四章 産神
第15話
喘ぎ声と、肉のぶつかる湿った音が私の家には絶えず響いていた。
着物の下をまくりあげた母親が犬や馬みたいに尻を突き出して、男が毛深い下半身を打ちつける。
それが母親の仕事だった。
客は村の男もいれば商売やなんかでやって来るよそ者、たまに侍もいた。
母親は要領が悪くて野良仕事もその他もおぼつかず、体を売るくらいしか人並みに食い扶持を稼ぐ手段がなかったようだ。それでさえ、頭が悪いことにつけこまれて客によく金をごまかされる始末だった。
私は母親のせいでバカにされ、母親は私のせいでバカにされた。
母親が売女だからお前みたいな子が生まれた、バチ当たりな母親から生まれた化け物、よくそう言われた。
恐らく私の父親も客の誰かだったんだろう。果たして父親の血に何かがあったのか、「バチ」によって私が化け物として生まれたのかはわからない。
ただ、私を忌み子と呼ぶ村の連中とちがって、母親は私に優しかった。
私を罵る声から常に私を庇ったし、私がそう扱われることをいつもすまないすまないと謝っていたし、客が私に手を出そうとした時は包丁を持ち出してまでやめさせていた。
母親が客との間にできた私の弟妹をかき出したり縊り殺したりするのを見ていても、その子らが母の背中にべったり張り付いていても、私は自分を守ってくれる母を嫌いになれなかった。
目覚めるとまず、天井が見えた。
大理石に似た模様で、銀色のカーテンレールに区切られている。消毒液の臭いがした。柔らかい布団に包まれている。
「……」
ベッドに、寝かされているらしい……。
今のは、またハナの夢?
……ここどこ……私、ああ。
意識がはっきりすると、これまでの記憶、私が居合わせた場面が頭に浮かんでくる。
相川さんを助けて、駅で美咲さんを見つけて、実は私をお寺で介抱してくれた人で、邪坊を産むって言って……電車が脱線して、私も潰されそうになって、大勢の人が、美咲さんが、代わり雛がなくて、それで私も、私も。
……生きている。
布団の中で股ぐらに手をやる。
痛くない……と思う。
「丸屋恵那」
体を起こすとほぼ同時に名前を呼ばれる。
振り向けばベッド脇の椅子に相川さんが腰掛けていた。周りは薄黄色のカーテンに仕切られている。
「ここは病院。あなたは運ばれてきた」
「……あの、私、あの後、えっと」
疑問が一度に浮かびすぎて、何から聞けばいいかわからない。私が聞くより先に、相川さんが続きを話してくれた。
脱線事故で発生した大勢の怪我人は近隣の病院数十箇所に運ばれた。現在も救助活動は続いている。ここは現場から一番近い、美咲さんが入院していた病院の救急病棟。
私は意識を失ってはいたけど性器からの出血も外傷もなく、寝ている間に受けた検査でも全くの無事という診断。
そして倒れてから四時間余りが過ぎた今、目を覚ましたところ……らしい。私の格好は青い患者着で、それ自体に疑問はない。
無事だから、つまり。
相川さんの話を聞く私を、ハナが無言で覗き込んでいた。
反射的に、手で払いそうになる。相川さんが慌てた様子で私の手を押さえた。
「落ち着いて。死にたいの」
「……!」
染谷さん、川越先生のことを思い出した。私のこの行為が「攻撃」とみなされるのかわからないけど、でもたしかに、可能性はあった。
「ごめん……」
ハナはもう消えていた。もちろん、私の子宮内に依然存在しているんだろう。私を嘲笑った末に殺したいんだろう。でも。
「なんで……なんで助かったの……? 私」
枕元に置かれたお守り袋を手に取る。代わり雛の材料と一緒に相川さんの神社で貰ってきたものだ。本来は美咲さんに渡すはずだった。
電車が掠った時、やはりお守り袋は車体に接触し、紐ごと千切れて吹き飛んでいったらしい。隣のホームの壁際に落ちていたのを回収したのは相川さん、袋がクッションになったためか中身は無事だったという。
「袋はボロボロだったから新しいのに」
「あ、ありがとう」
相川さんにまた救われた。開けるとたしかに私の代わり雛が出てくる。今朝確認した時よりも切れ目は気持ち大きくなったように見えるけど、まだぎりぎりで猶予があり、事実私は生きている。
でも、おかしい。
「離れても大丈夫だったってこと?」
向かいのホームなら十メートルは離れていただろう。ニメートルも離れると効力がなくなるという話じゃなかったか。今度こそダメだと思ったのに。
相川さんはしばらく黙ったままだった。
「どうしたの?」
彼女はわからないならはっきりわからないと言うと思う。
この沈黙は何? 何かを迷ってる? 言うのを躊躇うことがあるの? あんな大惨事が起きた後で?
