5.fare vacanze
気付けば、休暇を申請させられていて。
気付けば、宮下さんと約束をしていて。
気付けば、もう休暇の前夜で。
気付けば、どうしていいかわからない私がいた。
明日は初めての有給休暇。
入社以来、そんなものを取ったことは無かったけれど桑畑さんや宮下さんが必死になって勧めてくるので済し崩し的に取ることになってしまった。
最初、課長は凄く驚いた顔をしていたけど…でも、いい休暇をと言ってくれた。そのときはどこか嬉しそうに見えて。まるで、私がいなくなることを喜んでいるような気がしてしまった。
昨日、宮下さんとお話したときはそんなことないって言われたけど、どうなんだろう。
課長は管理職だから他の営業職の人と比べるとよくオフィスに残ってるから、一番接点はあるけど…業務上の必要最低限の話しかした事がない。何を話せばいいかわからないし、何を考えてるかわからないし。
「……」
寝てしまおうか。
明日の宮下さんとの待ち合わせのこともあるし、早めに休んでおいたほうがいいのかな?
ふと、テーブルの上の携帯電話が光を放っているのが目に入った。メールが着たのか、電話がかかってきてたのか。どっちかわからないけど。
「あ」
思わず声が漏れた。
電話着信5件。メール受信件4件。全部宮下さんからだった。
私は基本的に会社に連絡をする為だけに携帯電話を持ってるようなもので、基本的に着信はないから油断してた。
しかも、留守番電話の設定をしていなくて、放っておけばいつまでも電話が鳴るっていう状態。だから宮下さんもメールにしてきたんだと思う。
でも、私は基本的にメールもしない。だからメールは来ない。そして、見ない。
怒ってるかもしれない。どうしよう…… 謝ったほうがいいのかな?
恐る恐るメールを開いてみる。
1件目。
タイトル『明日の待ち合わせ』
受信時刻19:13
本文
『電話したけど、出なかったからメールで。
えっと、明日は自転車で来ないでね。私は歩いていくから。
で、
2件目。
タイトル『確認』
受信時刻19:46
本文
『もう一回電話したけど出なかったから。
時間を言ってなかったから、それを伝えるね。
10時ぐらいで大丈夫? それならnoirも開いてるはずだから。じゃ、連絡ください』
3件目。
タイトル『伝え忘れ』
受信時刻20:33
本文
『夜まで連れまわすから、お金は多めに持ってきておいて。確認したら返事ください』
4件目。
タイトル『そろそろ』
受信時刻21:56
本文
『何回電話しても出ないし、メールの返事も無いんだけど?
了承ならその旨だけでもいいので連絡くれない?』
…… どうしよう。
絶対怒ってる。
言ってる傍からサイレントマナーに設定した電話が着信を知らせてる。
相手は勿論宮下さん。気付いてしまった以上、出ないという選択肢はないと思う。
「も、もしもし」
声が震えてる。情けなくて嫌になるけど、そこは我慢。
【あ、やっと出てくれた】
「ごめんなさい。全部、今気付いて」
私は電話の現状について全部説明した。
【…… 設定を変えなさい。ちゃんと、音が出るようにして】
やっぱり言われた。
「ごめんなさい」
【明日、携帯電話のショップにも行くから】
「え?」
宮下さん、電話を買い換えるのかな?
【勘違いしてそうだから言っとくわ。あんたの携帯を変えるのよ】
私の? でも、不自由はしてないんだけど。
「私のですか? でも、私の電話壊れてないですし、十分に使えますよ」
【そういう問題じゃなくて。あれ、私たちが高校の頃ですら型遅れだった機種よ? 一体いつから使ってるの?】
そうかもしれない。確かに、私の携帯電話には音楽再生機能なんてないし、カメラもついてない。必要性を感じなかったから。その考えは今でも変わってない。
「えっと、高校の入学祝いに買ってもらったものです」
あの頃はそれだけで嬉しくて、ついパケットを使いすぎて親に怒られもしたなぁ。
何だか可笑しくなって、小さく笑みを浮かべる私。こんなこと、最近は全く無かった。
【それ、ずっと使ってる?】
「はい。ずっとですよ」
よく、更衣室で私の携帯電話を見た人が信じられないものを見るかのようにして私を見るけど。でも、使えるんだから問題はないと思う。
【変えなさい。それ、今度サービスの切り替えで使えなくなるよ】
「そうなんですか?」
【そうなの! 兎に角、明日の10時、尾嶋のnoirでね? 外で待ってるなんて真似はしないでよ。早く着いたなら中にいなさい。中でコーヒーの一杯でも注文しておきなさい。いい?】
有無を言わさない口調。
「…… はい」
もう、こう言うしかなかった。
【じゃあ、明日ね。おやすみなさい】
「お、おやすみなさい」
こんな経験、中々無いことだった。誰かに電話越しに「おやすみ」って言ってもらえるなんて。
