4.invito










雨の中で泣いていたことは、気づかれてないと思う。


でも、きっと目は真っ赤になっていて。


気付かれたくない一心で、車の中では顔を伏せたままでいた。


それでも、あのメールの着信表示の名前が気になって仕方がなかった。























車は会社に向かって走っていく。


車内はカーラジオから流れてくる流行の音楽以外、何も聞こえない。私も桑畑さんも何も言わない。


「…… 前園」


そっと、桑畑さんが声をかけてきた。


「お前、いつも昼はどうしてる?」


「食堂、ですけど」


どうして急にこんなことを訊くんだろう?


「社に必要なものを置いたら、どこかに食事に行こう。今日のお礼だ。奢る」


「そんな。桑畑さん、休憩にあまり時間取れないじゃないですか。いいです、お礼なんて」


桑畑さんのスケジュールはかなりタイトだったことを覚えてる。私なんかを食事に連れて行ってる時間なんてなかったはず。


「じゃあ、夜でもいいか? 少し遅くなるかもしれんが、待っててくれないか?」


「悪いですよ。私はただ、必要だと思ったからしたまでですから」


そう。私はこんな見返りなんて求めてたわけじゃない。


私が求めてたのは桑畑さんの役に立つことが出来たという事実だけ。それで十分だった。十分だったはず。でも、あのメールからそれすらもおこがましかったんじゃないかと後悔もした。


食事は断ろう。うん。彼女がいる人といっちゃ駄目だよね。火種にはなりたくないし、作りたくもない。


きっと、これからも円満に続いていくはずの桑畑さんの人生の邪魔になんてなりたくない。


「いいから。たまには、感謝させてくれ。前園のおかげで俺達営業は安心して業務をこなせるんだから」


そんなこと、ない。


私がいなくてもみんな仕事は出来る。だって、私が入社するまで今の営業2課付秘書なんて役職は存在しなかったんだから。私だけの仕事。でも、それは誰だって出来るような雑務や総務などの他部署との細かい調整。


私は、必ずいなければならない存在じゃない。


でも、桑畑さんは桑畑さんじゃなければ話も聞かないという事業者さんもいるくらいの敏腕だって聞いてる。桑畑さんは営業にとってなくてはならない存在。私とは、違う。


「…… 信じられないなら、休暇を切ってみればいい。きっと、俺の言ったことが理解できると思う」


「休暇なんて取れません。私みたいなのが権利ばっかり一人前に主張するなんて駄目です」


私は、義務を果たしていない。


会社は私に仕事をしてもらうために採用した。私はその仕事をこなすことで対価として給料や休暇といった権利をもらえる。会社に籍を置く以上、仕事をこなすことは義務。義務を果たせば権利を主張することだって出来る。でも、私は権利を主張できるほどに仕事は出来てない。


「謙遜も行き過ぎると見苦しいだけだぞ」


「謙遜だなんて……」


謙遜する理由なんてない。そんな要素はないのに。


やっぱり、私がこの人のことを好きでいるのは駄目なんだろうな。嫌われたら諦められるのかな。


























その日は仕事にならなかった気がする。


いや、仕事なんてしてないのと一緒だ。私の代わりなんて、いくらでも用意できるんだから。いつも、課長や他に残ってた人がしてた仕事を引き受けてるだけのこと。私がする必要もない仕事なんだ。


だから、怒られることもなかった。


その代わり、仕事は終わらなくて、結局は桑畑さんが戻ってくるまで残業することになってしまった。


「…… どうしよう」


さっき連絡があって、あと10分もすれば戻れるらしい。もう、私は逃げられない。第一、自転車は社用車から降ろしてもらえなかった。渡すと逃げられるからって。


それはそれでひどい。でも、否定も出来なかった。きっと、自転車を返してもらっていれば嫌われたいという思いよりもメールの名前が気になって逃げ出していたに違いないから。


「あ、前園さん。まだ残ってたんだ?」


「え?」


突然、営業2課のオフィスに入ってきた人がいる。


誰だろう? いや、見覚えはあるんだけど。


「…… 同期入社で同じ短大出身の秘書課所属の受付業務担当の宮下未央みやした みお。覚えてない?」


顔だけなら。


でも、そんな失礼なこと言えるわけもなく、沈黙しか返せなかった。


「覚えてないのね。まぁ、そんな気はしてたからいいけどね」


一体、何の用なんだろう?


