気にも留めぬ透明




(私は、日常の輪郭を手繰る)

 

 日々木は心の中で呟いた。自分の術の在り方を、再認識するためである。

 目の前には匡が立っている。一筋縄ではいかない相手だ。半端な術では、傷一つ付けられないだろう。

 それでも、自分ならば。

 多くの研鑽を積み、鍛錬を重ねてきた自分の術であれば、打ち倒せる。

 日々木は、そう信じている。

 そう信じて、ここにいる。


(私は、日常の輪郭を手繰る)


 繰り返す。何度も何度も、確認する。

 日常の輪郭とは、周囲の事物を模倣した、透明な形状のことだ。

 例えば、そこが森であるならば木を、街中であるならば電柱を、教室であるならば机や椅子をといったように、四方八方に存在するモノの形をコピーし、手元に生み出すのである。

 

 それが、日々木歌子の術であった。

 

 術の行使にあたり、必要な準備がある。

 周囲に存在する形状の把握だ。頭の中で、コピーする造形を明確に思い浮かべねば、術は使えない。

 把握は、視認や接触でも可能だ。しかし、それだと問題も生じる。手の届かないものや、死角にあるものをコピーできないのだ。


 そのため、日々木は別の手段を頻繁に用いる。


 反響定位。


 エコロケーションという語でも知られるそれは、舌を弾いて出した音の反響で、周囲の物体の大きさや方向を割り出す。自然界ではコウモリやクジラが、障害物を避けるために使うとされる。

 日々木が透明な造形を生み出す前、決まって舌を鳴らすのは、この反響定位のためであった。


 カツン。


 日々木の桃色の舌が丸まり、音高く鳴る。振動が透明な波となり、周囲に伝播して、跳ね返る。

 彼女の脳内で像が結ばれる。平行四辺形。右手に持つ小刀、その切先だけをコピーした輪郭だ。

 

 次の瞬間、彼女の左手には透明な板刃が挟まれていた。


「よく切れますよ。この形は」


「当たればの話だろう?」


 白い箱を片手に、匡が笑う。


「当てますよ」

 

 日々木は薄緑のスプリングコートの袖で、刃を隠した。

 指の動きから軌道を読まれないようにするためだ。

 左腕を脱力させ、ゆらゆらと振る。揺れは少しずつ大きくなり、早くなり。

 そして、鞭のようにしなると、虚空を切り裂いた。

 薄緑色の袖口が、あまりの速度に透き通った。

 彼女の左手が止まり、色を取り戻した時、刃は既に放たれた後だった。

 その数、三枚。

 コートの中で、複製していたのだ。


(左右中央、箱内がどこに身を置いても、切り裂ける軌道だ)


 残像で円を描き、空気を切り裂き飛んでいく刃を見て、日々木は思った。

 匡が今立っている場所も、刃が到達するまでに動ける横の範囲も、満遍なくスライスできる間隔での投擲だ。

 一拍置かず、血を見ることになる。

 

 匡は音もなく、跳躍した。

 彼女の小さな体がふわりと浮く。

 その手から箱がこぼれ、刃に両断されるが、匡自身は無傷だった。


(読み通りだ)


 それよりも一瞬早く、日々木は床を蹴っていた。

 まるで獣が獲物を刈るような躍動を、全身から迸らせて、空中で刃を構える。

 匡は既にジャンプした後だ。宙で大きく回避行動を取ることはできない。透明な刃の投擲は、この状況を作り出すための囮だった。

 後は体ごとぶつかり、腹に小刀を潜り込ませてやればいい。


 その時、日々木の栗色の瞳が、あるものを捉えた。

 拳。

 匡が空中で右手を握り、繰り出してきたのである。


(何だ?)


 違和感があった。

 拳の握りが、緩いように見えたのだ。あれではどこに当たっても、大したダメージにはならないのではないか。そう思えるほど、匡の右手は柔和な空気を纏っていた。


 だがその瞬間、脳裏を過ったのは昨日の裏拳だった。

 日々木の腹部に打ち込まれた、匡の一撃。

 あれは妙な拳であった。

 見た目通りの打撃ではなかったのだ。

 あの時、確かに悍ましい何かを感じたのだ。裏拳から滲み出し、胃の負を蝕む何かを。

 その末の、吐血であった。


(おそらく、この拳も)


 日々木は素早く刃を振った。

 狙うは、匡の右手首。

 骨ごと断つつもりであった。

 切り飛ばされた拳で、痛撃は放てまい。

 返す刀で、目玉を突いてやる。

 金属光が間隙に瞬き、白い肌を切り裂こうと迫る。


 その時、確かに日々木は見た。


 匡の口角が、僅かに上がるのを。


(まずい)


