第16話
相川さんとはあの病院で別れたはずだった。
私は藤田さんと横浜へ母の遺体を確認しに行くし、相川さんは、小室さんが迎えに来ていたから。
『死んでたらどうするのっ!?』
病棟に駆けつけた小室さんは相川さんを見ると心底安堵したような表情を浮かべて、だけどすぐに裏返った声で怒鳴りつけていた。もっともだった。
私についてきたせいで、彼女は実際に死にかけている。立っていた場所次第で潰されていたし、私が殺されていたら、きっと彼女が取り憑かれていた。
小室さんに叱られて、相川さんはびっくりしたような、すぐに泣き出しそうな表情になった。「ごめんなさい」とその口から漏れるのとほとんど同時に、私も小室さんに頭を下げていた。私が強く拒まなかったせいです、もう近づきません、と。
相川さんの動機がどれだけ重くても、やっぱり小室さんのところへ帰るべきなんだ。私についてきても、もう。
相川さんが私の名前を呼んだのを振り切って、藤田さんと病院を出た。
その彼女が目の前にいる。
「何で来てるの!? 怒ってたじゃん小室さん、あんなに」
「許してもらった」
「だから、何で。ダメだよ私に近づいちゃ。もう……」
「あなたには時間がない。調査を続けなきゃならない。バカなことはさせない」
彼女は私が手にしたものを睨んで言った。何をしようとしたか察しているらしい。
「……ごめん」
お守り袋をポケットに戻す。
あのままでも実行していたかはともかく、バカなことを考えていたのはたしかだ。気の迷いじゃ済まない。決してやってはいけないことだった。
こんなところで死ぬわけにはいかない。周りに、取り憑かれる人がいる場所では。
「……でも、もうダメだよ相川さん。ごめん……一人で死ぬしかない。もともと決めてたんだ。結局解決手段が見つからなかったら、他に人がいないとこ行って、次に取り憑かれる人が出ないように死ななきゃって。もう、そっちに移らなきゃ」
「……だとしてもまだあがく時間が少しはある。一日か二日は。それだけ使えば、まだ気づいてない犠牲者の法則が見つかるかも知れないし、あなたの体の精密検査はまだやっていないし、他に二次的に取り憑かれた人間がいないかだって、私も霊視する……だから」
あきらめるにはまだ早いと説いてくる。前向きで建設的だ。彼女こんな人だっけ。
いや、たった半日前は私がそう説いていたんだ。無根拠な希望を彼女に押し付けて、結局美咲さんのことは見当外れであんな事態になった。
理屈で言えばたしかに可能性はある。あるはずだけど、私の体を調べたってもう、どうせ……そこまで考えて。
「あ、相川さんっ」
「何?」
私の頭に、恐ろしい考えが閃いた。もし本当だったら全てがひっくり返るような。
「全部、私のせいだったら……どうする?」
「せいって、何が」
「美咲さんに取り憑いてるのが『邪坊』の、核……みたいな存在なのかもって電車で言ったでしょ? でも私に憑いてるこの子の方が、よっぽど、それっぽいんじゃないかって」
私が邪坊の取り憑かれた女性の中で例外的な立ち位置なのは何故か、謎の答えは、そう考えるとしっくり来てしまうんじゃないか。
恐らく現代で一番先に取り憑かれたのが由香里さんで、それをきっかけに今度は彼女の周辺――つまりは東京近郊で他の女性も取り憑かれるようになった。
ハナは生前から霊能力者だった。
邪坊全体の中核的な存在なのがこの子で、他の水子の霊を操り、「母親」を殺させるためには胎児として「生きている」必要があるんじゃないか。だからこの子だけが母胎を殺しても新たに乗り移るんじゃないか。
四百年邪坊の発生が絶えていたのは、四百年前にあの滝壺で女性が死んで、次に誰も取り憑かれることがなかったからじゃないか。あそこが禁足地だったのもそういう事情だったとしたら。
「もしかしたら、私がこうやって生きているだけで、邪坊を周りにばら撒いてたら……だから、私が一人で死ぬことが解決だったら……私、やっぱりどこか人がいないとこ行って……もっと早く、そうしてるべきだったんじゃないかな!?」
「……本気で思ってるの? そんなこと」
相川さんが私の瞳を覗き込みながら言う。今までになく「熱」のこもった言葉だった。
