第9話

「『バカ親』って清美さんに言ったの、あれ何だったの?」


 私が相川さんにこう尋ねたのは約二週間前、染谷さん宅での話し合いを終えた直後だ。

 染谷さんが相川さんに私を送っていったらと提案した。さっきの今なら電車は怖いのでは、と。相川さんは黙って頷き、私を見た。

 私は少し戸惑ったけど電車が怖いのは事実で、厚意に甘えることにする。二人で家出ると、家の脇のスペースにバイクが停めてあった。多分、相川さんが施設に乗ってきたやつ。


「相川さんのなの?」

「私が乗ってもいいことになってる。持ち主は今いない」染谷さんの奥さんだろうか。

「……それより」


 私にヘルメットを渡しながら、彼女は私の目をじっと見て言った。


「何かあるなら言えばいい」


 自分の心中を見抜かれたことに私はドキリとする。

 たしかに言いたいことがあった。ただずいぶん前のことになるし、今や命の恩人の彼女に蒸し返すのもなんだか……もやもやしていたのはたしかで、それが態度に出ていたんだろうか。

 それで私は、少し迷った末に意を決してあの時の罵倒の真意を彼女に尋ねた。


「私が知らない事情があるなら謝るけど」

「事情? ……子供を作ったこと」

「え……?」

「子供を作ったから、私は中尾由香里の母親をバカだって言った。中尾由香里も中尾智也も変わらない、進んで子供を作る人間は皆バカで愚かで汚らわしい」

「……ごめん、どういうこと」


 私にはわけがわからなかった。子供を作るのがバカって。それも「皆」……?

 相川さんはヘルメットをバイクのハンドルに掛け、私は胸に抱えたままで彼女の答えを待つ。


「中尾由香里が一人目を流産した後、夫や実家の親はあの女を励ますつもりで言ったらしい。『赤ちゃんが死んだのは悲しいけど、休んだらまたがんばってみないか』とか『由香里が悪いんじゃない。流産を経験しても元気な赤ちゃんを産む人だってたくさんいる』とか……反吐が出る。

 邪坊に取り憑かれてなかろうと、また死なせない保証がどこにあるの。三十七歳なんて高齢出産で、習慣流産の体質かも知れないのに。中尾由香里だけじゃない、誰のどんな出産だって死なせるリスクはあるのに」

「……それは」


 故人に毒を吐く相川さんに対して、その時の私は不快感や反感よりも、腑に落ちる思いを抱いていた。

 お寺で見つけた由香里さんの「たくさんの子供をお授けください」が何故怖かったのか。

 リスクはどうあっても捨てきれなくて、それで実際に子供を死なせているのにまた無邪気に望んでしまうのは、少し抵抗がある、それはわかる。

 だけど、相川さんは言いすぎじゃないか。


「しかたないよ、相川さん。リスクが少しでもあっちゃいけないって言ったら子供なんか作れないし、なんだって……」

「しかたない? 死ぬのは自分じゃないのにしかたないの? 子供は死んでもいいの?」

「っ、いいわけないでしょっ! みんな不安だけど、子供を幸せにしたいんだよ」

「じゃあそもそも作らなきゃいい。作ってない子供は幸せにする必要も不幸になる余地もない。存在してないんだから」

「……」

「生まれてくるのも生きていくのも死ぬのも、当事者は子供。作るのは親。『産んでくれなんて頼んでない』のに。子作りは他人の人生を勝手に始めること」

「他人って」

「他人でしょ子供は。子供は親の分身とでも言いたいの?」


 特別声を荒げているわけでもないけど、強い言葉でまくしたててくる。

 親は子供があくまで他人であることを弁えなければいけないとよく言われる。親が子供を自分と同一視すると子供が思い通りにならないことに憤慨したり自分の理想を押し付けたりしがちになると。

 私もそれはそうなんだろうと思う。

 でも、じゃあ、子供をあくまで他者として尊重するなら、育て方の良し悪し以前にそもそも「勝手に作る」のが不当……そう言いたいの?