同時に、それが桑畑さんならいいのに、なんて望みのない願いすら抱いてる私がいた。
「ふぅ」
ツーツー、と通話終了を知らせる音が響いてる。
だけど、私は電話を切れないでいた。さっきまでのことが、夢のようで。今、この電話を閉じてしまえば目が覚めてしまう。そんな想いすらある。
結局、電池が切れるまでそうしていた。
翌朝。
午前5時起床。
休暇なのに、いつもと変わらない自分に少し苦笑い。
朝ごはんの支度をしつつ、お湯を沸かしている間に手早く顔を洗ってしまう。
沸かしたお湯でお茶を淹れて、昨日のうちに炊いておいたご飯と、同じく沸かしておいたお湯で作ったお味噌汁。それに玉子焼きと切り分けた林檎。いつもの朝食。
あまりに変わらない自分。
今日は初めて有給休暇を使うのに。あまりにいつもと変わらない。このまま会社に行ってしまいそうなくらい。
「あ」
会社のことを思って気付いた。
私、松戸さんの経費を経理に提出してない。どうしよう。
一瞬、視線が電話に行くけど、すぐにハンガーにかけてある通勤用の服に目が行った。
「行こ」
やっぱり、行かなきゃ気がすまない。仕事が出来ない私がやらなくちゃいけない仕事だもの。ちゃんとやらなきゃ。
急いで朝食を食べて片付ける。
そして、着替えて自転車に飛び乗って出て行こうとしたところで肩を叩かれた。
「え?」
いるはずのない人が、そこにいた。
「かなり早いけど、来ておいて正解だった」
「く、桑畑、さん」
何でこんなところに。しかも、こんな時間に。
「昨日、松戸の奴が定時ギリギリで経費の申請出しただろ? こんなことになるんじゃないかと思ってな」
「でも、それは私の仕事です」
たとえ定時ギリギリでも、経理が受け付けてくれなくても。それを何とかしなくちゃいけないはずだった。朝一で持っていくべきだった。なのに、私は有給を使って休もうとしてる。
「松戸だってガキじゃない。前園が休みなら自分でやるさ」
「でも」
「いいから。休みのときぐらい、しっかり休め。遊びに行くんだろ? 楽しんで来い」
「はぁ」
呆然としている間に、桑畑さんは私の自転車にロックまでかけていた。
「ほら。出かけるには早すぎるだろ? 部屋に戻って来い。俺も今から出勤する。松戸に説教かまして、今日も元気に営業巡りだ」
そして、じゃあな、と一言だけ残して桑畑さんは車で去っていった。
今なら行けるかもしれない。
「あぁっ!」
自転車の鍵がない。
慌てて桑畑さんが去っていった方向を見る。
やられた。持って行かれてしまった。つまり、会社に来るなということだ。
「はぁー」
深く深く溜息を吐いた。ここまでされると開き直るしかない。
そうして私はどうしようもなくなって部屋に戻った。
暫くは本を読んでいたけど、ふと見た時計が9時ぐらいでここを出るには丁度いい時間だった。
読んでいた本に栞を挟んで、用意していたバッグに詰め込んだ。
呆れるぐらいに薄いお化粧に、飾り気のない服。
でも、これ以上何も出来ない。お化粧なんて全然詳しくないし、服もあまり持ってない。高校の頃から持ってるような服も一杯あるし。
「行ってきます」
誰もいないけど、いつもと違う何かを感じてそう口にした。
尾嶋へはアパートの近くのバス停でバスに乗って、10分ぐらいで到着する。バス停までだって歩いて3分ぐらい。全然お洒落でもない、スニーカーで歩いて、バス停に着くと時刻表を確認。
「5分後、か」
それぐらいなら。
私はバス停のベンチに腰掛け、バッグから本を取り出して続きを読み始めた。
あの雨の日。桑畑さんと会った日に買った本だった。この本たちを買っていなければ、今の状況は無かった気もする。
そうして、少しの間本を読み耽っているとバスが来た。
(…… もう来たんだ)
少し、惜しい気もするけどバスに乗り込んだ。本当はバスの中でも読みたいけれど、乗り物にはそこまで強くない私。宮下さんに折角誘ってもらえたのに、気分が悪いのは失礼だと思うからここは我慢。
うん。外を見ていようかな。
いつもは自転車で駆け抜けている風景を、いつも以上のスピードで、ガラス越しに眺めてる。そんな現実に違和感は感じるけれど、この違和感が悪いものではないことぐらいはわかる。
初めてのことだから。
仕事を始めて、こうして、休日に誰かと過ごす約束をすることも。休暇をとることも。何もかも。今までと違うことだから。
【次はー尾嶋、尾嶋。お降りのお客様はお近くのボタンを押してお知らせください。運賃は運賃表をご確認のうえ、整理券と一緒にお出しください。次は尾嶋、尾嶋です】
もう着くんだ。
私はゆっくりとボタンを押した。
【次、止まります】
noirに着いた時点で、待ち合わせの30分ぐらい前だった。中にいればいいって言ってくれたけど、中にいてわかるのかな?
…… 中で待ってなさい、だったし。仕方ないよね?
