第10話

 約束の時間に神社を訪れる。

 染谷さんは今日、社務所も閉めて私のお祓いに当たってくれるという。

 彼は裂け目の広がった代わり雛をチェックすると、「怖かったでしょう」と私に言って、準備に時間がかかったことを詫びる。脇には相川さんが無言のまま立っていた。


 儀式の前に身を清めるため、祓う方祓われる方共に“みそぎ”を行わなければならない。染谷さんはもう済ませたとのことで後は私だけ。

 水を被るというイメージはあったけれど、祝詞を唱えたり印を結んだりと、それ以前に踏むべき手順が数多くあるようだった。

 染谷さんに渡された説明書きに目を通す。その間、すぐ後ろには相川さんがいた。わからないことがあったら聞いてくださいと染谷さんがつけてくれたんだけど、怖い。何しろ昨日の今日だ。

 幸い説明書きが丁寧で、ちゃんと読めば手順は十分に理解できた。書いてある通りに一つ一つを粛々と、できるだけ集中してこなす。どれくらい成否に影響するのかわからないけど、命がけなのだ。

 最後、穢れを洗い流す水をお風呂の湯船に溜めている間、私は沈黙に耐えられず、脱衣場で見ている彼女に言葉をかけてしまった。


「ごめんね、昨日……」

「別に」

「相川さんは、やっぱり私に助かってほしくない、よね……?」


 また卑怯な、というか甘えたことを聞いてしまったと思った。相川さんは黙っていて、無視されたのかと最初思ったけど、脱衣場を出ていき何か手にして戻ってきた。

「昨日渡しそびれた」と言ってそれを私によこす。


『えなせんせーおたんじょう日おめでとう』


 二つ折りになった水色の厚紙に黄色のクレヨンでそう書かれていた。一瞬唖然としたけど、『ヤドリギの家』の子達からとすぐに気づく。

 開くとまず飛び出す絵本みたいにバースデーケーキが立ち上がる。二ページ目は左側にダンボ――好きな映画だと施設で言った憶えがある――の切り絵、右側には私の似顔絵が描かれていた。似顔絵は多分千愛ちゃんが描いたのだろう。漫画家になりたいと言っていて絵がすごく上手い。実物よりずっと美人だ。

 自分に危険な物が憑いていると知った私は感染症にかかったと嘘をつき、ずっとアルバイトを休んでいた。

 万が一子供たちが狙われたらと思ったから……、だけじゃなく、怖かった。

 親に苦しめられた子が多い。今は依存しているような子も、例えば思春期に入って生まれてこなきゃよかったなんて思ったらどうしようと。

 だからなんというか、不意を突かれた。 

 あの子たち、こんなの作ってくれてたんだ、誕生日なんて自己紹介で言ったきりなのに。

 それに、よりによってこれを渡したのが相川さん。少なくとも彼女が自分から私に会うと申し出なきゃ子供たちから頼まれもしないだろう。

 ああ……ダメだ、また涙が出てきた。


「あり、ありがとう……」


 お礼を言うと、相川さんは今日一番不機嫌そうな顔になった。

 そろそろ水も貯まるかという頃、二階からピアノの音が聞こえてくる。


「この曲って……」

「昌司さんが弾いてる、今」


 染谷さんがピアノ。それも、相川さんが『ヤドリギの家』で弾いていたのと同じ曲だ。


「これは、何か……」

「別に意味があるわけじゃない。ただ、あの人は除霊前にいつもこれを弾く」


 スポーツ選手のルーティンみたいなものだろうか。でも、ただ決まった所作としてやっているとは思えない。相川さんの時以上に悲しげな、泣き出しそうな音だった。

『ヤドリギの家』の先生に曲名を聞いて調べたら、六十年代の、フランスのバンドの曲だとわかった。ネットで調べた歌詞の邦訳版を見ると、人生にある悲しいことと楽しいことを数えている。

 当時の社会問題や政情不安、友人の死、貧困に、普通の人生をドロップアウトしたことへのコンプレックス……悲しいことに比べ楽しいことはずっと少なくて、でも楽しい方を数える時は……ああ、ちょうど演奏がアップテンポに、軽快になってきた。

 うん……楽しそう、いやでも、未だにどこか悲しげでもあった。

 相川さんは特に表情も変えず、黙って聴いている。

 私は、この親子のことを何も知らない。染谷さんはどういう意図を持ってこの曲を弾いているのか。霊を消滅させることを彼はどう感じているのか。実の、でないとはいえ「親」である染谷さんを相川さんはどう思っているのか。