「でも作らなきゃ、日本、っていうか、人類が」


「滅びればいい」


 彼女は断言した。


「人類が続けば続くだけ、生きなくても、死ななくてもよかった命が生まれてくる。子供を作るのをやめて今生きている人間だけで終われば、もうそれ以上はない」


「本気なの……?」


 本気とは思えない主張だけど、本気のようだった。

 こんなの、交通事故を無くすために自動車を廃止しろと言うようなものじゃないか。理屈が通ってるか以前に、何でそんなにもマイナス面だけを見ているんだ。


「『無限の可能性』だとかさもいいことみたいに言う。悪い可能性には目をつぶって。自分たちの幸せに酔っ払って、子供なんかそのアクセサリーとしか思ってないくせに、悪い可能性にあたったら被害者面をする。子どもを責める。加害者のくせに。……だから『バカ親』、みんな」


 中学生の頃、イジメに遭っていた。

 術後、感染症への不安から学校でも極度に潔癖な生活をしていたこととか、よく学校に来る母だとか、先生たちからの腫れ物扱いとか、そういうのが気に障ったようだった。髪が抜けたのもバカにされた。

 でもそこで浴びせられた言葉より、その時の相川さんの言葉は私の根底を抉るものだった。自分がお母さんになりたいと思ったことも、母のことも。


「お母さんはそんなんじゃないっ!」


 私はヘルメットを突き返すと神社を飛び出した。


 バスから地元ローカル線、東武伊勢崎線と乗り継いで北千住へ着くまで四時間以上電車に揺られていた。土曜だったのもあって親子連れも同じ車両に何組か乗り合わせていった。

 シートに靴のままあがってお母さんに降ろされた男の子、妹に意地悪をしてお父さんに叱られていたお兄ちゃん。

 親の叱り方は普通だった。多少苛立った感じはあっても言葉で諭そうとしていて、体罰とか、大声で怒鳴りつけるとかはない。

 だけど、家でもそうなのかはわからない。彼らの服の下に痣や擦り傷、火傷の痕がないとは言い切れない。私は見たことがある。


 河野さんが言ったように、現代は医療技術も福祉制度もハナの時代とは比べようもなく進歩した。日本の乳児死亡率は世界一低い。

 それでも、今なお妊娠の十五パーセントは流産に終わり、一パーセントは死産、全国で年間一万五千もの中絶が行われ、百人前後の子供の虐待死が報告されている。

 生まれる前も生まれてからも、親に特に落ち度がなくても、誰でもあり得るようなごくごく軽い過失でも、死ぬ子は死ぬ。

 途中から車外はすっかり夜で、電車は首都圏の夜景の中を、時に見下ろし時に間を縫って走ってゆく。

 ビルの立ち並ぶオフィス街、工場地帯に飲食店街、住宅地……都市の黒いシルエットを無数の光が彩る……見る分には綺麗だ。

 だけどその明かりの下の一つ一つの暮らしは、たしかに決して幸せとは限らないんだろう。

 子育てを一人で押し付けられ、ストレスで心身をすり減らし子供を憎んでしまう親。

 支配的な愛情で子供の将来を狭め、周囲の社会から切り離す親。

 認知症や寝たきりになって子供の生活を振り回し、我が子に恨まれる親。  

 車窓を流れてゆく何万何十万の灯の中には確実にそういうケースがある。


 北千住へ着いてから自宅マンションに向かう道中、前を通った家、すれ違う人々、同じマンションに暮らしている数十の家庭……壁一枚隔てた隣が虐待の現場でも何もおかしくない。

 知ってはいた。悲しいけどしかたないと思っていた。

 相川さんやハナみたいな発想をしたことは一度もなかった。

 だから相川さんの主張に私は反発して……でも心の奥底でずっと渦巻いていた。


 私のお腹にいる子が同じ呪いを抱えていたと知った今、見えない、考えないふりをしているわけにはいかなくなった。

 到底救いきれない、そしてこれからも生まれてくる。人間が子供を作る限り。

 ハナが人を殺していることを正当化はできない。


 でもその叫びには、どう答えればいいの。答えないまま子供を作るの。しかたないの? 割り切るの? 自分はそうじゃなかったから? 自分がそうだったとしても、全体では幸せな人の方が多いんだからって納得すべきなの? 