自分にそう言い聞かせながら、私は普段は決して足を踏み入れることのない少しお洒落な雰囲気のコーヒーショップに足を踏み入れた。古いおじさんばっかりが屯してるような喫茶店は昔は通ったんだけど。こっちでは全然行ってない。
知らないお店に入る勇気が持てなくて。
「いらっしゃいませ」
店員さんの声が届く。お店の制服に身を包んでるけど、凄く綺麗な人だった。
羨ましい、とさえ思った。
私もこれぐらいだったら、桑畑さんが私を見てくれることもあるかもしれない。そんなことすら思ってしまった。
「あれ、営業の」
「え?」
ふと声をかけられて振り返ると、開発1課の人がいた。
でも、名前が思い出せない。
「あ、
「前園、です」
戸崎さんは「あぁ、そっか」と納得されたみたいだった。
「前園ちゃんは今日はお休み?」
「はい。戸崎さんもお休みですか?」
「うん。この前休日出勤したからね。その代休」
それで行き先が近所のコーヒーショップっていうのもどうなんだって、ところだけど。と、戸崎さんは続けた。
そんなことはないと思うんだけどな。私なんて、こんなお店に来たことすらなかったのに。
「ほら、コーヒーとかが手ごろに手に入るのはいいんだけど。結構カップルの皆さんが多くてね。一人身の私にはちょっと辛いというか切ないというか」
綺麗な人なのに。こんな人を放っておく人が酷いとすら思えてしまった。
「あ。今、ウチの
そこまでは考えてないんです。
でも、今更そんなことも言えなくて。ただ笑うしか出来なかった。
「エスプレッソをご注文のお客様」
「あ、ごめんね。こんなところで引き止めて。注文まだなんでしょ? 行っておいでよ。私はあれ、持ち帰りだから」
「はい」
私はコーヒーを受け取って店を出て行く戸崎さんを見送って、カウンターに向かった。
「ブレンドを一つください」
「畏まりました」
お金を支払って、出来上がりを待つ。
密かに、緊張してる私がいた。
どうということもないはず。少なくとも、宮下さんにとっては普通のことだと思う。だから、私は落ち着かなくちゃ。
コーヒーを受け取って、暫く啜っていると宮下さんがやってきた。
時間丁度。私には出来ないことだと思う。
どうしても、早く来てしまうし、誰かを待たせることに凄く抵抗があるから。
「待たせちゃったかな」
「いえ。そんなには」
私は宮下さんの言葉を否定しようとしたけど、宮下さんの視線は私の傍の飲み干したカップと栞が挟まれた本がある。
「本を読みながらあったかい飲み物を飲み干せるのが少しなわけないでしょ。女同士、そういうところは素直でもいいものよ」
男の人相手なら違うのかな?
昔読んでた漫画には当たり前のように、男の子がずっと待っていて、少し遅れて急いでやってきた女の子に「待ってないよ」という場面があった。
勿論、私がその場面を意識していたわけもないけれど。
「まぁ、そうやって、待ち合わせに絶対に遅れないように出来るのは樹の強みかもね」
「え」
「ん? 自信持っててもいいと思うよ」
そこじゃなくて。
今、私は何て呼ばれたんだろう?
「あぁ。名前で呼んだこと?」
「はい」
私は、もう何年も家族以外から名前で呼んでもらったことがない。友達がいないことも、周りの女の子達と違ってお付き合いする男の人がいないこともその理由だけど。
「いいじゃない。だって、私たち、友達でしょ?」
友達でしょ、の言葉が私の中で急激に熱を帯びていく。
あまりに現実味のないこの休暇と友達という関係が、急に色付いていく。
「いいん、ですか?」
「いいに決まってるじゃない。いつまでも変に気を遣ってたら、楽しい休みもつまんなくなるしね」
言われて、私は宮下さんのことをどうやって呼ぶかを考えてみた。
だけど、私には彼女をどう呼んでいいかがわからなかった。呼び捨てには出来ない。でも、未央さんっていうのにも抵抗がある。何故か、名前で呼べない私がいた。
「いいよ、別に。慣れるまでは苗字で呼んでくれても。だけど、いつか名前で呼んでほしいな」
「はい」
このとき、私は何一つとして理解していなかった。何故、私が宮下さんを名前で呼べなかったのか。それを理解していれば、無理矢理にでも呼んでおけばよかったと、後になって悔やむことになることなんて、当然わかるはずもなかった。
後書き
さて、今回非常に唐突な出番を獲得した静季がここに至った経緯はまた後日。
何より、こちらも非常に唐突な登場をした食品事業部開発1課の戸崎嬢と名前のみの登場の和泉氏。こちらは今後、作中で物語を紡ぐか、彼らが主役になるかはわからないのが現状です。後者のほうが可能性は上ですがね。
君は気付かないの方は2人揃って用意した障害を造作もなく乗り越えていってくれるので、書き手としては展開がどんどん進んでいくというありがたいのか苦しいのかわからない状況ですが、こちらは内気な樹と、周りに隠し事をしている静季というマイナスカップリングなので目に見える進展があまりない、というか、樹の成長ばっかり書いてる状況です。
本話の副題は「休暇をすごす」です。
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