第12話
東武線館林駅、冷房の効いた待合室で私は資料を見返していた。
今は河野さんのもとを尋ねた帰り、この資料も彼や彼に紹介された民俗資料館、現地の寺社に保存されていた文献をコピーさせてもらったものだ。脇には、河野さんによる簡単な訳が添えられている。
邪坊とハナの呪い、それぞれが発生したとされる時期の記録。
当時、どうやって邪坊は収束したのか――「洞穴の祠に祈りを捧げた」以外の言及や、あるいは祠への信仰の行方についてわかるものはないかと。以前も調べたことだけど、以前よりも広い範囲を。
河野さんが口をきいてくれなければ無理だったことで、それは今や邪坊が蘇ったと認めざるを得ない事態になり、さらに私も取り憑かれていると打ち明けたためだった。河野さんには、私と同い年のお孫さんがいるのだと聞いた。
ハナは想像を絶するほど強大な悪霊で、さらに同類の「邪坊」が大勢の女性に取り憑いている。私が尋ねた染谷さんの「同業者」たちも誰も手を出せないという――祓えるなんて言われても私は断っただろう。
あまりに絶望的な状況だけど、それでもこの怪異は四百年前、一度は鎮まっているはず。
鎮める手段があるはず。それを見つけ出す。
私が縋れる希望は、もはやそれしかなかった。
そして三日間の現地調査の結果、新たに得るものはなく私は帰路についている。
河野さんは引き続きの調査を続行してくれた。もしかするともっと時間をかけて粘り強く調べれば「真相」に行き着けるのかも知れない。
だけど、この調査の間にも代わり雛は裂けていき、猶予はあと数ミリ、日数にすれば三、四日というところまで来ている。いや、実質的な寿命はもう――。
私が東京に戻ることにしたのは、そちらの方がまだ可能性があるんじゃないかと思ったからだ。
四百年前の真相に行き着く、もう一つのルート。
スマホに着信があった。
ディスプレイに表示された名前を見て心臓の鼓動が早くなる。
待ち望んでいた電話なのに五秒くらい出るのを迷ってしまい、恐る恐るという感じで応答をタップする。
『もしもし、丸屋さん? あたし、藤田です。頼まれてた件の結果だけどね、今いいかしら?』
「ありがとうございます。お願いします」
染谷さんと親しかったらしい初老の刑事さん。
染谷さんが殺された日に私の取り調べにあたり、荒唐無稽どころか完全なオカルト塗れのそれまでの体験を信じてくれた人。
私の話で警察を動かすのは無理だけど、彼は警察の捜査情報を私に教えてくれるという。問題がないわけないだろうけど、「あたしが独断で一方的に守秘義務違反をするだけだから」と。
日本中を騒がせる妊婦連続大量死については医学的な原因究明の他、警察も全力を挙げて犠牲者の関係性や共通項を調べているということで、私もまさにそれが知りたかった。
『何故彼女たちは取り憑かれたのか』がわかれば、そこから四百年前に一旦収束した要因も推測が立つかもしれない。
以前に行き詰まった時は由香里さんと私だけという前提だった。でも新たな犠牲者が大量に出た今は、不謹慎な言い方をすれば新たな推理の材料も大量に存在することになる。
「これは報道されてるけど、亡くなった人は現在までで四十二人。もちろん全員女性。平均年齢は三十二歳。一番年いってて四十歳、若くて二十六ね」
藤田さんの口からいくつかの情報がもたらされる。
犠牲者のうち過去に赤ちゃんを亡くしたことのある人は由香里さんをふくめて三人、由香里さん以外に彼女と同郷、または居住暦のある人もいない。
犠牲者同士の関連性も、今のところはSNSで由香里さんのフォロワーだった人が何人かいた――恐らく面識はなかった――くらいだという。
『全員共通してるのは既婚者なこと……あと、全員ではないけどだいたいは自分の妊娠を知ってたみたいね』
「それは……『妊娠する身に覚えがない』みたいな人いないんですか……? いわゆるあの、レス? とか、無精子症? とか」
『それもちょっと今のところ。不妊治療してた人も多いみたいで、喜んでたみたいよ赤ちゃんができたって』
「そう、ですか……」
世間では「妊婦だけが罹る奇病」と言われているし、独身の妊婦だっているとはいえ比率を考えれば、現状の犠牲者が既婚者ばかりなのも不思議じゃないかも知れない。
文献の記述でも、邪坊は妊婦に取り憑くものとされていた。
染谷さんは「勘違い」と言っていたけど、この「勘違い」が成立するのは、邪坊は当時から妊娠し得る背景のある人にだけ取り憑いていたってことだろう。
つまり性交渉をしていた女性だ。
じゃあ、私は何?