勿論、それが必ずしも私であるとは限らない。まだ戻ってきてない営業さんだっているんだし。


「用件は至って単純よ。前園さん、桑畑さんからの伝言。私と一緒にCiliegio(チリエージョ)まで来ること」


「え、ちり……」


どこの言葉だろう?


「Ciliegio(チリエージョ)。会社からそこそこに近いイタリアンのお店のことよ。ていうか、ここの社員がよくランチで使ってるから当たり前にわかるものだと思ってたんだけど」


「私、社員食堂でお弁当食べてるだけだから」


宴会以外で外食なんてめったにしてない。したとしても、時間がないときにファーストフードの類だけ。


「こっちに出てきてからずっと? 短大の頃から数えてももう4年目なのに?」


私は宮下さんの言葉に小さく頷いた。


見れば、宮下さんの方は小さく震えていた。何か、機嫌を損ねるようなことをしてしまったのかもしれない。でも、それが何なのかが全くわからない。だからこそどうしていいかもわからない。


「信じられない。色気も食い気も何にも持ってない人なんて初めて。欲とかないの?」


欲。


考えてみれば、新しい自転車が欲しいとか、本を読む時間がもう少し欲しいとか。そんなことぐらいしかなかったっけ。


だけど、昨日になって桑畑さんに愛されたいという許されない欲望が生まれてしまった。私は駄目なのに。私じゃ駄目なのに。


「あんまり。身の回りの生活が少し便利になったり、趣味に使う時間がもう少しあればとか…… それくらいで」


「無欲。あまりにも無欲すぎるのよ」


「そんなこと、言われても……」


第一。


社会人2年目だけど、そんな実感もない。今、きちんとやれてるのかっていう実感もない。そんなのでどうしたらいいのかなんてわかるわけもない。


そう、私はあまりにも実感が得られないんだ。だから、何事も遠くの雲を掴むようで、実感がわかない。なのに、桑畑さんのことだけは雲じゃなくて、目の前の現実として私の前にある。


「ま、いいわ。行きましょう? タイムカードは押した?」


「あ、はい」


「じゃ、早く出ないと。先に行っていてほしいって言われてるの」


どうして、宮下さんが?


そんな疑問は尽きることがなかった。だって、営業と受付は接点があまりない。なのに、女性を避けているフシすらある桑畑さんが宮下さんに伝言を頼んだ。


色々なことが頭を過ぎって、急に怖くなった。


「前園さん?」


気付けば、先に階段を下りていく宮下さんを、私は随分上から見ていた。立ち止まってしまっていた。


「わかりません」


「何が?」


私が漏らした言葉に、宮下さんは反応した。


1歩、また1歩。階段を登ってくる。


「全部」


わからない。


宮下さんが考えていることも、桑畑さんの意思も。


「そうね。私も。この状況を正確には理解してないもの。伝言を頼まれたのは昼休みの終りだったもの」


「わからないなら、どうして」


私が、本当に理解することが出来ない状況だというのに宮下さんは笑っていた。


「わからないからこそなのよ」


「言ってることの意味がわかりません」


「好奇心、かな。学生時代から誰一人として寄せ付けず、成績トップを走り続けた『女王』は、本当は誰よりも孤独を嫌ってるくせに、あまりに孤独でいた時間が長くて心が麻痺してるって。そんなあなたが、何を思って生きてるのかね、気になるのよ」


麻痺、してるのかな?


