015 理系女子の出生
明確な原因は不明だが、人間は産まれて数年後までの記憶を保持することが難しい。しかし
稲穂の場合は、おそらく、その当時が印象
(…………)
産まれたばかりの稲穂が見ていたのは、古びたタイルに囲まれた部屋だった。
しかし、赤ん坊である稲穂には、何もできなかった。徐々に弱っていく自分に恐怖し、
だが
周りには誰も居ない。先程まで誰かがいたかもしれないが、音を立ててから消えてしまった。
このまま死んでしまうのか?
死ということの意味すら理解しないまま、意識を閉ざそうとした時、また、同じ音が産まれたばかりでも機能している聴覚に響いてきた。
「――、―――……」
意識が
「……あれ、生きてる?」
それが、稲穂の物心がついて、最初の一言だった。
「……まじでそう言ったの?」
「さすがに覚えてないわよ。ただ、少なくとも……突然そんなことを言い出したのは本当みたい」
初夏に差し掛かったとはいえ、今日は微妙に肌寒かった。ソファーベッドを背もたれにして、マグカップ片手にコーヒーを
「……なんか言うことある?」
「う~ん…………特になし」
何かあるか、と問いかけてくる稲穂に、そう答えた蒼葉。
蒼葉自身も驚くほど、特に言うことが思い浮かばなかったのだ。
「それを知る前から、金子とは付き合いがあったからな。先に知っていれば同情の一つはしたかもしれないけど……周囲と
「そう……ならいいけど」
微妙に
「まあ、
「どっちでもいいわよ。『私が捨てられた日』ってだけだし」
「ストレートに言うなよ。本当さばさばしているなお前」
「余計なお世話よ。いまさら
口は、
「いや、
「てめぇとうとう口にしやがったな!?」
~しばらくお待ちください~
「……コーヒー飲み干してて良かった」
「あんたがっ、よけいなっ、ことをっ、言うっ、からっ、でしょうがっ!」
空のマグカップが転がっているにも関わらず、床の上にうつぶせのまま、背中を踏みつけられている蒼葉は抵抗することなくじっとしている。少しでも動けば、稲穂の怒りを買いかねないからだ。
「というか、過去の古傷よりも
「いまさら過去なんて変えられないでしょうが。気にするだけ『
「ならいいけど……」
足を降ろしてもらえた蒼葉は起き上がり、転がっているマグカップを拾い上げた。
「……言われて嫌なこととかは、事前に教えてくれ。人間何がNGかってのは、本人にしか分からないからな」
「話ぶり返さなければ……ああ、そうだ」
二人は台所の前に移動し、流し台で洗い物をする蒼葉の隣で、稲穂は食器を
「あんたの通いつけの診療所あるでしょ?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「その隣の公園、NGだから」
食器を片付けると、時間はすでに、夜の9時を超えていた。
稲穂は荷物を持つと、そのまま玄関へと向かっていく。
「NG?」
「私は覚えていないし、親父から聞いたわけじゃないんだけどね……見送りでわざわざ、出てこなくてもいいわよ?」
「ついでがあってな。このままちょっと出掛けてくるわ」
二人
夜の静けさの中、会話を邪魔する他者は存在しない。
「多分あの公園なのよ……私が捨てられたのは」
「分かるのか?」
「……身体は覚えている、と思うから」
「そうか……」
蒼葉はそれ以上、余計なことは聞かないことにした。
「じゃあ、また明日な。もうすぐ終業式だし、夏休みに入ったら映画でも見に行こうぜ。今朝船本から買ったんだし、せっかくだからさ」
「気が向いたらね……じゃあ、また」
稲穂が部屋の中に入り、扉に鍵を掛ける音を聞いてから、蒼葉はアップルフォンを取り出しつつ、エレベーターへと向かった。
「さて……ん?」
ボタンを押し、エレベーターが来るまで待っていると、アップルフォンから着信音が鳴った。
電話ではなくメッセージが表示されている。内容は短文の為、画面のロックを解除することなく確認することができた。
『今日はご
「……それなりには、は余計だよ」
ロックを解除しつつ、到着したエレベーターに乗り込みながら、適当に『どういたしまして』と返事を送る。しかし蒼葉の手からは、アップルフォンが
「ああ、くそ……」
蒼葉が見ているのは、ある人物のプロフィール欄。
アドレス交換の際、登録してある個人情報も確認する機会があった。その時はただ、偶然だと思っていた。
しかし、もう一つの偶然が重なった以上、それはもはや必然だろう。おまけにダメ出しとばかりに、偶然がもう一つ。ろくに考えられない人間なら、もうそれで結論を出してしまっても、なんらおかしくなかった。
「ったく……普通、そんな偶然なんてあんのかよ?」
本人の前ではどうにか隠し通せたが、それもギリギリだった。
演劇部に在籍しているとはいえ、蒼葉の立ち位置は
「まさか……こんなことになるなんて、な」
コンビニに着いた蒼葉だが、店内には入らず、そのまま店舗の壁にもたれかかっている。再びアップルフォンを取り出し、電話を掛け始めた。
「……あ、親父? 酒入ってないよな……金子さん、って分かるか? 親父のことを『先輩』と呼んでいる金融会社社長の……そうそう。その人と話がっ! いや違うから! 『娘さん
変な勘違いをされる前に、どうにか折り返しで穂積から電話をもらえるように取り計らって貰うことに成功し、蒼葉は内心安堵した。本当に違うから、と否定してから電話を切り、待つこと数分。
待ち人からの電話が来た。
『……蒼葉君?』
「夜分にすみません、金子さん。今、大丈夫ですか?」
『……娘が欲しいなら、直接挨拶に来るべきじゃ』
「だから違いますってっ!? ……いや彼女が駄目とかじゃなくて、別件で話があるんですよっ!」
大声を出して目立ってしまったのを感じ取り、蒼葉は人目を避けるようにしてコンビニの店舗の影に隠れた。
「いや、関係なくはないんですけど、今回のこれは男女の仲とは別件ですから……そこだけは理解して下さい。お願いします」
『まあ、今はそれでいいけど……話というのは?』
「……前置きとして、俺も彼女も、まだまだ
一呼吸置いてから、蒼葉はゆっくりと話し始めた。
「だから間違った判断をする可能性もある。そもそも、この推測自体間違っているかもしれない。だから、だから……大人であるあなたに確認して欲しいんです」
『確認して欲しい、か……』
社会人からすれば、こんな前置きなんて邪魔でしかないだろう。しかし、そう話さなければならなかった。蒼葉なりに考えて、話そうとしていることは、それだけ大きな案件なのだから。
『……先輩に聞いていた通りだね、君は。…………分かった、話を聞こう。続けて』
その慎重さを理解してくれたのか、穂積は話を聞くと言ってくれた。相手の気遣いに内心で感謝しつつ、蒼葉は話を続けた。
「……彼女から、出生のことを聞きました」
電話越しに、何かがぶつかる音がした。しかし、電話が切れた様子もない。おそらくはまだ耳を
「…………彼女の母親に、心当たりがあります」
話はちゃんと聞いていたらしい。
電話越しに聞こえた音が先程よりも大きく、蒼葉の耳に響いてきた。
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