弁当箱
上坂 涼
弁当箱
妻の美紀恵が作る料理はいつも旨かった。私が毎朝、会社に出勤する度に美紀恵はかかさず弁当を持たしてくれるのだが、弁当になっても料理の味が落ちる事はなかった。
しかしここ最近、美紀恵の様子がおかしい。時々、どこか焦点の合わない目をしていたり、薄ら笑いを浮かべていたり。突然、声を上げたかと思えば、頭を両手で押さえ、怯えたりしている。
美紀恵の様子は日に日に悪化した。最初の頃は壁に頭を幾度と無くぶつけて血まみれになっていたり、ネズミをたくさん買ってきて家に放す程度だったが、今となっては寝室の真ん中で両手を広げてクルクル回るようになり、顔も失神して泡を吹いているかのように白目を向かせている。
妻は廃人のようになってしまった。
ああ。もう、妻の旨い料理は食べらきゅろきゅごぼお。……最近の記憶がおかしい。途切れ途切れなのだ。気づいたら会社にいるし、気づいたら家にいる。昼も夕方も分からない。私も妻同様、どうかしてしまったのだろうか? 妻がおかしくなってしまった為のストレスだと信じたい。ああ。妻の料理が恋しいひいいい。
ここ最近、目が私を見ている。誰の目なのかは分からない。ただただ、二つの血走った眼球が私を見ているのだ。全てはこの二階建ての家に引っ越してからだった。私はこの家での生活には最初から反対だった。私と夫の正文、そして不動産の社員の三人で、この家を下見した時、感じたのだ。
ただならぬ悪寒を。
この家に住んではいけないと直感的に感じた。しかし、それを夫に伝えても、気のせいだという一点張り。私の話をまともに聞く気が無い。私はついに諦めて不満を言うのをやめた。
冷静になって考えてみると、もしかしたら夫の言う通り、気のせいかもしれないと思い始めた。新しく始まる生活に神経が少し過敏になっているだけなのだと。
だが、私の予感は見事に的中していたのだ。今も、キッチンで息子の為に昼御飯を料理している私の目の前で、充血した二つの赤い目が私を見つめている。二つの目のせいで、にんじんが見えない。にんじんを支える左手は既に血まみれになっていた。
ああ。右手に握ったこの万能包丁で切り刻んでやりたい。私は何度も何度も何度も何度も強く包丁を振り下ろす。左手はさらに赤く染まった。恐怖とは別の冷たい感情が私の心を支配し始めているのを感じた。
今日も見ている。私を見ている。
朝、目を覚ますと部屋の隅っこから見ている。階段を降りるときは左手にある壁から見ている。
トイレに入る時も、出る時も。
風呂場でも、料理しているときでも。
そして、寝る時も。
月明かりの射さない寝室で無限にも思える深淵の暗闇の中、赤く充血した目が私を感情の無い視線で見つめてくる。私は恐ろしくてベッドに体を向きかえてうつ伏せの体勢で寝ようとする。すると、私の右耳に触れるくらいに至近距離から見つめてくるのだ。
住み始めて一週間経った。もう限界だ。いや、もうとっくに限界は超えている。翌日、正文に相談しよう。そうでないと私は本当におかしくなってしまうだろう。
翌日の日曜日。
ダイニングの隅っこにある冷蔵庫の上あたりから感じる二つの赤い眼球の視線を避けて、リビングで昼番組を見ている正文に話があると声を掛けた。私の呼びかけに応じ、正文はダイニングにある机に座る。それに続けて私も正文の向かいにある椅子に座った。正文も挙動不審になってしまっている最近の私が気になっていたようだ。何も文句は言わず、素直に机に座ってくれた。
「引っ越しましょう」
私は単刀直入に言った。一秒でも早く引っ越したかった。正文は私の目を真っ直ぐ真剣に見つめてきた。正文がこういう仕草をするときは、私の意見に同意している表れだ。やはり正文もこの家の異常を感じ取っていたのだろう。正文が口を開いて答える。
「ああ。俺もそう思っるときゅろきゅれ」
え?