 人類滅亡を願う相川さんも施設の子には優しい。みんなを喜ばせるために私にカードを届ける役まで進んで請け負う。

 過去に何があって、どんな思いを抱えて生きているんだろう。

 あんなに惨めな誕生日だったのに、一日遅れのお祝いを見ていると頬が緩んでしまう。

 いいこと、これは間違いなくいいことだ。

 これから私は悲しくて残酷なことをするけど、生き延びられたらまたいいことをしよう。バイトに復帰して、出張から帰った母を出迎えて、結局手術後に行かないままだった海外旅行もいいかも知れない。

 その中に、きっと嫌がられるだろうけど、相川さんのことを知るのも加わった。

 

 八畳くらいの「本殿」がお祓いの場だった。

 禊を済ませ、白襦袢に着替えた私は染谷さん、相川さんとそちらへ移動する。引き戸を開けると、中の光景に小さく声を漏らしていた。

 一番奥にご神体だという大きな石が祀られ、種々の供物や御幣などが並んだ祭壇がある。多分それは普通なんだろう。ただ、その手前の板張りの空間が異常だった。

 腰の高さほどの杭が数本打ち込まれ、黒い注連縄が張られる……その内側には。

 床に突き刺さった、錆びついた日本刀。

 台座に固定されている、無数の針が刺さって針千本みたいになった手のミイラ。

 黒く塗りたくられた鏡らしきもの。

 天井の梁からは首吊り状態で手足のないマネキンがぶら下がっている。

 染谷さんは「どれも触れないように気をつけて」と言って、慎重に注連縄を跨ぎ祭壇の前へ歩み出る。


「あ、危ないもの……なんですねやっぱり」


「どれも曰く付きです……これらを無理言って借りるのに時間がかかりました」


「大丈夫、なんですか……?」


「大丈夫じゃないですね。祓いが済んだらどれもすぐ封印します。でも邪道っていうか外法っていうか、そういうのにも頼らなきゃ安心できる相手じゃなさそうで」


 染谷さんはごく軽い調子で話した。お祓いの代金は学生の身にはそれなりに痛い額だけど、染谷さんの労力とリスクには到底見合わないんじゃないか。


「あの――」

「早く入って」


 私の言葉を遮るように、相川さんに指示され、恐る恐る私も注連縄――近くで見ると大量の髪の毛を編んで縄にしているらしい――の内側へ。

 相川さんはその外、戸口のすぐ近くで見守る形になった。


「手に負えなそうなら途中でも私が止めさせる。今のところは、無理ということはない」


 祭壇のすぐ手前に染谷さん、私は領域の真ん中あたりに正座する。

 染谷さんはすぐ隣に自分のものだろう代わり雛――あちこちに小さな裂け目が入っている――を置き、私も同じようにした。


「よろしく……お願いします」


 二人を交互に見て頭を下げる。相川さんは何も言わず、染谷さんは小さく会釈して、祭壇へと向き直った。

 祭壇に一礼、そして。


「高天原に神留り坐す皇親神漏岐神漏美の命以て八百萬神等を神集へに集へ賜ひ神議りに議り賜ひて我が皇御孫命は豊葦原瑞穂國を」


 無音の室内に朗々とした声で唱える祝詞が響く。

 寒気に似た感覚があり、直後あからさまに異様なことが起きた。

 びゅうと、閉め切った室内に風が吹き始めたのだ。注連縄やマネキンが大きく揺れる。  

 相川さんを振り返ると、彼女は顎で前を見ろと私に指示する。どうやら慌てる事態ではないらしい。

 神様というものが存在しているのか、私にはわからない。染谷さんもそうだと言っていた。


『僕は神主で愛は霊が見えますが、「神」そのものを目にしたことも声を聞いたこともありません。どういった存在なのかももちろん何も。ただ儀式に臨む時、自分のものでない大きな力が働いて、霊や穢れの祓われるのを見てきました。どういう手順を踏めばその力を働かせられるか、それは心得てるつもりです』