彼女は無言のままベッドの手すりに付いている折り畳みのサイドテーブルを広げると、ジャケットのポケットをまさぐって取り出した物を二つ並べる。
見覚えのある物だった。
一つは代わり雛と一緒に下げていた、臙脂色のお守り袋。
相川さんに見せてと言われ、渡したままになっていたもの。
その袋が空いている。
すぐ隣に出された「中身」を見て私は息が止まるかと思った。
ガーゼに包まれた状態の、小指の先くらいの塊だった。
スルメイカのような色と質感をしていて、穴が複数空けられ、黒い糸状のものがそれを通して複雑に結ばれている。
知っている。
私のへその緒だ。結ばれているのは母の髪。
『本当はお父さんが作ろうとしてたのよ。自分の髪使って。だけどえっちゃんが生まれる前に死んじゃったでしょ。だからお母さんの』
入院する時、母はそう言って私にこれをくれた。
私はこれを、お守りというよりは母の分身のように感じていた気がする。母もだからきっと出張に行く日、私に持たせたんだろう。
お守りは開けない方がいいと言うし、見た目がグロテスクだからわざわざ確認しようと思わなかった。見るのはもらった時以来、七年ぶりだ。
そして、久しぶりでもすぐにわかる、その時とのちがいが生じていた。
「母」の髪の結び目がぷっつりと切れていたのだ。
いや、別に……何年も確認してなかったし、髪の毛なんてその間に切れていてもおかしくない。
おかしくない。おかしく。
「代わり雛も他の呪術も、いくつか“源流”がある……これはそれに当たるものだと思う。人形じゃなく、親自身がその身で災いを肩代わりする」
「相川さん……?」
「あの時、私はこれを持ってあなたのそばに駆け寄った。恐らくその時に『役目』を果たした」
『役目を果たした』『親自身が身代わり』――何が言いたいの……?
すぐに「答え」が、あまりにも恐ろしい想像が頭に浮かんでくる。
ちょうどその時、ガチャリ、とドアの開く音がした。続いて仕切りのカーテンを開け、藤田さんが現れる。
目を覚ましている私、テーブル上の代わり雛、そして相川さんへと順に視線を移した。
相川さんよりわかりやすい、逡巡の表情を浮かべる。
それでも、大きく息を吐いた後、彼は私にそれを打ち明けたのだった。
「丸屋さん…………取り乱すなって言っても無理でしょう。でも、隠すわけにいかない。伝えなきゃいけないことがあるの。どうか、落ち着いて聞いてちょうだい」
「……あの……え」
「星野美咲さんの他にも、また女性が十二人、陰部からの大量出血で死亡しているわ。だけど、うち一人は妊娠が確認されなかったらしいの」
「…………や」
「名前は丸屋冴子さん、お母様だそうよ」
都下のターミナル駅で大規模な脱線事故が発生したのとほぼ同時刻、名古屋発東京行の新幹線のぞみの車内で、乗客の女性が突然下半身から大量出血して意識を失った。
新幹線は新横浜に停車。救急車が呼ばれたけど女性はすでに死亡していた。
所持品で都内の製薬会社社員丸屋冴子だと確認した警察はスマホの電話帳から
遺体は横浜の新港北警察署にあり、藤田さんが車で送っていくれるという。
すぐに退院した。
事故から数時間経つというのに救急車が何台も停まって、怪我した人が運び込まれていくのとすれちがう。
病院を出て少し走ると大通りが封鎖されていた。設置された柵の向こうには駅の外壁を突き破って道路を塞ぐ車両と、事故を起こした車数台、パトカーに救急車、消防車が見えた。
