第1章

第1話 居住区エリアR

 その日、シモンは就寝前に思っていたよりもあっさりと目を覚ますことができ、不思議と気怠さや疲労感はなかった。それはまるで昨夜のことが現実ではなく、今まで見ていた夢のように思えるほどに。夢の出来事だったからこそ疲労が残っていない。けれど、あれだけの夢を見れば寝汗をかき、あっさりと目を覚ますなんてことはできないだろう。つまりは、やはり昨夜のことは現実なのだ。


 犬型のメルマキナに襲われたことも、


 人型のメルマキナに救われたことも、


 すべてが現実。


 あのとき彼らがたまたまあの場面に遭遇しなければ、今のシモンはない。それこそ囮として使用した防寒具のようになっていたはずだ。


 顔を洗い、上着を羽織る。冷蔵庫に保存しておいた鍋に入ったスープを温め、軽い朝食をとった。美味しいかどうかはともかく、栄養が摂取できたことには違いない。


 ベッドに座り、近くのキャビネットの上に置いたチョークバッグの中を確認する。金属チップ一枚、同じく金属製の手のひらサイズの箱、紙片とペンのみ。どれも『危険領域』で拾ってきたもので、金属チップはなにかしらに使えるだろう。所持しておいて損はない。紙片とペンは前時代の産物だ。今では貴重なもので、滅多に使うことがない。書物すらお目にかかることのない世の中だ。紙が見られることは貴重だ。


 小さな箱の周りを確認する。立方体のそれぞれの面には同じ模様が彫られていた。辺どうしの継ぎ目は見えないが、シモンはこの箱が開くような気がした。観察をやめて、今度は振ったり押したりしてみる。すると、カチリと音がして、一面だけ開いた。十六個のボタンが並んでいる。どうやらパスワードが必要のようだ。


 シモンは少しだけ考えて、ボタンを押した。パスワードの長さも、ボタンの意味もわからない。けれどもシモンが入力を終えると、再び箱は音を立てて開いた。中身はない。


 昔からこの手の勘だけはよく働くが、それが実益になったことはない。逆に言えば、実益がないときにだけ発揮される無駄な才能である。だから入力の流れを感じたときには、すでにシモンにはこのあと良いことが起きないことがわかってしまう。


 またか、といった意味合いを込めて嘆息し、それらをキャビネットの棚の中にしまい、予備のトランシーバーをバッグに入れる。他にも最低限の食料と水、懐中電灯などを入れて、部屋から出た。


 シモンの住んでいる場所は、エリアRの地下に広がる集合住宅の一部屋である。エリアRの地上は人間が住むにはあまりにも環境の変化が大きく、とてもではないが生活できるような場所ではない。強風のために砂漠の砂が舞い上がり、視界はほとんどなかった。


 しかしだからこそ、メルマキナに見つかる心配がないという利点もある。人間はメルマキナの存在に怯えながら生きなければならない。百年前の戦争ほど大きな争いはないが、今でも人間とメルマキナの争いは絶えない。こうしている間にも、どこかで人間が死んでいるのだ。


「シモン!」部屋から出たと同時に、大きな声で呼ばれた。シモンが挨拶をする前に、彼は続ける。「お前、大丈夫だったのか? 連絡もとれないから心配したんだぞ」


「ごめんなさい」シモンは頭を下げた。「トランシーバーをどこかで落としてしまって、それで連絡ができなかったの。心配をかけてごめんなさい、セドルさん」


「いや、何度も謝らなくていい。頭を挙げてくれ」セドルの手がシモンの肩に載った。大きな手だ。シモンは頭を挙げた。「俺としては、シモンが無事ならそれでいいんだ。俺だけじゃない。ここに住むみんながそう思ってる」


「ありがとうございます」


 セドルはエリアRの自警団長だ。身長は二メートルほどある巨躯で、ここで一番の力持ちでもある。歩くだけで地響きでも起きそうなほど鈍重そうだが、実はとても身軽で、その動きに何度も驚かされたことがあった。これまでにメルマキナと戦った回数は数知れない。正義感の強い性格も合わさって、エリアRの住人からの信望も厚い。


「それで、なにか見つかったのか?」


「金属チップと、拳銃くらいです」


「研究に役立ちそうか?」


「チップは研究ではなく、設備等の部品として使えそうです。古いタイプのものですけど、傷や痛みが少ないので大丈夫だと思います」


「そうか」セドルは白い歯を見せて笑った。「シモンの造る機械は、みんなの生活をよくしてくれる。ここの設備のほとんどを補強してもらったしな。凄い腕を持っているよ」


「私にできるのは、それくらいですから」


「ケンジュウとやらはどうだ?」


「捨ててきました」


「捨ててきた? またどうして?」


「あの……、その」シモンは言葉に詰まった。なんと言っていいかわからない。どう言えば、怒られずに済むのか……。


「ははーん」セドルはシモンの内心を察したようだ。「まさか、『危険領域』に入ったんではないだろうな」


「実は、入りました。ごめんなさい」


「まったく……」呆れ顔のセドル。「これで何度目だ。何度言えばわかってもらえるのか……。シモンの気持ちもわからないでもないんだ。研究者としては、それは魅力的な場所だろう。現にそこから持ち帰ったもので、様々なものを生み出している。そのことには、俺たちは感謝している。多少の無理なら聞いてやれるほどにな。だから『危険領域』に行くことを許している。ただし、護衛をつけてのみだ。わかっているな?」


