第35話

 七月三日。ほたるが消えてしまうまで、あと三日。


 バイトを終えて帰宅する途中で、


「セーンパイ!」


 と近寄って来たのは千夏だった。白いブラウスに短いスカートは高校の夏服で、ちょうど学校に向かう時間に俺の帰宅時間が重なるこのタイミングで出会うのは、いわゆる「ご都合主義」ってやつだ。


「お、おう。スイートパフェ杯の決勝、惜しかったな。たしか『firefly』の次、三位だったか」


 俺は自分からその話題を切り出した。千夏とは「わたしが勝ったらデートしてください」って約束をしてたからな。


「センパイには勝てませんでした。だからデートもお預けです」


「お預けって……いいよ、俺は。お前のことだってよく知らないんだし」


「そんな……センパイはわたしのこと、嫌いですか?」


「嫌いとか、そういうんじゃない。だいたいどうして俺なんだよ、千夏とは高校でもほとんど喋ったことなかったじゃないか」


「そうかもしれませんけど……センパイは、憶えてないんですか?」


「何を」


「センパイ、学校帰りにいつもゲームセンターでマリヲカートやってましたよね」


「ああ、そうだったな」


 高校時代は、学校帰りにしょっちゅうゲーセンに寄ってたからな。あの時はマリヲカートと鉄剣ばっかりで、まあ高校生でエロゲってのもあれだからな。


「その時いつも向かい側で対戦してたの、わたしです」


「対戦してた? 俺と?」


 それはつい半年前までの記憶だ。そういえば、あの頃やたらと『ユッケ』が挑戦してきてたな。アカウント名は見てなかったけど、まさかあれって、


「わたし、高校に入るまでゲームなんてほとんどやったことなかったんです。友達と一緒にゲームセンターに行ったときも、やり方がわからなくてずっと見てるだけでした。その時に見かけたのがセンパイです」


 俺はずっとマリヲカートをやり込んでたから、あの時もゲーセンで敵なしだった。コンピューター対戦でも、通信対戦でも、誰にも負けたことがない頃だった。


「それからは、センパイがゲームしてるのをいつも見てました。上手いなあって、楽しそうだなって、わたしもセンパイみたいになりたいなって」


 そんな俺に、弱いくせに毎回挑んできてたのが千夏だったのか。


「気付いたらわたし、センパイのこと好きになってました」


 千夏は視線を横に逸らした。恥ずかしそうに、でも嬉しそうに。


「でも春になったら――」


 そう。俺は高校を卒業してから、ゲーセンにはほとんど行かなくなった。バイトと家の往復で、マリヲカートよりもエロゲに夢中になりだした頃だ。


「だから通信対戦でセンパイのアカウントを見つけて、わたしも頑張って200㏄クラスまで上がって、センパイと同じ舞台で対戦ができて、すごく楽しかったんです」


 と、千夏はふいに肩を落とす。


「でもわたしは、ゲームをしているセンパイしか見たことがない。センパイの中身を見たことがない。好きな人のことを何も知らないんです」


 だからスイートパフェ杯で勝ったらデートしてくれ、だったのか。


「センパイはさすがに強かったです。ゲームセンターで見ていた頃も、今でもまだわたしの前を走ってて、追いつけませんでした」


 口には微笑みを浮かべたまま、悲しそうに目を閉じた。追いかけて、追いかけて、あと少しで届きそうだと手を伸ばしたけれど、触れることすらできなかった――千夏はそう呟いた。


「なあ、次のイベントレース、また出場して来いよ」


「え?」


「秋から始まる秋桜杯コスモスカップで、また勝負しようぜ」


「わたしが勝ったら、デートしてくれます?」


「でも俺、ゲーセンくらいしか行くところないぞ?」


「それでもいいです」


「わかった。じゃあ俺からひとつアドバイスだ」


 俺は人差し指を立てて、それを千夏に向ける。指先に目線を合わせた千夏はキョトンと目を見開いた。


「千夏が使ってるキャラ『ユッケ』は、コーナーでのブレが大きい。重量系だから仕方ないんだけど、コーナリングで膨らみ過ぎるからどうしてもそこで差が開く。それが『ユッケ』の大きな弱点だ。だから他のキャラで練習した方がいいと思うぞ」


「へえ、そうなんですね」


 知らなかったのか。それでも技術だけで大会三位になっちまうんだから、千夏はセンスがあるのかもしれないな。


「でもいいんですか? わたしにそんなアドバイスをしてくれて」


「おお。俺はそう簡単には負けないからな、このくらいはハンデだ」


「それじゃあ、もうひとつ教えてほしいことがあるんですけど」


「いいぞ。俺の方がラップタイム三秒も上回ってるからな、キャラ変更で一秒、もうひとつで一秒縮めても、まだ俺の方が早い」


「あはは、自信満々ですね。わたし、センパイのそういうところも好きです」


 ちょいとこの後輩、恥ずかし気もなくそんなことを言うなよ。照れるなんてレベルじゃないぞ。それに俺が自信満々なのはゲームの話だけだからな。


「センパイの携帯教えてください」


「はい!?」


「番号と、ついでにLINEのIDも」


「そ、それはアドバイスとは違うのでは?」


「もうひとつ教えてくれるって言いましたよ、センパイ」


 ぐぅ……こいつは俺の負けか? ゲームで最強の俺も、女の子の話術には勝てないということか?


 俺は仕方なく携帯を取り出し、自分の番号とIDを千夏に見せる。嬉しそうに数字と文字の羅列を登録した千夏は、大事そうに携帯をしまうと、


「じゃ、わたしは学校に行きます。あとでわたしの番号とLINEも送りますね」


「ああ、学校遅れるなよ」


「それから……せっかくセンパイにアドバイスしてもらいましたけど、わたしのキャラ、『ユッケ』は変えません」


「どうして?」


「センパイのキャラ、『ビビンパ』ですよね。ボスキャラのビビンパ」


「ああ、俺が一番使いやすいキャラだからな」


「だからわたしは『ユッケ』がいいんです」


 だからどうして。


「だって『ユッケ』は、『ビビンパの恋人キャラ』ですから」


 千夏は上目でニコリと微笑むと、くるりと背を向けて走っていった。俺はしばらくその場から動けなかった。

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