『乗客利用客を中心に死者三百名以上重軽傷者八百名近く、平成十六年の福知山線脱線事故を越える戦後最悪の鉄道事故』――ナースステーション前のテレビがそう伝えていた。
新港北署までの一時間以上、藤田さんも私もずっと黙っていた。
母が死んだって知らされて、嘘だ、なんて言ってられたのは最初だけだった。
たしかにスマホの着信履歴には神奈川県警の番号があって、向こうの刑事さんも配慮を重ねた感じの言い方で事実を伝えてきた。
こんな嘘をつくわけがない。
現実。
染谷さんが死んだことのように、川越先生が、美咲さんが優真くんが、あの駅の事故に巻き込まれた人たちみんなの死が現実なように。
でも、口で肯定しながら、わかりましたと言いながら、そのことがどこかふわふわしたまま、私の体は車に乗せられ運ばれてゆく。
到着すると先に降りた藤田さんに名前を呼ばれて、降りて、私は彼に引っ張られるみたいにして署内に入って、案内されて。
安置室とだけ書かれた銀のドアの前に来て急に足が竦んだ。藤田さんがドアに手をかける。私は怖くなって後ずさり、置かれていたベンチにぶつかる。
視線が下がって、自分の足下、履いている靴が見えた。
爪先が赤く濡れていた。
血だ。爪先以外にも血の飛沫がいくつも付着している。
美咲さんか他の利用客乗客か、あの駅で流れた誰かの血が私の靴を汚していた。
「ごめん、なさい」
誰に謝ったのか自分でもわからない。
責め立てられたみたいにびくびくした動きで顔を上げる。
安置室はがらんとした部屋だった。部屋の両脇に巨大な冷蔵庫みたいな銀色の装置が一台ずつ、私の目の前、部屋の真ん中に寝台が一つ。
その上には白い布を被せられた遺体がある。手袋をした刑事さんが布をめくり、私に遺体の顔を見せた。
「お母さん」
短髪で私にはあまり似ていない濃い顔立ち。母の顔だった。
目は固く閉じている。寝ているみたい。息をしていないだけ。
「お母さん」
自然と、指先が頬に触れていた。
触った感じはまだ柔らかい。でもおどろくほどに冷たい。かなりベタベタと触っているのに何の反応もない。
私の頭の中で、完全な現実ではなかったところに最後のピースがはまっていた。
母の顔が涙で滲んでいく。
「お母さん」
溢れ出した雫がどれだけ顔に垂れても、お母さんは起きない。私が泣いてても慰めてくれない。頭を撫でてくれない。
お母さんは笑わない。喋らない。私と家に帰ってくれない。一緒に寝てくれない。
これからできたはずの全てのことが、もう絶対にできない。
永遠に。
お母さんはもういない。
「おかっ……おがぁ、あ」
現実逃避がいくらでも頭に浮かんでくる。
私が電車に巻き込まれない位置に立ってれば、私があそこに行かなければ、一度は置いていったお守りをわざわざ持っていこうなんて思わなければ。
お母さんは死なずに済んだ。お母さんだけじゃない。駅で亡くなった大勢の人。心や体に一生瘉えない傷を負った人。その家族。
全部現実なんだ。たった半日前には、全部上手くいくんじゃないかって思ってた。私も美咲さんも、今取り憑かれている人もみんな助かるんじゃないかって。
何の根拠もないのに希望らしきものを抱いて、当て推量で行動して、こんな。
「ごめんなさいっ……ごめ、なさっ……い」
自分のありとあらゆることに後悔が押し寄せてきて、全てがこの最悪な今につながっているように思えて、涙が止まらなかった。
親が子の災いを肩代わりするお守り。お母さんは手術の時からそのつもりだったの? 五日前、私に何かが起きてることを察してこれを渡したの?