「はい」


「こう言うのも嫌だったんだが、そろそろ本格的に護衛をつけることになるぞ。四六時中誰かが傍につくことになる。それは嫌だろう?」


「嫌……ではないですけど、研究に集中できないと思います」


「俺たちは家族だ。ともにエリアRに住む家族。誰もがそう思っている。その中の誰か一人でも欠ければ、みんな悲しむんだ。特にシモンは、みんなから慕われているからな。今の雰囲気が瓦解してしまう。だから、何度目かわからないが、次からは気をつけるように」


「ありがとうございます」


「よし、話を変えよう。どんなメルマキナに襲われたんだ?」


 自警団としては、少しでもメルマキナの情報を押さえておきたいのだろう。いつ襲撃を受けても対応できるように、個体に合わせて武器を変えるなど、戦術と戦略を持っていたい。だから彼らは鍛練を欠かさない。守るべきものを知っていて、守れなかったときの悲しみを知っているから。


「犬型のメルマキナです。見たことありますか?」


「イヌとはなんだ?」


「四足歩行の生物です。前時代には飼育されていたらしいですよ。嗅覚が強いので、それを利用した追跡捜査などがあったようです」


「そうか、人型だけではないんだな。これまで一度も見てこなかったとなると、新型だろうか」


「わかりません。ただ人間を捜し出すにはうってつけのメルマキナだと思います」


「シモン」


「はい?」


「お前、『危険領域』の奥へ行ったな」


「……はい」


「本当によく生きて帰ってこれたな。メルマキナにはどんな対処をしたんだ?」


「とりあえず、私の匂いがついた防寒布を囮にして逃げました。その、私が行った場所はオイルの臭いなどが漂っていたので、いくら嗅覚の強い犬を模していても、私の位置を辿ることはできなかったようです。それに、メルマキナは防寒布を食い千切ったことで、対象を駆逐したと判断したみたいです」


 シモンは嘘をついた。前時代の資料を読むかぎりでは、犬の嗅覚とはオイルの臭いくらいで誤魔化せるような代物ではないらしい。衣服に擦りつけた匂いごときでは、とうてい騙せるはずがない。


 ただあそこにいたのはメルマキナで、本来の犬ではない。どの程度反映されているのかは不明だが、少なくとも実物には劣っているはずだ。どちらかといえば、音に反応する兆しがあったし、それに視野に入れようとその場を移動していたのが証拠だ。

もし完全に反映させていた場合、あるいは上位互換だった場合なら、シモンが隠れて策を思考錯誤することなどできなかっただろう。


 そしてなにより話せないのは、アミクスとエクスピアの存在だ。『危険領域』はエリアRからそれほど距離のある場所ではない。そんな場所に自我を持つメルマキナがいるとなれば、混乱が巻き起こってしまう。自警団はメルマキナのことを調べている。だから戦争時のとき、なにが人間を駆逐したのかも調べがついているはずだ。


 アミクスたちに敵意はない、といっても信じてはもらえないだろう。人間とメルマキナの間にある溝は底が見えないくらい深い。そして対岸が見えないほどに遠い。けして相容れない関係だと言われているのだ。子供たちもそう聞いて育ってきている。百年という時間が、溝を広げ尽くしたといっても過言ではない。


「けれど、もしかしたら他にも機能があるかもしれないので、これはあくまで私が観察から導き出した推測でしかありません」


「わかってるさ。それでも充分な情報だ。そうか、前時代の生物について知らないといけないかもしれないな。シモン、そういった資料は持っているか?」


「すいません、前回の移動のときに、全部置いてきてしまいました。でも一応記憶はしているので、あとで端末に送りましょうか?」


「いや、大丈夫だ」


「どうしてですか?」


「これから出かけるのだろう。その格好を見ればわかる。とりあえず爺さんに訊いてみるから、シモンはやりたいことをやればいい。もちろん、危険なことはダメだ。一人で『危険領域』に行くなよ?」


「わかっています」


「あ、シモンだ」奥の通路から声がした。


「シモンさん、だよ。もぉ……」


「子供たちに見つかってしまったな」セドルは奥の通路に目をやって、笑みを見せた。彼は子供好きだ。未来に夢を見る姿が尊敬できるからだという。自分たちが失ったものを持っているからと。「それじゃあ俺は行く」シモンを見て、軽く手を挙げた。「じゃあな。くれぐれも気をつけるんだぞ」


