第3話 どちらが楽か

「おかえりなさい、シモンさん」警備員の一人が言った。最近ここに配属された新人だ。始めて会ったときに名前を教えてもらっていたが、思い出せなかった。


「ただいま」


「お疲れのようですね」


「ええ、今日は特に歩いたわ」


「そうなんですか。いいですよね、外を自由に歩けるって。僕なんかまだ、部隊長や仲間がいないといけないんですから、シモンさんが羨ましいですよ」


「研究者特権を乱用しているだけですけどね」シモンは微笑んで見せた。


「それ、セドルさんが聞いたらきっと怒りますよ」


「ええ、だから今のは秘密にしておいてください」


「もちろんです」


「そういえば、もう一人は? 休憩時間なの?」


「いえ、相方はセドルさんに呼ばれたんですよ。なんか会議があるとかで、結構な人が会議室にいるはずです。まあ、僕みたいな新米は呼ばれないわけですけど」


「それってここを任せられるってことじゃない。凄いことよ」


「いい考えですね、それ。うん、そう思うと、やる気が出てきました! ありがとうございます!」


「それじゃあ、頑張ってね」


「はい!」彼は敬礼をした。


 自室に戻り、ベッドに向かいながら、防寒布やチョークバッグを脱ぎ捨てていく。そして身軽になってベッドに倒れ込んだ。呼吸のたびに、身体が上下に動くのがわかる。それが鬱陶しく、しばらく呼吸を止めてみた。自分が倒れた人形であることをイメージする。生きているとか、飾ってあるとかではなく、ただそこにあるだけの存在。そうすると、徐々に外からの音が消えていく。


 しばらくすれば、眠りにつけるはずだ。疲れたときはいつもこうしていた。無駄なことを考えず、無駄な音を聞かず、ただひたすらに眠りの底に落ちていく。眠ろうとするのでもないのが難しいところだった。その微妙な差異を言語にして説明することは困難で、だからこそこの方法を誰かに話したことはなかった。


 話そうと思ったのは、この方法を見つけたときだけだ。それはまだシモンが研究者を目指している時期でもなく、ただ研究者を見ていることが、唯一の楽しみだった時期だ。興味を持ち始めたのは、あの頃だ。


 何年前のことだったかは憶えていない。自分の目線は低く、いつも誰かを見上げていた記憶はあった。重いものも持てず、難しいことを考えるとすぐに頭が痛くなった。そんな誰にでもある幼少時代。


 彼らにはあったのだろうか。


 身体をうまく動かせず、


 能力を把握しておらず、


 初めての経験に喜んだ、


 そんな時期が彼らにはあったのだろうか。


 メルマキナはただの機械人形だと思っていたが、しかしそれはセルウィと呼ばれる種類だけで、エクスピアたちのような明確な意思を持つ個体は、まるで人間のようだった。誰かを思い、手を差し伸べることができ、意思の疎通も可能だ。


 だからこそ、安心してしまったのだ。彼が傍にいることが心強かったのは、メルマキナである彼のことを、人間として認識しようとしていた自分がいたからだろう。語り継がれてきた彼らのイメージとはかけ離れていたから、そんな齟齬が生まれたのだ。


 そう、目の前であの能力を見たとしても、とても彼らが人類を滅ぼそうとしていた存在だとは考えられない。彼らの仲間の一部が戦争に参加したことで、全員が参加したと伝わってしまったのかもしれない。そもそも人間が語っているのは、あくまで「意思のあるメルマキナ」という言葉だけだ。実際にどんな姿だったかも明確には知られていない。


 エクスピアは自分が参加したと言っただろうか。ただ人間とメルマキナが争ったと言っただけじゃなかったか。思い出せない。


「――結局、自分の身の安全を気にしているだけなのよね……」シモンは目を覚まして、開口一番にそう呟いた。俯せだった身体は仰向けに変わっており、意識がぼんやりとしていたことから、きちんと睡眠をとれたことがわかった。


 身体を起こし、部屋の惨状を目の当たりにする。脱ぎ散らかした衣服から、帰宅後すぐにベッドに倒れ込んだことを思い出した。しかし今さら片付けるのも面倒だったため、衣服を踏みながらキッチンへ向かった。


 カップに水道水を注ぎ、一口飲む。身体に水が浸透していく心地よい感覚があった。こうして水道水を飲めるのも、エリアRだからだろう。地底湖が見つからなければ、誰もこんな枯渇し、荒れ狂った大地に居住しようとは思わなかったはずだ。施設が地下にあるとはいえ、まともに水が確保できないようでは生活なんてできない。