どこまで知っていたかはわからない。でも自分が死ぬ危険性があるとわかっていても、母は絶対、これを私に持たせただろう。間違いない。
ずっと言ってたもん。生きてればいいことあるって。お母さんは、私のことが何より大事な人で……私を守るためなら何だってするはずで、今日もいいって言ったのに名古屋から……。
お母さんは私の身代わりになって死んだ。
私はお母さんを身代わりにして助かった。
でもお母さん、私、助かったけど…………もう。
そのうち、藤田さんが私の肩を抱いて安置室の外へと連れ出し、ベンチへ座らせる。
私はそれでも泣き続けて、泣く体力がなくなった時に、タイミングを見計らったように、藤田さんが名前を呼びかけてきた。
「大丈夫、じゃないでしょうけど……」
「……はい……」
「本当は手続きを色々してもらわなきゃいけないけど……今はいいわ。明日、岐阜からお祖父様お祖母様が来られるそうだから、そちらにお任せしてもいいかもしれない」
「……そう、そう……ですね」
「丸屋さん」
藤田さんは名前を呼んだきり、一言も発さなかった。黙ったまま数秒が経って「ごめんなさい」と薄くなった頭を下げる。
何を……何に対する謝罪なんだろう。
彼は何も悪いことをしていない。何の落ち度もない。
「送っていくわ。多分日付変わっちゃうと思うけど待っててもらえる?」
藤田さんとの付き合いはたった五日足らずだけど、立派な人なんだと思う。染谷さんもそうだった。
だけど。
「一人で……帰ります」
「多分明日の朝まで首都圏の鉄道は麻痺状態よ。タクシーもなかなか」
「大丈夫です……ありがとうございます、もう、大丈夫です」
気力の萎えた足で立ち上がり、強引に歩き出す。
「丸屋さん」
また名前を呼ぶだけだった。
何を言えばいいのかわからないんだろう。私もわからない。
祖父母や叔父からも着信履歴があったけど、かける気にならなかった。明日から検視とか解剖とかお通夜とか葬儀とかあるのかな。私は出るのか、わからない。
火葬まで生きていられるのかな……。
ふらついた足で廊下を歩き、受付の人以外は無人のロビーを通り抜ける。
自動ドアが開くと、むわりとした夜気が体を包む。パトカーが数台停まっている駐車場、大通りに面した正門。
それをくぐって……どこへ行くんだろう、私。
家に送ると言われたけど、家が嫌だった。もう二度とお母さんは戻ってこない家に帰りたくなかった。
じゃあ、どこに向かえばいい。私は死ぬまで何をすればいい。
あてのないまま、足は無為に動いている。立ち止まることから逃げている。
目の前の大通りを車が行き来している――五日前の私は、飛び込みたい欲求に駆られた。
ダメなんだ。それすらも。
あの日も、相川さんを助けた時だって、もしも電車との衝突が避けられなかったらまたあの力が働いていたんだろう。大事故を引き起こして私だけが無傷で残るんだ。
……簡単に死ねる方法が一つある。
ポケットに入っているお守り袋から代わり雛を取り出して、引き裂くか単に距離を取ればいい。ハナは今度こそ、この場で私を殺すだろう。
ポケットに手を入れ、お守り袋を掴みだす。少し見ていると。
「……っ」
その手を、横から伸びてきた別な手が掴んだ。
「えっ」
正門を出て右脇の路上に、一つ目みたいなヘッドライトのオートバイが停まっていた。
それに乗ってきたであろう人物が私の目の前にいる。
「丸屋恵那」
相川の整った顔が私を睨んでいた。
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