 これから生まれてくる子が取り返しのつかない不幸に陥る可能性を誰も払拭できないのに。

 そんな思いを抱えたまま私はドアを開け、出迎えてくれた母に、どうにか平常通り接しようとして、でもすぐに見抜かれてしまった。


 どうしたの、何があったの、と何度も聞かれ、私はずいぶん迷った。中学でいじめられた時、担任の先生を通じて伝わるまで母に言い出せなかったのを思い出す。あの時の母の顔はきっと一生忘れられない。


 胃の痛みを感じながら母に聞く。


「『産んでくれなんて頼んでない』って私が言ってたら、お母さんどうしてた?」





「へえ……」


 東京へ帰った翌日の午後、場所は大塚駅近くのビルに入っている喫茶店。

 向かい合う相川さんは、私の話に興味深げな反応を示す。笑ったとか露骨に嬉しそうとかじゃないけど、感情が何かしらプラスに振れた風な彼女を見るのは初めてだった。

 瀟洒なテーブルの上には河野さんのもとでスキャンさせてもらった日記のプリントや、私と由香里さんの子が同一人物と示すDNA鑑定書、これまでの調査の記録を書き留めたメモ帳などが並ぶ。

 他に客のいないこの店は聞かれたくない話をするのに好都合だった。私が夢に見た内容と過去に起きたこととの一致、祠の縁起、邪坊との関係。そして、自分に憑いている霊は生前霊能力者だったらしく、子を作ることを呪って死んだこと、一度は絶えた出生が彼女を祠に祀ってからは復活した、ということを語って聞かせる。

 どのくだりが彼女の気を惹いたのかは考えるまでもなかった。


「そのまま絶えていればよかったのに、村と言わず人間皆」


 もしそうなったら私達はここにいない。ハナの恨みは完全に晴れていただろうし、私が殺されかけることももちろんない。生きているから死にたくない。生きているからこその問題が、目の前にある。


「それで、どうするの?」


 さっきの感情の余韻もとうに消え去って、温度のない声で彼女は尋ねた。声と同質の視線がテーブルの上、資料の脇に佇む紙人形に向けられている。

 代わり雛――すでに切れ目は全体の半分ほどにまで達し、つまり私の命の期限はもう折返しに来ているということだ。このままだとあと半月ほどで私は死ぬ。


「昌司さんの方の祓いの準備は整った。あなた次第で明日にでも祓える」  


 だから彼女がもたらしたその情報は、本来喜ぶべきことなのだ。ハナの魂は消滅し、私は死なずに済む。これ以上の犠牲者は出ない。だけど。


「相川さん、躊躇わないの、その……」


 この子はあなたと同じ呪いを抱えているだろうに。情を感じないのか。

 我ながらすごく卑怯なことを聞いた気がする。彼女は小さく舌打ちした。


「私は『この子のため』なんて言わないけど、何が何でも存在し続ける方がいいなんて思わない。自分が死んだらその時は魂ごと無に帰ってしまえばいいと思ってる」


「死後」が見える人間だというのに、だからこそなのか、彼女はそこに何の希望も持っていないようだった。その冷めた語り口を聞いていると、自分までここで助かろうといずれ死ぬ、救いも何もないと思わされそうだった。