勉強して、立派になって、社会に出たい。その思いだけは諦められなかった。でも、それ以外は捨ててきたつもりだった。


「いいじゃない。今から始めれば。私と前園さん。今からでも始められるでしょ」


「始め、る?」


宮下さんは頷いた。


「私と休憩時間が合うときだけでいいからね、一緒にお昼とか行かない?」


「私なんかで、いいんですか?」


また宮下さんは頷いた。


「だって。私、友達もいなくて、仕事も全然駄目で、おまけに望みのない片想いまでして…… こんな、こんなに駄目な私なんかで本当にいいんですか?」


「違うよ。少なくとも、友達に関しては」


わけがわからずに、私は宮下さんを見た。その表情は、羨ましいくらいの笑顔だった。


少なくとも、私にはそんな顔は出来ない。


「だって、私達、もう友達でしょ」


「とも、だち」


「そりゃそうでしょ。部署も違う女同士で、ランチなんて行けばそりゃ友達でしょ? 職場の付き合いなら内輪でやるしね」


「友達……」


言葉にして、少しずつ実感がわいてくる。


私は、捨てることなんて出来ていなかったんだ。本当に、心が麻痺していて、気付けなくなっていたんだ。


恋をして、友達が出来て。漸く、生きていることが実感できた。生きるって、こういうことでもあったんだって、気付かされた。


























Ciliegio(チリエージョ)。


確か、イタリア語で桜っていう意味だったはず。


そのことを宮下さんに話したら、凄く褒められた。


「よくイタリア語なんて知ってるね。私は全然知らないからね」


「偶然です。私、本の虫ですから」


昔読んだ本でたまたま出てきていただけの単語。それを覚えていた自分が少しだけ誇らしくなる。


「でも、確かに桜のイメージかな」


宮下さんは腕組みをして、うーん、と唸っていた。


「あの店ね、和風イタリアンなのよ」


「それって…… たらこスパとかですか?」


「まぁ代表格はそんなところかしら」


気付けば、こんなに普通に話をしてる。何も特別なことじゃなくて、当たり前に、普通に。だけど、今までの自分にはなかったこと。


桑畑さんを好きになってから、ずっとこんなことばかり。


本当は特別なことでもないのに、私はそれにずっと憧れてきた。何もしないまま、動かないままにただ無責任に憧れていた。


「ほら、ここよ」


その憧れを体現してくれるのが宮下さんであり、全てのきっかけになった桑畑さん。


「わぁ」


小さなお店だけど、凄く綺麗で。だけど、入ることに抵抗感を感じさせない。


「ここ、初めてだよね?」


「はい」


「気にせず入りなよ。ここ、営業1課のお得意様だから」


そして、そんな裏話まで教えてくれた。


「いらっしゃい。そっちの子は初めてだね。後輩かな?」


お店に入ると、お店の人が当たり前のように宮下さんに話しかけてた。


「違うわよ。入社以来、まともな外食なんてしたことのない同期よ。それより、桑畑さんから連絡来てない?」


「ん、ああ。何だ。静季の連れは未央ちゃんたちだったんだ」


「そういうことになるみたいね。最も、私は桑畑さんとの接点は薄いんだけどね」


宮下さんはそう言って、私に目を向けた。


「この子は桑畑さんと同じ職場だから、接点はこの子のほうがあるけどね」


「この子が営業かい? 人は見かけによらないね」


「私は」


口を開いて、しまった、と思った。


今、話をしていたのは私じゃない。宮下さんとお店の人だ。そこに割り込んでいいわけがない。


「前園さん。気にせず言って」


「え……」


「私が話してもいいことかもだけど、こういうことはきっと、本人が話したほうがいいと思うから」


いいの、かな?