 正直なところ代わり雛の異変を見ても、まだどこかリアリティを持てないでいた気がする。

 今ようやく染谷さんの語る力の働きを信じるというか、現実にあると認識していた。

 染谷さんがお願いしている神様に、私も精一杯、助けてくださいと念じる。 

 風は絶え間なく吹き続ける。始まってから一、二分経った頃、風の音の中で私の耳に甲高い声が聞こえた。


あぁみゃっあんっあっ


 ハナの笑い声。智也さんが死んだ時以来の。

 ぞわり、と鳥肌が立ち、あたりを見回すけど、姿は見えない。


「大丈夫」

「あ」

「抵抗しているわけじゃない」


 相川さんが静かに言った。彼女にも聞こえているらしい。

 たしかに、「反撃」に晒される恐れのあった染谷さんにも、周囲に並んだ呪物、代わり雛にも変化は見られない。

 共に響き渡る祝詞と赤ちゃんの笑い声。しかしほんの少しずつだけど、笑い声は小さくなり始めた。効いているってことなのか。


「種種の罪事は天津罪国津罪許許太久の罪出む此く出ば


 天津宮事以ちて天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」


あはぁあはぁあはんは


 笑い声は徐々に小さくなるけれど、どこにも苦しげな響きはなかった。

 あの時も、あの子は笑ったまま死んでいた。他の女性に移れるなら肉体的に死ぬのは何でもないことかもしれない。でも今は消滅の危機に晒されているというのに。

 まさか、喜んでいるの? 歓迎しているの、消滅を。これでいいの? 無に還ることがあなたの救いなの?

 大祓詞の奏上が終わると、次の祝詞へと移る。


「此れの所を厳の磐境と斎定めて招奉る掛けまくも畏き瀬織津姫神速開都姫神速佐須良姫神の御前に恐み恐みも白す」


あ…………ん……い……やひゃ


 いよいよ笑い声は消え入りそうなほどか細く、途切れ途切れになっていた。 

 もう、終わるんだな本当に。この子は消えるんだな。

 自然と涙が出てきていた。

 安堵と罪悪感、無力感……そんな思いでその時を待っていた。


「中尾由香里を殺め丸屋恵那に取り憑き自らを孕まさしめし荒魂を除き禍事を御祓い給……」


 祝詞が途切れる。詰まった?

 ……そう思った刹那。風がやんだ。

 そして。

 破裂音。

 刀が、手のミイラが、鏡が、マネキンが、染谷さんの代わり雛が、私たちを囲う黒い注連縄が、一斉に爆ぜた。


「っ……!」


 粉砕された呪物の破片、何百万本の髪の毛が宙を舞い、私たちに降り注ぐ。 

 さらに。


ああんぎゃああああああああああああああああっ


 笑って消滅を受け入れるかに見えたハナが、激しい泣き声を上げ始めたのだ。


「昌司さんっ!?」


 相川さんが名を呼ぶと、祭壇へ向かっていた染谷さんは座ったまま両脇に手をついてこちらに体の向きを入れ替える。

 その顔を目にして私と相川さん、どちらも引きつった声が漏れていた。

 表情は真剣そのもの。きっと祭壇に向かっていた時と変わらない。

 血。

 口からは泡立った血が大量に溢れている。

 顎、首を伝って襟元を汚し、袴や足下へも滴る。

 なのに染谷さんは苦しんでいる様子など全くなかった、私たちに向かって座り直した彼は手にしていた大麻をその場に捨てると。


ぱんっ ぱんっ


 綺麗な所作で手を叩き、私に向かって合掌。


「昌司さん……やめ、やめてっ!!」


 散乱する無数の髪の毛を踏み越えて、境界の消えた領域へ相川さんは踏み込んでくる。

 染谷さんに駆け寄って肩を揺するけど、しかしその体は全く揺れない。ただ座っているだけの体に相川さんがどれだけ力をこめても、その場を微動だにしないまま私に向かって深々と頭を下げた。


 何、何……これ…………?