何故私だけ経験すらないのに妊娠したのか、超常的な力による妊娠で、原理的には女性なら誰でも孕ませられそうなのに。何故四十二人もいて私みたいな人がいないのか。
この差の要因は、私に憑いているハナが邪坊全体の中でも特別な存在だということなのか、それとも私だけが由香里さんから感染するかのように、二次的に取り憑かれていることにあるのか。
「藤田さん、知念先生たちに『視て』もらう方は……」
染谷さんの「同業」の人たちにも一つ頼ることにした。邪坊を祓って欲しい、は無理な話でも、安全な範囲で。
河野さんのところに行く前日、「拝み屋」の男性と、ユタの血を引くという祈祷師さん――あのマネキン、手のミイラの本来の持ち主らしい――に会ってお願いした。
私が調査している間、既婚から独身、小学生の子まで怪死事件の現場に居合わせた女性を藤田さんに事情聴取の名目で警察へ呼び出してもらい、彼らに離れたところから「視て」もらったのだ。
少なくとも相川さんには私に憑いたハナが見えていたのだから。
『ゼロ、ですって。十二人見て誰にも水子は憑いてないって二人とも言ってたわ。もちろん、これが全員じゃないし引き続きお願いするけど』
喜ぶべきなんだろう。その人たちは取り憑かれてなかったんだから。
お礼を言って電話を切る。失望を隠せた気がしなかった。溜息も出ない。
私と同じ状況にあって取り憑かれていない人がいる。それは、ハナだけが新たに乗り移る能力を持っているということなのか。だとしたらその意味は何なのか。
死まであと数日という状態で停滞が続くと、嫌でもネガティブな感情が心を覆う。
ダメなんじゃないか。
そもそも、もとから邪坊を鎮める手段なんて存在しないんじゃないか。四百年前も今も、ただ彼らが彼らの気分や都合でやめてくれるのを怯えながら待つしかないんじゃないか。
何度も頭に浮かんでは隅に追いやってきた考えに支配されそうになる。
頭を掻きむしりたくなる、そんなタイミングでまた着信があった。
「……っ」
藤田さんから続報? ほとんど反射的に確認すると。
『お母さん』
今度は十秒くらいディスプレイを見ていた。
応答し、聞こえてきた声は藤田さんに比べるとひどく暢気なものだった。
『もしもし~、えっちゃん?』
「どうしたの?」
『いやね、えっちゃんのことだし出張に出たその日には電話あると思ってたのに全然かけてこないじゃない。逆に気になっちゃって』
「……」
かけていたにちがいない。あのお祓いが成功していたら。ハナを消してしまった罪悪感を抱えながら、それでも生き残った安心に浸りたくて母に電話していたはずだ。
それで焦れて向こうからかけてきたらしい。
やっぱりお母さん子離れできてないじゃん、なんて言えればよかったか。
ここ数日、母の声を聞きたい、と聞きたくない、がせめぎ合っていた。今実際に聞いて、やっぱり出るんじゃなかったという方に傾いていた。
声を聞くと会いたくなる。帰ってくるのは十日後。私の命はせいぜいあと四日なのに。
「実はね、ちょっと聞きたいことあるんだけど……」
「……何?」
「妊娠してるとかない?」
突然核心を突かれ、今度はスマホを落としてしまう。すぐに拾って出た。液晶にヒビが入っていた。
「妊娠? なんで、どうしたの?」
どうにかこうにか答える、全く予想外のことを聞かれて動揺した、そう思ってお願い。
「だって今ほら、大騒ぎでしょ、妊婦さんがもう四十人って。それでね……四月の、最初に亡くなった人、えっちゃんあの場にいたでしょ」
「あ、う、うんっ」
六月に入ってから私が訴えるようになった体調不良が悪阻と呼ばれる症状と一致することに気づき、娘が実は密かに妊娠していたらと心配になった、と母。
「ウィルスだかなんだかわからないけど、原因不明っていうし、ないわよね……?」
「ないって! 何言ってるのお母さんっ! そもそも経験ないし、そういう人できたら、お母さんに言うって絶対」
「そう……」