「どうした美紀恵。何か話があるんだろう?」
「え、だから、たった今言ったじゃないの」
おかしい。正文の様子がおかしい。正文は突然、半分白目を向いたかと思うと口の中で舌を乱雑に掻き回しながら、訳の分からない言葉を発した。
「え? 聞いてないぞ? 今座ったばかりじゃないか」
「な、にを言ってるの……?」
正文の記憶が飛んでいる? ……私はもう一度、引っ越したい旨を伝えてみた。
「だから引っ越したいのよ。分かるでしょ? この家がおかしいこと」
「ああ。俺もそう思っるときゅろきゅれ」
「……」
まただ。先ほどと同じく、正文は白目を向きながら口の中を舌で乱雑に掻き回した。
「どうした美紀恵。何か話があるんだろう?」
「いや……やっぱりなんでもないの。純を迎えに行ってくる」
「え? いや、まだ午後になったばかりじゃないか。 幼稚園が終わるまで、三時間以上あるんだぞ?」
「いいの。買い物もついでにしてきちゃうから」
「それなら良いが」
「うん。じゃあ行ってくる」
玄関で外履きを履く。
……ついに夫もおかしくなってしまった。もう私の支えは息子の純だけ。
純と一緒に実家に帰ろう。
純をこんな変な場所に置いておけない。そして霊媒師でも呼んで、正文に憑りついているであろう“なにか”を除霊してもらうのだ。
大丈夫。まだなんとかなる。
「ちょっと待て美紀恵」
正文が私を呼び止める。
「何?」
「俺に何か話があったんきゅれきゅる」
舌を掻き回しながら白目を向く夫の背後にいる二つの赤い目を見て、私は純を連れて実家に帰る事をさらに強く誓った。
さきほどから目の無くなった頭が空中に浮かびながら私に付いてくる。
「ママ。痛いよ。どこに行くの? 早いよママ」
「いいから。おばあちゃんの家に行くの」
買い物には行かず、私は幼稚園に向かった。事情を正直に話して、純を引き取る。そしてそのまま駅へと向かった。
帰るのだ、すぐさま実家へ。
相変わらず頭は私の背後にぴったりとくっついてくる。その姿は二つの赤い目など非にならないほどに、とても恐ろしいものだった。血液でぺったりくっついた前髪。肩にかかるくらいの長さの後ろ髪からは血液が滴っている。
そして何よりも恐ろしいのが、目がくり抜かれているということだ。黒い黒い二つの穴は私を吸い込む様に見つめ、二つの穴からは血液がだらだらと垂れていた。
「着くまで三時間くらいかかるから、寝てなさい」
私たちは切符を購入して、電車に乗り込んだ。頭の姿はいつの間にか消えていた。
「お父さんはぁ?」
「いいから寝てなさい!」
私は純の頭を掴み、力強く私の膝の上に押し付けてしまった。
「痛い……痛いよ」
私の行為に傷ついた純は、そのまま私の膝に顔をうずめて、声を殺して泣いてしまった。
「……」
……私は何をしているのだろう。無理やり連れてこられた純は何も悪くないのに。私は……。
あれから二時間が経った。純は泣き疲れたのか、私の膝に顔をうずめたまま眠っている。
私も少し眠っておこうか。どのみち私の実家は終点の駅なのだ。眠っても寝過ごすことは無い。……なんだかとても疲れた。電車の中は他の乗客もいるせいか、とても安心する。定期的なリズムで電車がたてる音が心地いい。
「次は終点。次は終点」
「……ん」
私は目をこする。どうやらいつの間にか眠っていたようだ。純を起こそう。
「純、起きて。着いたよ」
未だに私の膝に顔をうずめて眠っている純の体を揺する。
「ままあああ。 ぐるしいいい」
純は突然、むくりと体を起こして、その顔を私に向けた。
「ままぁ!」
純は、死んでいた。あの頭と同じ顔をしていたのだ。目があったはずの二つの黒い穴から血液がだらだらと垂れる。やけに青白い顔がその様子を強調していた。
私の意識は、そこで途切れた。
美紀恵が純を殺してきた。夜遅く帰ってきたかと思えば、背中におんぶしていた純を玄関前の廊下にゴミのように放り投げた。純は頭だけ水でぐっしょりと濡れていた。そしてほのかにコケの臭いがした。この狂った状況を受けいれられるはずはなかったが、私はむりやり自分を奮い立たせると、激昂して妻へと声を荒げた。
「お前……お前……自分が何をしたのか分かっているのか!」
「……」
先ほどから床を見つめていた美紀恵は、私の声に反応したのか、ゆっくりと私に顔を向けた。
「おい、お前、目は、目はどうしたんだ……?」
美紀恵の顏には目が無かった。二つの黒い黒い穴が空いているだけだった。私が美紀恵を外に行くのを止められていたら、こんな事にはなっていなかったのかもしれない。
いつも寝室でくるくる回っているだけの美紀恵が、まともに喋れなくなっていた美紀恵が、話があるのだとまともに喋って声をかけてきた時に、私は美紀恵の何らかのメッセージに気付くべきだったのだ。すぐにでも私は美紀恵と向き合わなければいけなかった。
……いや。しかしなぜ、今の今まで向き合うことが出来なかったのだろうか? おかしい。何かがおかしい。とにかく、すぐにでも向き合わなければいけない。そう思った。
「美紀恵、お前いったい、最近どうしきゅるきょろろ」
……美紀恵は疲れているのか、うつむいたまま、二階に上がっていった。きっと新しい生活に疲れてしまっているのだろう。二人の間に子供でもいれば、少しは美紀恵の生活は華やかなものになるのかもしれない。私も子供が嫌いなわけではない、むしろ好きな方だ。今日にでも美紀恵に相談してみよう。やはり最初は男の子が欲しいな。
美紀恵には昔から目が無い。それでも良いと私はプロポーズをしたのだ。それから色々な事があった。今は居候として首から下を無くしたアタマさんと、そして目以外全てを無くしたメダマさんがいる。毎日がとても充実していて幸せだ。
「きゅるきょれきょれきょれ」
私は傍らの美紀恵に話しかける。美紀恵は口の両端を釣り上げて笑い、首をかしげる。大きな黒い二つの穴がとても可愛らしい。しかし、美紀恵は料理を作れなくなってしまった。私は毎日、公園にある会社で働いているのだが、昼休みに弁当を開けると中身はいつも空っぽ。ああ。妻の料理が恋しい。
もうすぐ昼休みが終わる。私は二階オフィスに向かうためブランコから立ち上がり、滑り台の階段を上った。
弁当箱 上坂 涼 @ryo_kamisaka
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