかできなかった。でも、きっと伝わる。そう信じてる。



























話も終ると、明日も仕事だからと早々と帰ることになった。


「もうちょっとぐらいゆっくりしていけばいいのに」


「ごめんね。でも、これからはきちんと帰ってくるから」


今なら素直に言える。ここは間違いなく、私の帰る場所。帰るべき場所の一つ。私を守り、育み、送り出してくれた場所。


私の居場所。それはいろいろな所にある。


実家。会社。アパート。そのそれぞれが私の居場所。そして、今は静季さんの隣も居場所になった。これから、その居場所は増えたり、減ったりもすると思う。


でも、この家、家族のいる場所は私の帰る場所なんだって、漸く実感できたから。


「そうね。これからは帰ってくるのよね」


だからこそ、その言葉には素直に頷ける。


「これから、というよりは今までがおかしいだけじゃないのか」


「そうね。帰省も連絡もしない理由が『何となく』だったなんて思いもしなかったわよ」


「ごめん」


本当に、頭を下げるしかない。


「本当に何となく。勉強しなきゃいけないんじゃないかとか、就職活動もあるのに家に帰る暇があるのかとか、仕事もろくに出来ないのに自分のことをしててもいいのか、とか色々と考えてて」


本当にこの通りなのだから。他人からすればおかしいとしか言いようがないらしい。


「因みにこの子。こんなこと言ってるけど、会社の先輩の目からするとどうでしょう?」


と、お母さん。


「仕事は期待以上ですよ。だから、少しくらいは抜いてくれたって、休んでくれたっていいのに。正月も盆もずっとアパートにいたっていうから。最初は思いましたよ。こいつは一体何なんだって。


 あと、職場の同期に同じ短大、同じ学部出身だっていう子がいて樹の友人になってくれたんですが。彼女が言うんですよ。ずっと勉強ばかりしてる『女王』だったって。常に成績はトップを維持し続ける。でも、一緒に食事をする友人は誰もいなかったって。だから、余計に勉強ばかりして、更に独りになっていってたと」


未央さん!? 今までそんなこと、聞いた事もなかったし、そこまで知ってるとも思わなかった。


「この子が『女王』だって? そんな馬鹿な話はないわよ。こんなにそんな存在からかけ離れてしまった子なんていないわよ」


お母さんは、その由来を知ってる。『女王』の由来はさっき初めて知ったけど。でも、私の僻み癖とも言うべき被害妄想のきっかけを、人と上手く関われなくなったきっかけを、お母さんは知っている。


そして、静季さんは何も知らない。


――『クズ』


たったそれだけだったのに。たったそれだけでも、積もってしまえば重たくなった。でも、背負うことしかできなかった。私は、まだ彼にすべてを告げていない。


――『私なんて、いないほうがきっと……』


その続きは、今でも言える。その想いが首を擡げる時は今でもある。


「桑畑さん。申し訳ないけど、もう一回上がってもらってもいいですか」


お母さんが口を開き、私の隣に立つ彼に声をかける。


「少し遅くなってもいいですか。あなたに伝えておくべきことがありました」


「ええ。明日の仕事に間に合わないなんてことはないんでしょう?」


お母さんは頷いた。


「じゃ、樹はお父さんとこに行っててね」


きっと、お母さんは私が何も言っていないことに気付いていた。私が今でもあの光景に縛られていることに気付いていた。だから、言ったんだ。


『そんな存在からかけ離れてしまった』


私の、どうしようもない――烙印のことを。


























後書


一応、今回のタイトルのまま『帰郷』してもらいました。


次回で樹の過去語として被害妄想持ちになったきっかけを描こうかな、と考えています。これをそのままにしていても樹は幸せにはなれない。作者としてもそれを確信できますので。

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