「わかっていますって」シモンは笑ってみせた。


 奥の通路に歩いていくセドルとすれ違いそうになった子供たちが、彼に挨拶をして頭を撫でられていた。男の子は反発しているようだったが、女の子は嬉しそうだった。本当に家族のような一場面である。


 子供たちは、シモンの前まで走ってきた。女の子は必死に男の子についてきているといった感じだ。能力差がはっきりしている。


「なあ、シモン。面白い話聞かせてよ」男の子が言った。


「シモンさん!」女の子が訂正するように注意した。けれど効果はないようだ。男の子は「シモン、シモン」と何度も名前を呼ぶ。


「面白い話ってどんなの?」


「昔の話」男の子は腰に手をあてた。その動作に意味があるのかとシモンは思った。「ほら、前にも話してくれたじゃん。あの、なんだっけ、首の長い生き物」


「キリンだよ」女の子が答える。


「そう、それ」


「よく憶えてるね」


「だって、凄くわくわくしたもん」女の子は目を輝かせた。「わたし、お外にあまり出たことないから、今のことだって知らない。だから、シモンさんが話してくれることは、とっても面白い!」


「そうそう」男の子が頷く。「大人はなにも話してくれないもんな。危ないからー、とかしか言わないし……。そんなに危ないのか、外は」


「今のあなたたちだと危ないよ。もう少し大人にならないと」


「あ、それ、お母さんに言われたことある。大人になるってどうすればいいの?」


「大きくなればいいんじゃねえの?」


「セドルさんくらいかなぁ……」


「女であれは無理だろ」男の子はけらけらと笑った。


「あのね」シモンは二人の会話は遮った。「私、これから出かけないといけないの。だからお話はまた今度。ね?」


「どこ行くの?」


「外よ」


「じゃあ、シモンは大人なのか。なあ、大人ってなんだよ」


「うーん、難しいなぁ」シモンはどう答えるべきか迷った。二十歳から大人だと言われていた時代ではないし、そもそもそうだったとして、シモン自身がそれを満たしていない。「みんなに認められたら大人、かな」


「みんなって、ここのみんな?」女の子が首を傾げる。


「うん」シモンは頷いた。「特にセドルさんに認められることが大事かな」


「そりゃあ、無理だ……」男の子は肩を落とした。「ずっと、ずーっと先の話じゃん」


「今から鍛えるとか。セドルさんだって強くなりたい人を放っておいたりはしないはずよ。あなたが言えば、きっと鍛練をつけてくれるわ」


「なるほど。うん、セドルさんより強くなればいいんだな」


 シモンは、それは違う、と言おうとしたが、彼のやる気を奪うのも躊躇われたし、このまま話を終わらせた方がいいと思ったので否定はしなかった。


「わたしは?」


「あなたは家事ができるようになるといいわ」


「でも料理とかさせてくれない……」


「少しずつでいいの。食器を用意したり、洗濯物を畳んだり、そうやってお手伝いをしていけば、お母さんにしっかりしているって思わせることができるはずよ」


「うん、わかった」


「よし」シモンは女の子の頭を撫でた。


 二人が手を振って離れていくので、シモンもそれに応えて手を振り返した。


 ここにはあの子たちのような子供がたくさんいる。大人になることを夢見て、外で思いっきり遊びたいと胸を膨らませている。いつかそんな日がくると。


 そのためには、今いる大人が彼らのために「平和」を用意しなければならない。少しでも安全な場所を増やしていき、いつか彼らの夢が叶う未来を現実にできるようにする。多くの問題が残っているこの世の中では達成困難なことだ。けれど、それでも大人はやらなければならない。少しずつでも前に進む。一つずつ問題を解決する。それがあの子たちのためであり、自分たちのためだ。


 外に出るためには事情を話さなければならないが、シモンには必要なかった。彼女の目的はいつだって同じで、再三聞いてきたことだからだ。研究のため、という一言は便利な言葉である。しかし今日は昨夜のこともあり、要件をきちんと言わなければならなかったし、護衛が同行することになりそうにもなった。シモンは想定していた会話のパターンから受け答えをし、どうにか一人で外に出ることができた。


 風は渇いていて、砂を運んできた。日差しも強い。シモンは防寒布のフードを被り、風と日差しを遮断した。気温が高く、防寒布を着ていれば熱中症になってしまう可能性が高まるが、着ていなければ日差しによる火傷と、散弾銃から放たれた弾のように当たる砂で肌がやられてしまう。


 首元の布を引き上げ、顔を隠し、ゴーグルで目を守った。


 向かうのは当然『危険領域』である。

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