「私のことはどうでもいい。このままじゃ殺されるのはあなた。あなたはどうするの?」


 チョコレートドリンクを一口啜ると、彼女は改めて私に逃れられない問いを突きつける。


「その霊の恨みは決して晴れないし、万一仮に晴れたとして、あなたから離れたとして、そんなの別に救いでも何でもない。ただ今は消滅するのは免れる。それだけ」


 結局お前は手を汚すのが怖いだけだ。この子を消滅させることで自分の価値観が汚れたように感じるのが怖いだけだ。そう言われた気がした。

 そしてそれはある程度的を射ている。私があの時この子を消させないと決めたのは、相川さんへの反発だって少なからずあったと思う。

 相川さんに問われて、答えるまで一、二分を要した。


「私ね、『生きていればいいことある』って言われて育ったんだ。お母さんに」

「……」


 相川さんが苛立たしげに眉間に皺を寄せるのがわかった。うん、ごめん、相川さん。


「そんなことなかったって人いっぱいいるよね。許せないよね、そんな無責任なこと言うの。見えちゃうもんね相川さんには……。そういう人が『産んでくれなんて頼んでない』『産まれてくるんじゃなかった』って言ってたら、それは、どうしようもないと思う。だから……お母さんに聞いてみたんだけど」


 産んでくれなんて頼んでないって私が言ったら――問われた母は唖然とした様子だった。

 よく思春期の子が親に言う、とされる言葉だ。私も聞いたことはある。だけどその言葉を真面目に考えたことはなかったし、口にするとは思っていなかった。

 黙り込んだ母を見て胸が苦しくなる。謝りたくなってくる。

 今度は「何があったの?」とは聞かれなかった。二、三分黙り込んだ後で母は答えた。


「謝る」

「謝るの?」

「だって、頼まれてないもの本当に。『産んでいい?』なんて聞けないし。生きるってすごくつらくて、不幸なことがいっぱいあるのに。わかってるのに。それは……ごめんなさい」


 私に頭を下げる。謝られた。私が謝らせた。やめてよと叫びたくなる。

 ウチの子がそんなことを言ったら引っ叩くとか、親の苦労を知らないからそんなことが言えるとか――ネットで目にした嫌な答えとはちがったけど、でも私はショックだった。

 私は謝らなきゃいけないようなことをして産まれてきたの、じゃあ相川さんが正しいの、と。 

 だけど母は顔をあげて、続く言葉を口にした。


「それでね……謝って、がんばるしかないと思うの、親は」

「がんばるって、何を?」

「そりゃ親をよ。『産んでくれなんて頼んでないけど、でも産まれてきてよかったな』って子供が思えるように」

「……」

「だから、産んじゃったことはもうどうにもできないけど、がんばる。それだけ」


 母の答えはそれだけだった。私がどう思っているか聞かなかった。

 私がその答えに納得してしてしまったのは、母ががんばってきたことを知っているからだろう。産まれてきてよかったと何の疑問もなく思ってきたからだろう。


「……で? それが今何なの?」


 目の前の相川さんがもっともな問いを返す。

 現に不幸になってしまった人たちには、多分全然届かない。神経を逆撫でされるだけだ、きっと。

 私は相川さんの問いに直接は答えなかった。

 一旦目をつむって、息を大きく吸って吐く。三回繰り返すと視線を下げ、両手を自分のお腹に当て、私は言葉を発した。


「あなたも、また生きてみない?」


 相川さんにじゃない、独り言でもない、ハナへ向けた言葉だ。届いているのか、彼女が言葉を理解できているのかも定かじゃないけど、これだけが彼女の運命を変えられる可能性だった。


「理不尽なことがないなんてとても言えないけど、それでもあなたが生きていた時代より、今はずっと弱い者が守られる世界だから。幅広く個性を尊重してくれる時代だから。絶対よくはなってるから」


 不幸がない世界なんてあり得なくても、人間は不幸を減らそうとしてきた。がんばってきた。少しでもいいことの多い世界になるようにと。

 かつては原因不明だった乳幼児突然死症候群は解明されつつあるし、虐待の件数は近年で大幅に減っている。

 あなたたちが忌み嫌う営みの結果でも、この世界で「産まれてきてよかった」って思える人の割合は、あなたが生きた時代より絶対多いはずだ。


「どれだけ進歩しても不幸はゼロにならないし、私がそういう人たちみんなを救えるわけでもないよ……だけど自分に子供ができたら、その子は守ってみせるから……信じて、欲しいの」