 動物的勘が叫ぶ。しかし、遅かった。

 匡の右拳が、まるでスローモーションのように、ゆっくり開く。

 白い掌から、折りたたまれたルーズリーフが顔を出した。

 その形状に、見覚えがあった。

 遠い記憶、母が作ってくれた折り紙に似ていた。

 まるで、空気を入れる前の紙風船のような――。


「【わるもの】」


 ぶわりと、ルーズリーフが膨らんだ。まるで今の匡の呟きが、息吹きとなって入り込んだように。

 それはまさに、紙風船であった。

 折り紙によって完成する、立方体だ。

 立方体。

 箱。


 箱内家の術士が作った、箱。


 匡の唇が、やけに緩慢な動きをした。

 それは命の危機を感じ取った日々木の、今際の集中力がもたらすスローモーションであった。

 あの箱は、まずい。

 その答え合わせをするように、眼前の敵は術の名を口にした。


「【そこない】」


 紙の箱が、弾けた。

 まるで白い皮が破けて、血が溢れるような光景。

 しかし、実際に中から飛び出したのは、ひらひらと舞う紙吹雪であった。

 正確には、紙吹雪と――。


 骨まで蝕むような、不可視の劇毒が四散した。


「ごっ……ばぁ……!?」


 日々木は次の瞬間、血反吐を溢れさせた。

 夥しい苦痛が、自分の肉に詰め込まれていくのを感じた。

 昨日の裏拳の比ではない。死が差し迫っているような、直接命を削り取るおぞましい瘴気。

 四方の閉じた空間に宿る、邪悪なもの。


「ぐっがぁ!!」


 それでもなお、日々木は怯まなかった。

 足の裏を突き刺すように、空中で匡の腹を蹴った。

 骨を打つ鈍い音と共に、少女たちは互いを弾き飛ばすようにして、距離を取った。

 

「どうだい? 僕の術のお味は」


 匡が冷たい笑みを浮かべて尋ねた。

 その言葉の節々が、上手い具合に聞き取れない。激痛と悪寒がゴリゴリと脳味噌を食い荒らしていくようだ。

 日々木は口の端から、途切れることのない血反吐を垂らす。


(やはり、昨日は全力じゃなかったんだな)


 過去の戦闘を想起する。あの時、匡は攻撃に箱内式の呪術を用いなかった。きっと、久義の眼があったからだろう。幼馴染の前での惨殺は避けたかったのかもしれない。

 今は、違う。

 彼女の大切な人は、眠ってしまっている。

 だからこんなにも、露骨に本性を晒すことができるのだろう。


「おいおい、そんなに怖い顔しないでよ。君、相手が誰だか知ってて来たんだろう? 箱内の術士を相手取るなら、どんな惨い死だって覚悟してなきゃ駄目さ」


 ああ、凄まじい術士だ。

 日々木は自分の五臓六腑が爛れるのを感じながら、思う。

 相手は箱内家の跡取りだ。五百年続く呪詛の血統を受け継ぐ者だ。

 きっと術士としての才覚も、家柄も、何もかも自分より上なのだろう。

 

 だが、しかし。

 

「……言われるまでもないんですよ、そんなことは」


 それでもなお、日々木は床に血反吐を吐き捨てた。

 その瞳は煌々と闘志を湛えていた。

 足首を焼かれようと、背中を灼かれようと、変わらず燃やし続けた闘志だ。

 命の危機に瀕した程度で、それが潰える道理はない。


「術士はいつでも命懸けです。惨い死の覚悟なんて、朝食より早く済ませておくべき基本事項です。それを実戦の場で、さも有難いアドバイスのように抜かすだなんて、貴女も大したことないですね。所詮は、温室育ちのお嬢様ですか」


 匡は楽しそうに笑った。


「あはは、じゃあ君はさしずめ使い捨ての液体肥料かな。温室育ちの僕が成長するために、殺されてくれるんだものね」


 いつの間にか、彼女の小さな掌には、数枚の折り紙が扇のように広がっていた。

 そのうちの一つを、柔らかく握る。開いた掌の上に、やや膨らんだ紙風船が出現した。

 見ようによっては、萎んだ歪な箱のようでもある。

 あそこに更に瘴気を詰めれば、完全な立方体が出来るのだろう。

 直撃すれば、死だ。


 日々木は、うっすらと笑った。


「いいえ、私は雑草です。日々見かけるけど、気にも留めないような雑草」


 刃を構える。

 腰を落とす。

 相手を見る。

 呼吸を整える。


「そんな日常の端役でも、貴女の四角い温室を食い荒らすことはできるんですよ」


 そして、日々木は言葉を紡いだ。

 自らの術理を強固にする、ある種の言霊。

 すなわち、自らの背負う世界の名を。


 術の名を、呼ぶ。




「【日々の造形ノーマル・フォーム】」




 カツン。


 がちゃり、がちゃりとガラスが蠢く。

 ガラスのような、透明な輪郭が蠢く。


 それは、あらゆる形状から成り立っていた。


 机の頭。引き出しの取っ手。天井の電灯。ベッドの足。ベッドで眠る、久義の脚まで。

 あらゆる透明な形が、モザイク状に絡みあい、無数の隙間と結合でもって、やがて一つの大きな輪郭を作った。

 五指。前腕。関節。後腕。その一つ一つが、大きく、長く、歪んでいた。


「私の日々を喰らってみるか。箱内匡」


 透明で捻じれた無機質な巨腕を生やし、日々木歌子は啖呵を切った。

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