デウス・エクス・メルマキナ

鳴海

償いの風

序章

第0話 ヒトとヒトでないモノ

 空に広がる満天の星々は、どちらの世界のものだろうか。


 シモンは天を仰ぎ見て、そう思った。それは、いま自分が置かれている状況からの精神的逃避を試みている証拠だった。ようやく得られた僅かな時間。だからこそ現実逃避に消費したかったのだろう。心を落ち着かせるためには必要である。


 残骸の山に身を潜め、息を殺し、耳を澄ませる。「奴ら」の歩く音が聞こえてきた。距離は遠くなく、さらに音は増え、次第に大きくなっていた。仲間を呼んだのか、あるいは呼び寄せてしまったのかもしれない。


 仲間と連絡をとろうとして、腰から下げたチョークバッグに手を入れたが、どうやら夢中で逃げている間にどこかで落としてしまったようで、目的のトランシーバーは掴めなかった。


 冷静に考えてみれば、ここでトランシーバーを使うのは無謀だ。無闇に声を出せば、仲間が駆けつけてくれる以前に「奴ら」に見つかってしまう。


(落ち着いて、私……)


 バッグに入れたままの右手が震えていた。それがもうすぐ訪れるであろう「死」という現実に恐れているからなのか、それとも、まだ生きることを諦めていない心が身体を打ち震わせているのかはわからない。


 わかるのは、前者である確率が高いこと。


 足音は分散していくが、遠くへ離れてはいかない。


 見つかるのも時間の問題だ。


 自分を追っていた「奴ら」の形を思い出す。あれはたぶん「犬」と呼ばれた生物を模っていた。実物を見たことはないが、古い文献で見たことがあった。鼻が利く生物だ。どこまで精巧に造られたのかは不明だが、その姿をしているからには、その能力を少なからず有していると考えるべきだろう。


 メルマキナ――人間は「奴ら」のことをそう呼ぶ。


 生き残るためにはなにをすべきか、シモンは考える。仮説が正しいのなら、匂いに反応するはずだ。今は機械の残骸からの異臭で難を逃れているが、人海戦術でその意味もなくなる。


 戦術というものが「奴ら」には存在しないだろう。ただ本能のままに、人間を殺すという使命のためにしか動かないのだから。自我を持たない「奴ら」は人を殺すだけしかできない。


 しかしだからといって、自我を持つメルマキナに遭うことがいいという問題ではない。それこそ本当に絶望だ。自我を持つメルマキナはその歴史において、もっとも人間を殺害した存在だ。百年前の戦争で猛威を振るい、人類の八十パーセントが世界から消えた。


 シモンは纏っていた防寒布を取り去り、自分の腕に擦りつけた。少しでも強く自分の匂いがつくように念入りに、それこそ肌が赤くなるほどに擦りつける。冷や汗でもかいていればよかったのだが、残念ながら汗はなかった。


 防寒布を取り去ったせいか、夜の空気がシモンの肌を刺激した。冷たく、そして渇いている。


 山の陰から、メルマキナの行動を確認した。闇の中に動く橙色の点が六つ。一体につき二つの目があるのならば、三体はいるということだ。最初に出くわしたときより一体増えている。中心の二点の周りを他の四点が動いていた。


 距離は十メートルくらいだろうか。決して離れている距離ではない。近過ぎるくらいだ。

 再び陰に身を潜め、逃げる準備をする。拳銃を一丁だけ所持しているが、それは今回の探索で拾ったもので使えるかどうかはわからない。いつの時代のものか、どちらの世界のものかも不明だ。トリガーを引けば、銃弾が出ることは知っている。しかし、銃弾の確認の仕方がわからなかった。


 防寒布を広げ、残骸にひっかける。そして近くの建物まで身を低くして移動し、その陰から布に向かって拳銃を放り投げた。鈍い音が辺りに響き渡り、それと同時に動いていた橙色の点が静止。そしてその色は赤くなると、一斉に音のした残骸の山へと向かっていった。最初に三体、続いて二体が防寒布の周りに集まり、食いちぎっていった。


 それを確認してから、シモンはなるべく音を立てないようにその場から離れた。走って荒くなる息遣いを抑え込みながら、頭の中に地図を思い描く。『危険領域』からの侵入、脱出は以前から幾度もやっていたので、ルートを構築するのは容易だった。困難なのは、これからメルマキナに遭遇せずに脱出することだ。


