第32話
一睡もせずに仕事へ行く俺は、目玉がひっくり返りそうなくらい白目を剥いていると思う。う~ん、今にも意識が落ちそうだ。
バイト先に向かういつもの道が、マリヲカートのコースに見えてくる。俺はカートに乗っている。
おっと、ここでコーナーだ、ハンドルを右に。
これは俗にいう「ランナーズハイ」だろうか。
違うな。眠くて頭がおかしくなってるんだ。
コックコートに着替えてタイムカードを押して、洗い場に。お皿を一枚洗ってからふと思い出すと、着替えた記憶がもう飛んでいた。
「和馬くん、すごい顔」
洗い場の向こうから覗いてきた光莉先輩に呼ばれて、俺は油の切れたロボットのように振り向いた。
「あはは、まったく寝てないです」
「またゲーム?」
「ええ、まあ」
「その……一緒に住んでる彼女さん……と?」
言われて俺は、一瞬我に返る。
「いや、アイツは彼女じゃないですよ。一緒に住んではいますけど、それもあと数日で終わりです」
眠気で歯止めの効かない口が、そんなことを言ってしまった。光莉先輩はほんの少しだけ目を見開いてから、俺の方に顔を寄せてきた。
「それって、別れちゃうってこと?」
「何ていうか、もう二度と会えなくなるんだと思います」
「……??」
「でもその前に、どうしてもアイツにゲームで勝たないといけないんです」
「なんだかよくわからないけど、和馬くんがゲームで勝てない人なんているんだねぇ」
「俺、初めてなんですよ。こんなにゲームが強い相手に出会ったのは。だから寝てる暇もないんです」
言いながら、洗った皿を洗浄機のラックに並べていく。
「やっぱり和馬くんは、ゲームが強い女の人に憧れるんだね」
「アイツは特別ですよ。だからアイツが消えてしまうまで……あと四日の間に、必ずゲームで勝つと決めたんです」
光莉先輩には意味が通じないかもしれない。一緒に住んでる女の子がいなくなる前にゲームで勝たないと――なんて、
「すいません。わけがわからないですよね」
不思議そうな顔をした光莉先輩は、それでも俺の話をなんとか咀嚼してくれたように、
「わかった。私は和馬くんを応援してるよ」
楚々とした笑顔でそう言ってくれた。
「でも、仕事も頑張らないとダメだよ?」
「大丈夫です。気合で乗り切りますから見ててください」
「よ~し、じゃあ私も頑張ろうっと」
「光莉先輩はいつも頑張ってるじゃないですか」
「ううん。仕事と……他のこともね」
「他のことですか?」
俺の問いかけに光莉先輩はくるっと背を向けて、
「あと四日……それが過ぎたら、私にもチャンスあるのかなぁ」
ほとんど聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「?」
「何でもないよ。さあて、モップ掛けとゴミ捨て行ってくるね」
パタパタと駆け出した光莉先輩の横顔は、少しだけ頬が染まっていたような気がした。
俺は休憩時間に食事も摂らずに爆睡する。一日くらいは食べなくても平気だが、二日も寝てないと死にそうだ。
途中でキッチンの中がマリヲカートの世界に見えてきたのはさすがに笑えたからな。
マッシュルームはアイテムの『パワフルキノコ』に見えるし、バナナを見たら避けたくなるし、通路の曲がり角では自然とドリフトしてる自分がいる。
さらによく見ると、いかつい顔でフライパンを振る冨澤さんは悪キャラのワリヲに見えるし、今日はいつも以上にニコニコしてる光莉先輩はヒロインのピーテ姫だな。
俺の脳ミソは完全にマリヲカートと同化してた。
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