悪魔

____ザク、ザク、ザク



響くのは薄氷を踏みしめる音。


人工的な光に照らされているのは周囲の光景とは相容れない異質な氷の世界で、冷気が天へ昇ろうと蠢(うごめ)く。


円形の光の外から、ゆっくりと回り込む様に歩いていたジークはとうとう男の前に辿り着くと、右手で握った刀で前方を指し示し、


「生け捕りが最善ではあるが、油断大敵だ。・・一撃で決めさせてもらうぞ」



感情の籠っていない冷淡な声でそう告げると剣を両手で握り、集中するように瞼を閉じた。



ジークが自身の視界を閉ざしたのと同時に彼が両手で握った剣に魔力が集まり始め、数秒後には赤く赤熱した刀身と共に刺すような密度の魔力が剣に宿る。


人体など簡単に焼き切ってしまいそうな、身震いしそうになるような切れ味を得た刀を向けられることは氷の大地の上で身動きが出来ない男への死刑宣告と同義であった。



四肢が凍り付き、右手に持った刀を動かすことすら出来ない男が目の前の光景に対して少し表情を動かそうとし、パキッと顔に張り付いた薄氷が割れる音がする。


その顔の動きは何を伝えようとして生じたものであろうか、恐怖か、感嘆か、嘲笑か、悲しみか、ともかくその音を合図にジークが刀を振りかざした事だけが唯一の確かなことであった。



「終わりだ」


そう言うと共に目を開き、勢いをつけるように一歩地を踏みしめて、



「バルフレア!!」



唱えたジークは魔力の塊となった赤熱する剣を振り下ろそうとした。



その刹那、ジークは頭上で、いや正確には前方の男の頭上で瞬間的かつ爆発的に魔力の結集と発散が起こるのを感じ取り、


「・・天叢雲(あまのむらくも)」


微かに聞き取れたその言葉を呟いたのは目の前の氷漬けの男。


絞り出されるようにこぼされたその言葉の直後、ジークは自身の視界に頭上から振り落ちてくる光の柱を捉えた。否、正確には瞳に映しただけであろうか、とかくその{光}と切り捨てるにはあまりに神々しく荒々しい閃光は人の目で追えるような代物では無い。



その光について考察する猶予など与えられず、脳が状況を理解するよりも遥かに早く、ジークの体は凄まじい衝撃で後方に吹き飛ばされて宙を舞い、うつ伏せになるような形で地面に叩きつけられた。


抗いようもない力に上からねじ伏せられ、


(・・・・い、一体なんだ?!・・な、何がどうなった?!)


眠りに落ちそうになった感覚を温めるように頭の中でジークは声を上げる。


強制的に地に寝かせられた中、飛びかける意識をどうにか引き戻して微かに面を上げたジークが見ることが出来たのは視界を遮るようにする寒気を引き連れた白い空気だった。


突如天から叩き下ろされた衝撃によって氷が砕けた事で発生したと思われる、白い煙幕の中で立ち昇った1つの黒い人影。


濃淡な白を帯びた空気は近づいてくるモノを明確に視認することを許さず、風にそよぐ靄に合わせて不気味に揺れる影は死神の舞だと言われれば納得できる。


その恐ろしさを孕んだ靄の奥から姿を現した影の源は蒼色の髪の男。


霞(かすみ)を振り払った男の全身からは光の道が生じては消え生じては消えてを繰り返し、右手に持った剣の周囲では魔力を帯びた光同士がぶつかり合って強烈な発光を起こしていた。



「・・もう手加減はしてやれない」



感情の抜け落ちたような目でジークを見下ろしながら静かにそう言った男は大気を塗りつぶす閃光を放ちながら、倒れている獲物の方にゆっくりと歩みを進める。



先ほどの衝撃からか男の発した言葉はジークの耳には遠目に聞こえ、ぼんやりとかすれた視界の中、冷淡な煌めきを帯びた男が自らの方に向かってくるのがかろうじて認識できた。



(・・マズイ・・起き上がら・・・なければ)



目の前から迫りくるモノの纏う圧倒的な魔力の量と質に、思考が乱れている中でも危険を察知したジークは先ほどの一撃の中でも離さなかった剣を握りなおし、足を引きずるようにして膝立ちになると剣の先を地面に付き、杖のようにすることでどうにか立ち上がる。



既に男は前方10mほどにまで迫っているようで、ジークはまだ感触がハッキリとしない両手で剣の柄を握りしめると臨戦の構えを取った。のだが、その姿は正に満身創痍ではたから見れば、とても目の前の神の如き存在の相手を務められるとは思えないほどに弱弱しい。