心臓が破裂するんじゃないかってくらいバクバクいうのを感じながら、おどけたような、笑い飛ばすようなテンションを演じる。
電話越しだと演技できるみたいだ。
怪死した女性と胎児はDNA上の親子関係がなかった、という報道は今のところない。処女懐胎なんて想像すべくもないだろう……私が言わなきゃ大丈夫、大丈夫。
「一応ね、検査はしてもらったら? 今は大丈夫でも、将来ほら、もしかしたら」
「…………ああ、う、うん」
まだ動悸が激しい。冷や汗が出ているのを感じる。電話でよかった。直接母の顔を見て、恐怖と動揺を隠しきれた自信がない。そう思った矢先。
「それと……お母さん、帰ろっか?」
「はぁっ? 何言ってるの? 出張中でしょ!? 戻るの再来週でしょ?」
「名古屋から東京なんて新幹線で二時間もしないもの。明日も日曜だし、えっちゃんの顔見てお泊りして、ご飯でも食べて帰れば全然」
「ダメっ!!」
大声で叫んでしまう。もうダメだ。明らかに動揺しすぎだ。
本当は帰ってきて欲しい。でも帰ってこないで。
「いいの、いいの…………お母さん、私のこと甘やかし過ぎだよ。子供じゃないんだよ。再来年には就職して、住み込みで働くし……親離れしなきゃさ……」
苦しい言い訳。母は納得してはいないんだと思う。本当に大丈夫かって何度も聞く。
全然大丈夫じゃないよ。
でも強引に、お仕事がんばって、と言って電話を切る。
周囲の注目が集まっているのを感じるけど、気にならなかった。動悸はさっきほどじゃなくなったけど、別な息苦しさを私は感じていた。
言えなかった。「産んでくれなんて頼んでない」は言えたのに。
言ってもどうにもならないからだろうか。
お母さんが何もできないから。きっと知ったらお母さんは仕事を放り出して帰ってきて、病院でも霊能者でもほうぼうを駆け回って……。
それでも私は、最後には。そうしたらお母さんは。
私は心の底ではもう、助かることを諦めてるんじゃないか。お母さんのこと全然信用してないんじゃないか。
死ぬわけにいかない。これで死んだらお母さんは――母を裏切るような真似をしてかえって、そんな思いが湧いてきていた。
それに……相川さんと小室さん。私のためにパートナーを喪った小室さんは、だというのに霊能力者の連絡先を紹介してくれた。でも同時に、こうも言っていた。
『君は何も悪くないんだろうし、これくらいのことしかしてあげられないのはすまない。でも、もう愛には近づかないでくれ。お願いします』
当然だ。相川さんが取り憑かれるリスクだとか以前に、もう私なんて見たくもないだろう、二人共。
だけど、もう一度謝らなきゃ。そのために生き残らなきゃ。
今のところ糸口は何も…………いや。
「検査……検査、か」
母の提案を思い返す。そういえば川越先生にも勧められていた。
超常現象だし検査なんかしても何もわかりはしないと勝手に思っていた。でも精密に体全体を調べれば通常の妊婦と、あるいは他の犠牲者たちと何かしらちがいが見つかるかも。
何しろ私は例外的な存在らしいのだから。
もちろんダメ元だ。仮に医学的に見て何かしらの異状があっても、そこから私の特異さの理由に行き着けるか、事態の解決に繋がるのかは全くわからない。
だけどこれまでだってそうだった。
成果は未だにないけど、根拠のない当て推量を当たるまで続けることしか、タイムリミット前に当たるのを祈るしか、私にはできない。
大学病院の番号を調べたけど、最初に電話したのは川越レディースクリニックだった。私の事情をある程度知っているし、まず彼女に聞いてもらおう。
「院長の川越先生とお話させていただけませんか?」
電話に出た受付の女性に尋ねると、思わぬ答えが返ってくる。
『川越は……亡くなりました』
「え?」
中絶手術中に死亡した。口から大量の血を吐き、何かを拝むような姿勢で死んでいたという。
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