 私は産んでくれなんて頼まれてない。でも、産むことを許してもらえるなら。あなたが産まれてきてよかったって思えるように私は尽くすから。

 お腹に当てた手が、じっとりと汗で濡れている。


「私に……あなたを産ませて欲しい。私はあなたのお母さんになって、あなたを幸せに――」


 白い腕が、両肩からそれぞれ伸びていた。

 私はお腹に手を当てているのに、もう二本、生白い、骨っぽい手が。窓からの光に産毛が輝く。

 その先には短刀が握られている。

 こちらを向いた短刀の刃がぎらりと閃いて。


 腕に力がこもって。


「あ」


 私の陰部に、突き刺さった。


「あああああああああああああああああああああああっ!!」


 痛い!!

 裂け、切れ、痛い、熱い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――――――!!

 視界がぐるって……テーブルに頭、椅子ごと倒れ、ダメ、由香里さん。

 私、死、嫌、死んじゃう、死、助けて。


「お母っひゃ、あっ…………ひゅっ…………ふっ、あ…………?」


 気づくと床で、腿に手を挟んで芋虫みたいに転がっていた。

 手は二本。刀も刺さってはいない。

 ぴしゃぴしゃと水音がする。股から温かいものが流れ出る。血? 濡れた手を見ると赤くはない。

 眼の前ではひっくり返ったテーブル、散乱する書類にカップの破片、コーヒーと水、尿。

 失禁が止まって、どこかぼんやりした心地で体を起こした。

 生きている実感さえまだ湧かず、ただ涙で滲んだ目の前に、代わり雛が突きつけられた。  

 裂け目はこの一瞬で大きく広がっていた。斜めに両断される、その三分の一を残すくらいまで。

 突きつけたのはもちろん相川さん。侮蔑しきった目で私を見下ろしている。


「それで、どうするの?」


 

 マンションに帰ったのは午後七時過ぎだった。

 コインランドリーで洗濯乾燥をした服に着替え、母の前で平静を装えるよう、家の前で練習してからドアを開けた。

 母は何も言わず、無言で玄関に立っていた。その顔を見るなり涙が溢れる。母は私が泣き止むまでずっと抱きしめて、小さい頃みたいに髪を撫でてくれた。

 ダイニングテーブルにはごちそうが並んでいた。シーザーサラダ、カナッペに鴨のコンフィ、パエリア、ベルギービールのグーデン・カルロス、冷蔵庫にはケーキが入っているのだろう。今日は私の、二十一歳の誕生日だから。

 どんなに惨めなことがあっても、悲しくても、白血病を告知されて怯えていた時も、誕生日だけは、母だけは自分を赦してくれると思った。あなたが生まれてきたことが、生きていてくれることがうれしい。そういうこの上ない肯定を与えてくれるもののはずだった。

 それは今も同じはずなのに、並んだご馳走はどれも味が上滑りしていくようで。ごめんなさい、と母に謝っていた。


「いいの……えっちゃん生きてるから。生きてれば、いいことは必ずあるから」


 全く通用しなかったその言葉を母は改めて私に説くと「ハッピーバースデー」と囁いた。


 翌朝七時半、玄関先で出かける母を見送る。この日から名古屋に出張だった。期間は二週間。母と長期間離れるなんて退院以来初めてだ。

 私の部屋の棚の二段目。ディズニーランドで買ったクッキーの空き缶には、臙脂色のお守り袋がしまってある。中身はへその緒のお守りだ。

 手術の後も高校、大学受験の時と大事な日はいつも一緒だったけど普段はなくすのが怖いから持ち歩かない。

 母は出かける直前、それを「お母さんだと思って」と言って首にかけてくれた。

 母が知る由もないけど、この後手術と同じ、私の命がかかった戦いが待っている。

 実際の霊験があるのかはともかく、代わり雛と一緒にこれも身に着けて臨べば少しは心強いか――いや。


「ごめん、またね……」


 母を見送ると、首から外してクッキー缶に戻した。

 今から私が臨むことに、これを連れて行きたくはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る