「そんな裏付けも不確かな憶測で自分の命を犠牲にするの? あなた私になんて」
「だって……巻き込んで死なせちゃったんだよ? あんなにたくさん……あんなに、もう取り返しがつかないことが、たくさん……たくさん」
「事故はあなたがいたから起きたわけじゃない。星野美咲があそこにいて彼女の霊が引き込んでいれば」
「……電車、私を避けたよね? あそこに私が立ってたせいで、死ななくて済んだ人が死んでるよね、絶対」
そう返すと、相川さんは黙り込んだ。
軌道が変わりさえしなければ頑丈な駅の壁に激突して、車両も外までは飛び出さなかったかも知れない。私のせいで家族や恋人や友達を失くした人、心身に一生遺るようなダメージを負った人が絶対にいる。
「相川さん……あそこで亡くなった人の霊、見える?」
私が聞くと、彼女はさらに表情を険しくする。ごめんね。こんなこと聞いて。
「その人たちが、『お前のせいで死んだんだ』って言ってたら……」
私は根拠のない当て推量で動いてきた。
それで成果がないどころか大勢の人を巻き込んでしまった。さらに私がいない間に犠牲者を増やしているとしたら、その可能性に気づいてしまったら。
「電車が逸れたから助かった人間だっている……私の他にも何人も」
「だけど……」
仮定の上で何人救われていたって、死んだ人は全て失ってしまったんだ。その人達の現実を前に、どんなに言い繕っても取り返しがつかないじゃないか。
相川さんが染谷さんを、私がお母さんを亡くしたような、そんな気持ちを大勢に味わわせているんだ。
「仮に」
「……」
「仮にあなたを恨んでる霊が大勢いても、あなたは生きている。あなたの…………お母さんのおかげで」
相川さんの口から「お母さん」という言葉が出た、それだけのことに私は息を呑む。
続いて彼女はポケットから、何か取り出して私に見せる。
「あ……」
「忘れ物」
臙脂色のお守り袋、へその緒のお守りだ。母の形見になってしまった、私を守ってくれたものだけど、私には忘れてきた、という意識さえなかった。
広げた私の手のひらに、彼女はそっと乗せてくれる。
「ありがと……でも、これももう」
「それでいいの?」
「……だって」
「お母さんは手術を受ける前のあなたにこれを渡したんでしょ。出張に出る前もわざわざ首に掛けて、今日もあなたに会いに戻るところだったんでしょ。『生きてるのにいいことある』って言われてきたんでしょう? いいの、生きてるのに諦めて。お母さんがあなたを守ったこと、無駄にしていいの?」
「……よく、よくないけど…………わかってるけど……」
彼女が言うことは全く正しい。それに、あの相川さんがお母さんを引き合いに出してまで、私に発破をかけようとしてくれている。一体どんな心境の変化か。凄い、凄いことなんだきっと。
でも肝心の「いいことある」が、今の私にはどうしようもなく空虚に思えていた。私は相川さんやハナにこんなことを言っていたのか。
「なかったよ。いいことなんて、何も」
「バースデーカードをもらったのは?」
「それは……」
「私にはあった、いいこと」
相川さんが唐突に言った。
「昌司さんと康昭くんに引き取られて……髪を切ってもらったり…………二人のバンドのライブに行ったこともある。大勢の場はあまり好きじゃないけど……でも演奏してるのは、綺麗だった。私もピアノをやらせてもらって、初めて人より上手くできることが見つかって、そのピアノで……施設の子に喜んでもらったり」
目を伏せて、過去の思い出を語る相川さん。一つ一つゆっくりと、宝物を慎重に取り出しているみたいに、ご馳走を時間をかけて味わっているみたいに、慈しみに満ちた口調だった。
「それを、全部台無しにした、私が……」
「相川さん」
「ここ数日、最悪だった。自分は生きる価値がないって心底思わされた…………」
半日前の私ならきっと、それはちがうってすぐに否定できていただろう。今は私自身が同じ状況で、生きようとする気力が全然湧いてこなくて、踏切前で彼女に訴えたことが申し訳なくなってくる。