その支柱を失ったような体勢の最中、おぼろで焦点すら定まらなかった視界が少し鮮明になっていくと共に戻ってきたものは思考力。ジークは迫りくる男の出で立ちと、先ほどの刹那的かつ衝撃的な出来事の関係について、大部分が推測ながらも一つの可能性に辿り着いた。



(・・雷・・か?・・何て魔力の波動だ・・)


人の身でありながら天から降る稲妻を操るなどという見たことも無ければ聞いたことも無い、正に神の所業ともいえる事象を前にして、



「・・貴様!・・それほどの力がありながらどうして!」



ジークの口から発せられた言葉には彼の歩んできた人生が反映されているようであった。


国の為に民の為に恩義の為に、持てる力を尽くして戦いを続けてきたジークにとって、大きな力を持ちながら正義の象徴であるアルデミオンに刃を向ける男を理解することが出来なかったのであろう。


心から発された問いに対して、雷を身に纏った男は答えるつもりは無いようで、黙ったままゆっくりとした足取りで水音を立たせながら標的の元へと近づく。


一歩地を踏むごとに起きる光の炸裂は身に収まりきらない暴威の象徴。


対話を拒否したその姿勢と猛る魔力の波はその者の揺るがぬ決意を感じさせ、相対する者には本能的な生命の危険を心臓に押し付ける。



荒れ狂う雷を身に纏っているとは思えないほどの静かで穏やかな歩みをジークの前方5mほどの位置で止めると、男は右手の剣を鞘に納め体勢を少し沈ませるようにした。その姿は力を溜めこむようで、いずれ訪れる解放への恐怖心を掻き立てる。


(・来るか!)


とても刀の間合いではない距離で構えを取った男に対して、ジークは言い知れぬ威圧感を感じ身構えた。


この時、両者の間に走ったのは初めての静寂。


耳を掠める雨音すら忘れてしまうほどの相手の一挙手一投足に対する集中が音の鼓動を止めた。


相対した二人以外が息を失った世界で、


「迅雷一刀」


ポツリと呟かれたその一言が降りしきる雨の中に飲み込まれ、それは抑え込まれていた雷公発現の兆しとなる。



____バチッ!



何かがぶつかり合ってはじけ飛ぶような鋭い音が鳴った。そうジークが認識した時には男の姿は目の前から忽然と消えていた。先ほどまでの雨に溶けるような消え方とも違い、瞬きのようなほんの一瞬にすら満たないような光の断絶。



構えを崩すことなく男の出方を待っていたジークは音が鳴った後に自身の背後に巨大な魔力の反応が生じていたことに気が付いた。


ジークほどの場数を踏んできた戦士がそれへの反応が遅れたのは全く持って想定外の状況であったからだろう、でなければ緩慢すぎる。


(まさか!)


目の前から消えた男と、その代わりに背後に突如として現れた巨大な魔力の反応。この二つの事象が示す結末はたった一つだけだった。



____キン!



重々しく雨音の中に響いた刀を鞘に納める音はジークの焦燥感と絶望感を掻き立て、心臓が跳ねる速度を加速させる。


「・・・・」


言葉を発することが出来ず、自身の手元を捉えるようにしたジークの視界の中から両腕とそこに握られた剣が滑り落ちるようにして体を離れ、



__ボトッ



__カランカラン


依り代を無くした物質たちは何の生命の余波も感じさせない音を立てて地面へと落ちた。




その無機質な音を聞き届けた男は血を振り落とすために右手の刀を鞭のように一度しならせる。



他人からかすめ取った命の雫を吐き出した刀を一瞥した男はその場でゆっくりと回転して、文字通り反撃の手立てを失った者と決着を付けようと向き直った。


視線の先にあるのはジークの背中で、雷の衝撃で擦り切れた衣服が隙間から夜風を飲み込んではためき、ボトボトと滝のように落とされる血の音が耳を脅かす。


「終わりにしよう」


光に乗ったその言葉に、自身の足元に転がったかつての従物に目をやっていたジークは男がそうしたようにその場でゆっくりと回転した。



そうして今一度対面した両者であったが、ジークの姿を見た男は心なしか目を見開くと、



「・・・思い出した。そうか、アンタがディアボロか。噂は本当だったんだな。正に・・・悪魔だ。」



初めて見せる驚いた表情と共に口からは悪魔という単語が漏れる。



その瞳に映ったのは切り落とされた両腕の断面に空気中から集まる黒い物体。


魔力を帯びた粒子たちは傷口に吸い込まれるように肉体と結合して失血の流れを止めると、なおも失われた部位を埋めるように集まってくる。


ハッキリとした目的をもって宙を舞う背景から浮き上がったような黒い塊たちはやがて腕を形取ると、最後には肌色に変色し完全にジークの体と同化した。

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