 こんな場所が今の世界に何ヶ所残っているのか……。だからこそ、失うわけにはいかないのだ。失ってしまえば、ここの住人が路頭に迷うことになる。まだ小さな子供もいる。次の場所が見つかるまで歩き続けるのは不可能だ。下手をすれば切り捨てなければならない。残酷なようだが、しかし多くが生きるためにはそうするしかないだろう。


 人間が当たり前のように笑顔でいられる世界は、もうなくなってしまった。


 過去の人間が間違ってしまったために、現在の人間が苦しんでいる。


 誰かを責めることもできない。


 空になったカップを置き、脱ぎ散らかした服を拾っていく。洗濯をする機械は別の回想にある。個人で使用するよりも、大勢の衣服をまとめて洗濯した方が節約になるのだ。そのために洗濯の担当をする人間もいる。女性の多くはそういう役職についていた。


 衣服を袋にまとめ、着替えを済ませてから部屋を出る。子供たちがもう眠っている時間のため、施設内は静寂が支配していた。エレベーターに近づくにつれ、動力音が微弱だが聞こえてきた。


 エレベーターに乗り込み、パネルを操作して階下に向かった。


 洗濯室のある階層につくと、目の前に男が一人いた。見覚えのあるような顔だったが、しかし名前を思い出すことはできなかった。もしかしたら憶える気はなかったのかもしれないし、そもそも知らないのかもしれない。


 軽くお辞儀をして、横を通り過ぎようとしたが、後ろから声をかけられた。


「なんでしょうか」シモンは振り返った。


「いや、ちょっとお話しでもしようかなって思ってさ」


「はあ……」


「きみってさ、あれだろ、研究者なんだろ? どうしてそんな道に進んだんだい? 女の子だと珍しいよね、そういうの」男の視線が上下した。


「そうですね、あまり同性の研究者に会ったことはありません」


「周りは異性ばかりなんだ」


「……別にそういうわけでもありませんよ。特に私は一人での行動が多いですし、むしろ一人でないとダメかもしれません」


「でも、人肌恋しくなったりするでしょ?」


「あまり」


「肩とか凝ってない?」


「問題ないです」


「もしかして、俺のこと嫌い?」


「それ以前の問題ですね」


「ま、これからか。うん、ここに住んでいる限りどこかで会うでしょ。そしたらまた話しようね」


「そうですね」


 男は肩を竦めた。それから踵を返し、片手を挙げてエレベーターに乗り込んだ。


 シモンはエレベーターが起動して男の姿が見えなくなるまで、その様子を眺めていた。男のことが気になったわけではない。ただ見覚えのない住人を憶えておこうと思っただけだった。


 エレベーターが視界から消え、振り返ろうとしたとき、また声をかけられた。女の声だ。今日はやけに名前を呼ばれる日である。


「シモンちゃん、大丈夫?」ふくよかな体型をした女が心配そうに訊いた。彼女の名前はきちんと憶えていた。


「どういう意味ですか、ルイスさん」


「今、男とすれ違ったりしなかったかい?」


「え? ああ、しましたけど……それが?」


「あの男、女の子にちょっかいばかり出すのよ。若い子を見かけたら、場所がどこであろうと見境なしなんだから」


「仕方ないと思いますよ。こんな時代ですし」


「だからといって、受け入れていいわけじゃないよ。そうでしょう?」


「おっしゃるとおりです」シモンは頷いた。


「シモンちゃんは若いわりにしっかりしているけど、だからこそ心配なのよね。なんていうか押しに弱そうだし、今みたいな考え方しているし」


「大丈夫ですよ。いくら見境のない彼でも、私に魅力なんてありませんから、今後近寄ってくることはないと思います」


「なに言ってんの!」ルイスは仁王立ちになった。「あんたは充分魅力的な女の子だよ。出るところは出ているし、顔立ちも悪くない。私が太鼓判を押してあげるよ」


「はあ……」


 自分の身体が魅力的であると思ったことはなかった。華奢な体格のまま男になりたいと思ったことは何度もあった。どうしても入念な探索をしていると邪魔になるのが、彼女の言う「出るところ」である。


「この際だから言っておくけれど、私はシモンちゃんが傷をつけて帰ってくるのが見ていられないんだよ。研究者だから、みんなのためだからというのは充分に理解してる。でもね、だからこそ心配なんだ」


 ルイスの説教は一時間ほど経っても終わらなかった。シモンは彼女が「そうだろ?」と訊いてくる度に「はあ……」と曖昧な返事をするか、「そうですね」と心ない同意を示すだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る