でもやっぱり、自分がこんなことになってしまっても、相川さんには前を向いて欲しい。私みたいにならないで欲しい。そんな勝手な思いが芽生える。
「だけど私は助かってしまったから、生きているから…………また、いいことあるかもしれないから……そうでしょ?」
「えっ」
相川さんの手が私の方へ伸びる。細い指が私の手を包む。一度は返したへその緒のお守りを、改めて私の手ごとぎゅっと握りしめた。
そして、空いた手で渡しの肩を強く掴み、眉間に皺を寄せて私を強く見据える。
「私にはこれからいいことがあるから、あなたにだってある」
「私は、私……」
「ないなんて言わせない。ここから、あなたも他の取り憑かれた女も全員助かるような奇跡が起きるかも知れない。いいことはある。あなたはそう言った。母親が死んだって、どんなに状況が最悪になったって日和らないで。生きてるんだから!」
ほとんど叫ぶようにして、私に縋り付くようにして、相川さんが訴えてくる。
「私にあんなこと言った責任を取って……生き残って、これからも能天気に、おめでたく生きて……いいことあったよって証明して!」
明かりは街灯だけの闇の中でも、相川さんの瞳が潤んでいるのがわかった。
相川さんの背格好はなんとなく母に似ているけど、安心感はない。今はむしろ頼りなげで弱々しい。
だけど母も同じだったんだろうか。父に死なれて、私を一人で育てて、私の命が危うくなって。必死に嘘をついていたんだろうか。私がそう信じて生きていけるように。
生きていればいいことがある、自分にはいいことができる――嘘っぱちで、吹けば飛ぶような錯覚なのを何度実感させられても、その度信じ直すしかない。
私たちは生まれてしまったから、生きているから。
「わかった…………わかったよ、相川さん」
肩に置かれた彼女の左手に、私も右手を添えた。骨を感じる硬い手だった。
「まだがんばる……がんばるってみるよ……いいこと……あるよね」
空虚だと知っている言葉を繰り返す。嘘から真が出るまで、当て推量が当たるまで。
「霊視も、お願い……検査も朝イチで受けるよ。それで本当に私が原因ってわかっちゃうかもだけど…………」
その言葉には、相川さんも何も言わなかった。彼女が肩を掴む手を離し、一歩下がる。
それで少し冷静になると……もう深夜だとはいえ横浜市内の大通りで、警察署の前でこんなことをやっていたらそれなりの人に見られたんじゃないか、今さら恥ずかしくなってくる。
顔の火照りをごまかすみたいに髪を触りながら、私は相川さんに言う。
「なんかすごい、熱かったね、相川さん……キャラブレってレベルじゃないでしょ」
「……」
彼女は視線を逸してしまう。照れるとかあるんだ、相川さんにも。少しおかしくて、私は笑っていた。なんだか久しぶりに笑った気がする。
前に笑ったのは、そう……あのバースデーカードを貰った時だ。
染谷さんが亡くなる前、罪悪感を抱えて、それでも前向きになろうとしていた時の、「助かったらしたいこと」を思い出した。今ならなんとなく、嫌がられない気がした。
「全部解決したら、教えてくれるかな? 相川さんのこと、色々」
「……考える」
「私の話も、相川さんにしていい? お母さんのこととか」
「……構わない……………………私も、知りたい」
その言葉に目頭が熱くなる。相川さんは少し間を置いて「でも」と言った。
「でも?」
「子供を作ること、認めたわけじゃない。無責任だって思うのは変わらない。作らないに越したことはない」
「うん……」
彼女の考えが何か拗らせているだけ、とはもう思えなくなっていた。
「私ももう、由香里さんみたいに無邪気には思えないな……『まだまだたくさんの子をお授けください』なんて」
「何それ」
「子宝祈願のお願い事。由香里さんの名前で絵馬に書いてあったの、お寺で見つけて」
流石にこれは相川さんが聞いたら怒るだろうと思ったけど、怒りともまたちがう反応を見せた。目を見開き、口も小さく開いたままで黙り込んでいる。
「どうしたの?」
「何人?」
「えっ?」
「『まだまだたくさん』って何人? その時の赤ん坊を無事に産めたとして、その後何人産むつもりだった? 一人や二人でそんなこと言う?」
…………言われてみればそうかもしれない。