 遠くに赤色の点が見えた。動きからこちらには気付いていないことがわかった。角を曲がり、ルートを再構築する。

 しかしようやく出口が見えたとき、メルマキナが目の前に現れた。目を赤く光らせ、行く先に立ちはだかる。


 すぐさま来た道を戻ろうとしたが、後方にも一体。


(しまった……)


 建物の上にも一体。


 さらに数体が建物の陰から現れた。


 シモンの動きを封じるようにゆっくりと彼女の周りを歩いている。


 なにか策はないか、とシモンは必死に策を練ろうとする。ここまで絶望的な状況下に追い込まれると逆に冷静でいられる、という発見は嬉しくなかった。


 グルル、とおよそ生物が発声しないであろう音が周囲から聞こえてくる。その音はシモンの身体を強張らせ、後退りを強要させた。


 いつの間にか、脳裏に浮かぶのはエリアRに住む人々の顔だった。


 これが走馬灯なのだろう、とシモンが理解したころには、四方八方からメルマキナが飛び掛かってきていた。鋭い爪が妖艶に煌めく。


 しかし、その爪がシモンに届くことはなかった。もうダメだ、と思った次の瞬間には、とうてい考えられないが、メルマキナの輪から外れていたのだ。右側からメルマキナどうしがぶつかり合う音が聞こえて、ようやく左側へ移動したのだと理解できた。


 ただ、わからないのは、目の前にいる少年だ。


「大丈夫か?」金髪の少年はシモンに視線を移すことなく訊いた。


「は、はい……」


「あんた、ここがどういう場所か知らないのか? 人間がそんな身軽な装備で入ってきていい場所じゃない」


 目の端から強烈な光を感じ、シモンはすぐさま振り向いた。もしかしたらメルマキナが新たな行動に出たのかもしれない。そう危惧したからだ。


「なに……、これ……」シモンは思わず声を漏らした。


 犬型のメルマキナの身体すべてに、光が突き刺さっていた。その光はまるで杭のように地面に打たれ、メルマキナは身動きが取れずに、ただその鋭い爪で地面を削り取るばかりだった。


「今はこれで全部かな」奥の方から声がした。


「たぶんな」少年が答える。


「あなたたちは、いったい……」


 シモンがそう訊ねようとしていたとき、少年は左手を前に突き出した。ヒュッ、といくつかの短い音がしたのとほぼ同時に、打ちつけられていたメルマキナは粉々に刻まれて、ただの残骸へと変貌した。


(人じゃない……)


 彼女の頭に浮かんだのは、百年前の戦争のことである。脅威の存在だと言われている自我を持つメルマキナは人型だ。言葉を話すだけでなく、きちんと会話が成立している。つまり、まず間違いない。


 奥からもう一体が走って近づいてくる。なんの意味があるのか不明だが、防寒布を身に纏っている。傍にいる彼もまた着ていた。


「きみ、大丈夫だった?」


「あの、あなたたちは?」声が震えているのがわかる。


「こいつ、たぶん戦争のことを知っている。学者かなにかだろ」シモンのことを補足するように金髪の彼は言った。そしてそれは正しかった。ほんの僅かな時間の、些細な反応で見抜いている。


「それは怯えちゃうね」もう一人の少年は優しく微笑んだ。本当に人間のようだった。「こういうとき、どうすればいいんだろう。どうすれば敵意がないことを示せるのかな」


「俺が知っているわけないだろ」


「うーん、とりあえず、自己紹介でもしておこうか」


「なんだそれ」


「自分のことを紹介するんだよ。名乗るくらいだけど」


「なるほどな」金髪の少年は視線だけをシモンに向けた。「俺はエクスピア」そしてすぐに視線を戻した。


「僕は、アミクス」温和そうな少年はシモンに向け、手を差し出した。


 シモンはその手を恐る恐る握った。ほんの少しだけ温もりがあった。たぶん光を放出したためだろう、と推測した。普段は冷たいはずだ。


「それで、きみの名前は?」


「私はシモンと言います」


 メルマキナに自己紹介するのは、当然初めてだった。

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