それからのこと(下)

 東の空がようやく明るんできた中、弥二郎やじろうは早る気持ちを抑えることなく、海岸への道を急いでいた。久方ぶりのアンリからの手紙を早く読みたいと。

 アンリが島へ帰り、気候が落ち着いたことで人々には少し余裕ができた。その余裕の中、朝廷では再び気候が荒れた場合に備えることが決まった。例え、再び荒れることがあっても、同じ被害を出さないために。その一環で、朝廷の命を受け、弥二郎は各地の川の氾濫の被害を調査する旅に出た。もちろん、調査を行うのは弥二郎一人ではなく、国を一周するわけでもなかったが、それでもかなりの期間、アンリとのやり取りはできないでいた。ようやく旅が終わり、結果をまとめて報告し、次の冬からはその報告を元に治水工事が始まるのだと、アンリへ手紙を送ったのが、半月前、満月の晩だ。そして、今朝はその返事が届いているはずなのだ。

 舟が流れ着く海岸へ、岩場を降りようとして、弥二郎は海岸に人影を認めた。里の者が舟を回収に来るのは、もっと日が昇ってからのはずだ。けれども、人影はそこにある。里の者にアンリの手紙が見つかってしまったのだろうか。幸い、人影は弥二郎に気付いてはいないようだった。弥二郎は選択を迫られる。手紙が見つかってしまったものは仕方がない、弥二郎まで見つからないように早急にこの場を後にするべきか。それとも、誰がいるのか、どのような状況になっているのか、きちんと確認すべきか。弥二郎は、後者を選択した。この海岸は、砂浜の見通しが良い海岸ではない。ゴツゴツとした岩が、斜面にあふれている海岸だ。少し遠くから、人影の背後に回るように、岩の陰に隠れつつ、降りて、気付かれぬよう近付く。多少の音は、打ち寄せる波がかき消してくれる。

 海岸の人物が、里の者だったなら、舟を持って岩場を登っていきそうなものだが、どうにもその人物は動かない。けれども、アンリからの手紙を見つけて、その場で読んでいるのならば、動かないのにも納得できる。人影を判別できるほど近付いたが、背後から近付いたため、顔はわからない。わかったのは、女性だということ、手紙を読んでいるふうではなく、岩場の上の方を見ていることだけだった。その女性の頭が少し上を向き、太陽を確認する。そして、弥二郎の方を振り返った。あっと思ったときには遅く、目が合う。

「アンリ!」

 弥二郎は思わず、声に出していた。岩場に足を取られながら、アンリの元へ急ぐ。アンリも弥二郎を認め、舟を一つ拾い上げると、足下に気をつけながら、弥二郎の方へと向かう。二人は落ち合うと、積もる話はあれども、岩場の上を目指した。

「ひとまず、里の人たちが来る前にここを離れよう。少し先に、隠れ家があるから、そこに。それと、その舟は僕が持つよ」

「そうですね。お話は後でゆっくり」

 アンリが弥二郎に手渡した舟には、包みが一つ載っていた。

 海岸から少し離れれば、二人に会話する余裕ができた。

「アンリは、どうしてあそこに?」

「あの場で待っていれば、きっと弥二郎様に出会えると」

「僕は人影を見つけたときに、里の人に見つかってしまったのかと、思ったよ」

 海岸へ降りてみようか、その場を去ろうか迷ったことを伝えると、アンリも弥二郎が来ない可能性を考えていたという。日が昇り、そろそろ諦めて去ろうかとして、弥二郎を見つけたのだ。去ろうとした方角が反対側だったら、二人は出会えていなかったかもしれない。

 隠れ家に到着し、一人分の朝食を二人で分けた。アンリは、それは弥二郎のだからと断ったが、弥二郎も譲らなかった。

「それで、アンリはどうしてこっちに?」

「島へ帰ったときの舟がありましたから、それで。舟はちゃんと離れたところに隠していますよ」

「いや、方法じゃなくて」

「わかっています」

 二人は、顔を見合わせて、笑い合った。一頻ひとしきり笑って、アンリが表情を戻す。つられて、弥二郎も笑うのをやめた。

「弥二郎様が、お手紙をくださったでしょう。人々の生活も少し余裕が出てきたと。ですから、私も少し試してみたいと思っていた事を、やってみることにしたんです」

 アンリが試してみたかった事、それは、アンリがどのくらい島を離れていても平気なのかを確認することだ。島に戻ったときのように、すぐに変化が現れるのか。それとも、いくらかの猶予があるのか。まずは、新月から満月の半月はんつき、そのくらいならば余裕が出てきた今なら乗り越えられるだろうと。