 相川さんが私に、いや私に憑いているハナを見る。

 わからない。だけど確実に、これじゃ、染谷さん……。


「やめてっ! 染谷さんを助けて!」


んああああああああああああああああんぎゃあああああああああ


 私の懇願を、ハナは一切聞き入れずに泣き続けた。

 私には何も起こらない。眼の前に置いた私の代わり雛も無事なまま。また乾いた手の音が響く。

 合掌、拝む。

 明らかに致死量の血を吐き、体が死に向かっていく中、目の前の彼はフラワーロックみたいに動きを繰り返し、そして。

 急にその体から「力」が消えた。

 染谷さんの体は血溜まりの中に倒れ込み、相川さんが揺さぶるとぴちゃぴちゃと音を立てた。

 相川さんが耳元に顔を近づけ、名前を呼ぶ。


「昌司さん……昌司さん…………昌司さん、昌司さん、昌司さん昌司さん昌司さんっ!!」


 心臓マッサージをしても何も反応はなかった。

 救急車を呼び、サイレンが近づいてくる頃……もう完全に死体になってしまった染谷さんにすがりつく、相川さんの嗚咽が響いていた。



 豊島区内の警察署で事情聴取を終え、解放されたのは午後九時近い時間だった。


『染やん、あんたが…………』


 染谷さんの死を知って項垂れる、初老の刑事さんの姿が印象的だった。染谷さんには昔助けられたことがあり、彼の稼業のことも知っていたらしかった。

 お祓いをしてもらっている最中にああなった、という到底信じてもらえないだろう私の話を彼は信じてくれて、だから家族の相川さんはともかく、私は割とすんなり解放された。

 ただそれは、それだけだ。


「なんで…………なんで…………」


 警察署を出てすぐの通りをふらふら歩く。

 妊娠を知ったあの日もこんなだった。でも今は、あの時ほど混乱してはいない。明確に、すぐそこに終りがある。


「なんで殺したのっ!?」


 夜の路上で人目もはばからず叫ぶ。周囲の視線が私に向くけど、今はどうでもよかった。 

 染谷さんが死んだ。取り憑かれたのは私なのに、本来無関係な人なのに。

 わかっている。彼が殺されたのは祓おうとしたからだろう。

 ハナには消滅するつもりなんかなかったんだ。私を殺して、新たな女性を殺して、殺して殺して殺し続ける。凶悪で、強力な霊だとわかっていたけど、その度合が想像を絶していた。

 相川さんの泣き声が頭の中で響く。救急車が来るまでも、病院、警察へ行く間も、彼女はずっと泣いていた。

 染谷さんは指輪をつけてお祓いに臨んでいた。吐いた血で銀色の指輪が真っ赤になって……、奥さんのことを思うとさらに苦しくなる。

 私がお祓いをお願いしたばっかりに殺されたんだ。

 もう死は免れない。白血病の時は助かる可能性があった、昨日攻撃された時も一瞬の出来事だった。

 確実な死の期限を告げられるというのはこんなにも。


「お母さぁん」


 全身がガタガタと震える。ごめんなさい染谷さん。あなたを死なせたのに死ぬのが怖いです私。

 でも、もう、できることはせめて一人で死ぬことくらい。誰も新たに取り憑かれないよう、死ぬ場に居合わせないように、どこか、絶対に人が来ない、死体も見つからない場所を確保して死ぬしかない。

 目の前の三車線道路を、車が猛スピードで行き来する。決意なんて強固なものは全くなくて、ほうっておくと、ふらりと道路に飛び出しそうになる。

 余命宣告を受けて自殺する人がいるらしい。死を待つのが恐ろしすぎて、自分で命を絶ってしまう。

 がくつく腿を強く掴む。ダメだ。今は死んじゃダメだ。

 視線を上げる。

 満面の笑みの赤ちゃんが通り過ぎる。

 べったりと血に濡れて、車の窓ガラスに張り付いたまま。


「は?」


 目の前を通過したワゴン車は数十メートル先の交差点へ一切減速せずに突入し、ちょうど右折しようとしていた軽トラックに衝突する。

 トラックは横倒しになり、ワゴンは脇のガードレールに突っ込んでようやく停まる。

 事故現場へ走って駆けつけた。トラックを運転していた男性は軽傷だったけど、ワゴンの方は女性が運転席で死んでいた。

 シートベルトはしっかり締め、頭部もエアバッグが保護している。ただ下半身から大量の出血があり、助手席には女性が産んだと思われる赤ちゃんの死体があった。

 男の子で、満面の笑みを浮かべていた。


  ワゴン車の女性、海老名志保さんをはじめその日から翌朝にかけて、東京千葉埼玉で十一人、妊婦が怪死した。

 全員が子宮から産道にかけて鋭利な刃物で斬ったような傷があったという。

 ニュースアプリでそれを確認し、冷や汗が頬を伝う。

『上野国百物語』の記述を思い出した。


『数多の孕み女に取り憑きてほとを掻き切り母と児をもろともに殺せり』


 殺してはまた取り憑きを繰り返したのだとなんとなく思っていた。でも考えてみれば、数ヶ月おきに一人、なら「数多の」というには少なくないか。


えひっひあっはっあっあ


 私の子が恐ろしく楽しそうに笑った。







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