由香里さんは三十七歳だった。技術が進んだとはいえ、加齢するほど母子ともにリスクは上がる。三十八、三十九、四十歳、「まだまだたくさん」を望むには無理がある。
絵馬に書いた願い事の文面に違和感がある――それが何だという話かもしれない。言葉選びのセンスの問題でしかないかも。
だけど。
「中尾由香里の子供だけじゃなかったら、他人の子供も指してるなら」
私以外のみんなも元気な赤ちゃんを授かりますように……なんて牧歌的なことを言ってるんじゃないのは明らかだった。相川さんがしている恐ろしい想像が私にも伝わってくる。
「もしも、あの女が、何が起きているか知ってたなら……」
「そ、そんなわけないでしょっ! 邪坊が憑いてるって、殺されるってことだよ!? 由香里さん明るくて、産まれるのを楽しみにしてたって」
「自殺」
「……っ」
「あの女は一人子供を死なせていて、もともと死ぬつもりだった。取り憑かれた時あなたみたいに、その霊の生前の記憶や憎しみに触れていたら……」
「そんな……」
殺されることを受け入れていた? 仮にそうだとして、その上でさっきの絵馬のことを考えるなら、受け入れていたどころか、自分と大勢が殺されるよう望んでた可能性すら。
「……………………あ」
相川さんが発した疑念を受けて、私も恐ろしいことに気づいた。
スマホのアドレス帳を確認、古屋先生の番号を見つける。邪坊のことを調べる過程で聞いたものだった。もう夜遅いけど、迷う余地はない。
『はい……古屋です。どうしたの丸屋さん』
幸いすぐに出てくれて、そして自宅にいるとのことだった。非常識な深夜の電話を謝りつつ、多少強引にでも、聞くべきことを率直に確認する。
「水曜二限の、『日本の民間信仰』の資料ってお手元にありますか? あったらちょっとお聞きしたくて……出産の回なんですけど、レジュメに載ってる……はい」
古屋先生からの答えを聞いて、全身に震えが走った。恐怖と興奮が半々の。
お礼を言って電話を切ると、すぐに聞いた名前を検索して、出てきた画像を確認、直後に古屋先生から送られてきた、そのレジュメの画像も、ああ、やっぱりだ。
あの日、由香里さんの死に居合わせる数時間前に受けていた『日本の民間信仰』三コマ目『出産にまつわる信仰』――そこで配られたレジュメに載っていた、都内の子宝祈願の寺社の写真、その内の一つ。
由香里さんの絵馬を見つけたのも、美咲さんに出会ったのもこのお寺でだった。
私がここを尋ねたのはレジュメに載っていたからで、そして私は講義を受けた後で。
「祈ってた! ここに……! 由香里さんも美咲さんも、このお寺に!!
『赤ちゃんが欲しい』って!!」
よくわかっていない様子の相川さんに、ほとんど叫ぶように言う。
「……その寺に来た人間が取り憑かれる、ってこと?」
「たしかなのはまだ三人だけど。でもそれなら近い地域に住んでて、既婚者で子作りしてる人ばかりってのも筋が通る。それが普通なんだよ、子宝祈願のお参りに来るんだから」
私に宿ったのは乗り移る能力があるからじゃない。私が例外なわけでもない。同じなんだ。私は取り憑かれる条件を満たした。例外なのは、相手もいないのに祈っていたこと。
後は……まだ署内にいる藤田さんにもかける。他の犠牲者たちがこの寺に参拝しているかどうかを最優先で確認してほしいと。
繰り返しお願いし電話を切ると、なんだかひどく疲れていた。今まではただ気力が湧かないだけだったのに。
「ごめん…………相川さん」
「何が?」
「子供、欲しいって私」
今思えば何の覚悟もなかったのに。自分から人間が一人生まれるってことの重大さと恐ろしさを考えず。
相川さんは何も言わない。停めてあったバイクに跨ると、ハンドルに掛けてあった自分用のヘルメットを手に取り、タンデムシート脇にぶら下げていた二つ目を私に寄こす。
「行こう。丸屋恵那」
「うん」
急がなきゃいけない。私は早足でバイクへ駆け寄る。希望を持って踏み出すことができた。今はちゃんと、行くあてがあった。
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