第37話
七月四日、ほたるが消えてしまうまで、あと二日。
バイトを終えて帰宅する道で、町の夏祭りを知らせるポスターに目を留める。辰野町では毎年、夏の始まりを告げるお祭りが神社で開かれるんだ。
屋台が出て、花火が上がって、祭囃子が流れる。今年もそんな季節がやって来たのか。
『七月十九日、伊那市夏祭り。十七時から』
こういうポスターを見ると、夏が来るって感じがするな。
家に着くとほたるは静かに寝ていた。まあ寝ているのはいつものことなんだけど、どうも様子が違う。きちんと布団を掛けてベッドに横たわっている。
「ただいま」
と言っても返事はない。ぐっすり眠っているにしても寝相がいいし、いつもみたいにパンツが見える格好じゃない。
ベッドの傍らでほたるを覗き込むと、白く透き通った顔からゆっくりと碧い瞳が開かれた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「ごめん和馬、ゲームのやりすぎで疲れちゃったみたい」
ほたるはか細い声でそう言った。疲れたにしては顔色が良くない。額に手を当てると、ひんやりとした感触が伝わってくる。熱は、ないか。
「何か食べるか?」
「大丈夫、もう少し寝かせて」
「ああ、俺が無理させちゃったのが悪いからな。今日はゆっくり寝てろよ」
「……うん」
言って、ほたるは再び目を閉じた。熱はないし、どこか痛いわけでもないらしい。
俺はそっと音を立てないように立ち上がると、キッチンへ行き冷蔵庫を開ける。何か食べるものを作るためだ。俺にはこのくらいしかできないからな。
こんな時は消化にいいものがいい。
「消化にいいものか、なんだろう。食べやすいものがいいか」
食べやすい、食べやすい……といえば、野菜を煮込んだスープか。これなら時間が経ってからでも食べられるな。
俺は姉ちゃんが持ってきた差し入れの野菜を煮込み、これまた差し入れの鶏がらスープの素で味付けする。それをじっくり煮込めば、食感の優しい野菜スープの完成だ。
リビングを覗くと、ほたるは静かに眠っていた。食べ物の匂いで目を覚まさないってことは、よっぽどかもしれない。
ソファに腰を下ろすと、うっすらと寝息を立てるほたるの横顔が見える。
「なあ、ほたるはどうしてゲームから出て来ちゃったんだ?」
その横顔に問いかけるも、返事は返ってこない。よく眠っているようだ。
「俺がエンディングに辿り着いたからって言ってたけど、あれはゲームなんだから誰でも辿り着けるじゃないか」
それなのに、どうして俺なんだよ。他の誰でもなく、どうして俺の前に出て来たんだよ。
「俺の他にも、現実にほたると過ごしたやつがいるのか?」
いるわけないよな。そんなことがあったら、どこかでニュースになってる。
「ほたるは、俺の前だけに出て来たのか?」
それも、たったの十四日間だけしか一緒にいられない。それが過ぎたら、もう二度と会えないのか?
ベッドの上には、布団から顔を出した静かな寝顔がある。ほたるは今ここにいる。あと二日、あと二日だけは他の誰のでもない、俺だけのヒロインがここいいる。でも、
「お前がいなくなったら、俺はどうしたらいいんだよ」
「……和馬」
ほたるは目を閉じたまま、苺のような愛らしい唇を小さく開いた。
「どうしたの? そんな悲しそうな顔をして」
目を瞑ったまま、唇だけでそう言った。
「そうか、ごめんな和馬。あたしがこんなだから、もう時間がないんだよな」
「いいんだよ。ほたるが元気になってくれないと、元気なほたるに勝たないと意味がないから」
「うん」
ほたるは眠っているのだろうか。目を開くことはないし、まるで寝言のように呟いている。
「ねえ、和馬」
それからゆっくりと唇を動かして、ほたるは言った。
「チューして」
「え? な……お……い……ええっ!?」
とまどう俺に、ほたるはもう一度。
「チュー、してよ」
「い、いや……そ、それはゲームで勝ってから……っていうか、今はそのために勝負してるんじゃないし」
「いいの。あたしは、してほしいの」
突然チューしてくれって、どうしたんだよ。そんな……だって俺はそのために勝負を繰り返してたんじゃないぞ。
まじまじとほたる見ると、苺のように愛らしい唇が目に入る。小さくて、柔らかそうで、艶があって、今にも吸い込まれそうな唇がそこにある。
俺はベッドに両手をついて、ほたるに近づいた。目を閉じたままのほたるから、微かな息遣いが聞こえる。引き込まれるように顔を近づけていき、肌のぬくもりが感じられる寸前、
「やっぱりやめておく」
俺は顔を上げた。
「どうして?」
と聞こえた気がした。
ほたるは眠っているのか、その唇から発せられた声ではなかった。
「まだ明日がある。明日になって、ほたるが元気になって、最後の勝負で勝てたら――」
「してくれるの?」
と聞こえた気がした。
「ああ」
俺はソファにゴロリと横になり、ほたるもそれきり何も言わなかった。
夜になってもほたるは起きなかった。このまま寝かせておこう、と声は掛けずに、
『スープを作ってあるから、起きたら温めて食べなよ』
書き置きを残し、俺はバイトへ向かった。
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