「それに」

 そこでアンリは一旦、言葉を切った。弥二郎が続きを促すように訊ねる。

「それに?」

 アンリは頬笑ほほえむと、舟に乗せていた包みを手に取り、弥二郎に差し出した。

「これを、直接弥二郎様にお渡ししたくて。いつかお約束しましたでしょう。お着物を仕立てますと」

 アンリが差し出した包みを、弥二郎は受け取ると、開けてもいいかと確認した。アンリは優しくうなずく。包みから出てきたのは、若竹色の直垂ひたたれだった。

「ありがとう。僕はまだ何も約束を果たせていないのに……」

 弥二郎の言葉に、アンリは首を横に振った。

「弥二郎様も、できることをしてくださっているではありませんか。調査の旅もその一環だったのですよね」

 アンリの言葉にうなずきつつも、それでもと思う。被害の調査だけに一体何年かかった、天候が荒れても乗り越えられるようになるには、あと何年かかるのかと。


 月日は流れ、次の安里あんりが島へと送られた。治水工事が進み、大雨や嵐による氾濫への備えは進んできていた。アンリがこっそり島を出ることにより度々引き起こされる、大雨や嵐、旱魃かんばつは、人々に対策が必要なことを意思付けていた。その結果、対策の工事や、飢饉ききんに備え保管できる作物を保管するというようなことは進んでいた。しかしながら、長雨や旱魃かんばつに耐えられる作物となると、まだ難しかった。飢饉の年を続けるわけにはいかず、アンリがすっかり島を離れてしまうことは、叶っていない。

 安里が送られた次の新月の翌朝、舟が返ってくる海岸に二つの人影があった。アンリと弥二郎だ。そして、アンリの胸には、赤ん坊が抱かれていた。

「本当にいいのか?」

 弥二郎の言葉に、アンリは赤ん坊の頭を撫でつつ、うなずいた。

「平穏のために、こんな赤子を海へ流す人たちなんだぞ。君が現れれば、このところの天候の原因がわかるだろう。そして、彼らはきっと君を責める」

 弥二郎はぐっと拳を握りしめた。アンリが里の者の前に姿を現さなくても、安里を還す方法はある。手紙をつけて、舟に乗せて送り還せばいい。安里を親の元に還さないという方法だってある。アンリは赤ん坊に視線をやったまま、弥二郎に答えを返す。

「そうね。でも、里の人たちはずっと天候を穏やかにするために、毎月捧げ物を送ってくれていた。私はずっと、その気持ちを裏切ってきたの。やっぱり、ちゃんとお話しないと。それに、いくら言葉で言おうとも、里の人たちは私をどうこうすることはできないのだから、大丈夫。私を島に帰さなければ、もっと天候は荒れてしまう。この子だけを帰したって、赤ん坊だけじゃ生きていけないもの」

 アンリの言うことは正しい。胸の内でどのように思おうとも、里の者はアンリに危害を加えることはできない。

「それにね」

 アンリはそこで言葉を句切ると、弥二郎の目をしっかりと見た。

「私が弥二郎様と一緒にいたいと思うように、この子の家族だって、この子と一緒にいたいはず。私は、おばちゃんに島を出る選択肢をもらって、お父様に島から連れ出してもらった。だから、弥二郎様とも出会えた。今度は、私の番。この子も島の外の世界を、教えてあげなくちゃ」

 アンリの瞳に映った決意は、もはや揺らがない。弥二郎がすべきことは、アンリを引き留めることではない。アンリが堂々と島から出られるようにすることだ。

「わかった。島と里のことは君に任せる。僕はいない方がいいだろう、もう行くよ」

 また後で、そう言って弥二郎は立ち去った。

 弥二郎が姿を消してしばらく後、岩場の上に複数の人影が現れた。舟を回収に来た里の人達だ。アンリの姿を認め、何やら言葉を交わしている。アンリから、岩場を登り近付く。朝日がまぶしい。

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