でも、私が何か言わないと駄目なんだよね。


「あの、私は営業職じゃないんです。私は……」


「俺達営業を陰から支えてくれる、営業2課の専属秘書。はっきり言って、抜けられるとかなり困る」


「ふえ」


変な声が出た。


うん。私が説明するよりも早く、説明してくれた人がいた。それは、言うまでもなく桑畑さんだった。


「宮下、随分遅かったんじゃないか?」


「色々あったんですよ。おかげで、友達になれましたけどね」


そうだ。桑畑さんの言ったこと、訂正しなきゃ。


「あの! 私、さっき桑畑さんが言ってくれたこと、少し訂正しなきゃいけないんです」


「言ってみて」


それは宮下さんの言葉だった。何故、宮下さんが続きを促したのか、わからなかったけど、桑畑さんに止められることがないのが助かる。


「私、全然、皆さんを陰から支えられてませんし、私が抜けて困ることなんてありません。私のしてることなんて誰でも出来ることですから。今まで、社に残ってた人たちが持ち回りでしてた仕事を私が専属でしてるだけですから。誰でも、代われるんです」


言い終えて、私は俯いた。


実感があった。私は、宮下さんの友達になれたと、有頂天になっていた。


実際は蓋を開けてみれば、こんなにどうしようもない女なのに。


「前園さ……」


「はいはい。未央ちゃんも静季も、一度席についてから話をしようか。真面目な話になるんだろうから、僕は参加しないけどね」


























「さて、同じ秘書職の宮下。さっきの前園の発言を聞いてどう思った」


席に案内されて、暫くは沈黙を保っていたけれど、桑畑さんがその沈黙を破った。


「ひどいですね。未だに課付秘書を置かない営業1課が溜めてる未処理のあれこれで他の部署からどれだけ顰蹙ひんしゅくを買っているか知らないからこそ出来る発言ですね」


「宮下さん、営業1課って、何をしたんですか?」


顰蹙って、どういうことなんだろう。


「単純よ。持ち回りで雑務をこなしてるから自分の抱えてる仕事以外は後回しになっちゃうのよ。だから経費の申請だって遅れるのは当たり前だし、勤務日程の提出も遅れるのが当たり前。部屋の蛍光灯を交換するのに総務に申請しないで勝手に蛍光灯を持って行っちゃうくらいなのよ。


 それに引き換え、営業2課は全部期日より前には終わってるし、蛍光灯とかの消耗品だってきちんと申請してるもの。先輩も言ってたのよね。営業2課は前園さんを採ってから凄く良くなったって。秘書課に置きたかったって言われてるくらいなのよ」


そんなことないよ。桑畑さんを筆頭にあんなに優秀な人たちがいるんだから。


「前園。お前は俺達を買いかぶりすぎだよ」


「そんなことありません。だって桑畑さん。桑畑さんじゃなきゃ取引の話をしないっていう事業者さんもいるみたいじゃないですか。そんなに認められる優秀な人がいるんですよ? 他の人たちだって引けを取らないくらいに優秀で…… 私、何の助けにもなれてないじゃないですか」


「…… 宮下」


呆れられたのかな?


でも、それぐらいのほうがいいのかもしれない。嫌われてしまったほうが、きっと。


「お前、次の休み…… いや、1日だけ有給取ってくれ。その日に前園を休ませる」


「そんなことしたら他の部署からクレームの嵐ですよ? 有給消化なんて一切しない実直な勤務態度が凄く評価されてるんですから」


宮下さん、そんなに凄い人なんだ。


「あ。人事ですって顔してる。前園さんの話だよ、今の」


「ええっ!?」


そんな馬鹿な。や、さっきからこんなのばっかり。


「オーバーワークだろ。それに、年末年始も実家にも戻ってないらしいんだ。親元を離れて独り暮らししてる若い女の行動としては少し、な」


何でそんなことまで知ってるの?


確かに、進学以来ずっと家には戻ってないけど。


「わかりました。来週に休み入れますから。決まったら社内メールでお知らせします」


「あぁ。俺と前園にな」


「承知してます」


こうして、本人をのけ者にして有給消化が決まってしまった。


…… 何も変わらないと思うけどなぁ。

















後書き


あの後、皆さんしっかりと食事までいただいてから帰りました。




本話の副題はそのまま「お誘い」です。ただし、イタリア語は男性と女性で単語などが変わります。今回はそれをしたのが静季ということで男性用としています。

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