夜に眠る




 赤黒い闇夜であった。

 木々のシルエットが、墓石のように立っている。山の木々だ。樹冠で天を隠すようにして、大地に無言で根を張っている。


 木の一本一本が、まるで心臓のように蠢いている。

 赤い光の揺めきに照らされ、蠢いてるように見えるのである。

 赤い光を放つのは、炎だ。


 蝋燭の炎である。


 蝋燭を頭に括り付けて、幼い少年が歩いている。

 黒い短髪は縮毛気味で、一重の目はどんよりと曇っている。

 しかし、まだその手は瑞々しかった。


 伊国久義、五歳の姿だ。


 幼き日の彼が、夜の山を歩いている。

 その膝や手、顔には血が滲んでいる。足元の暗い中、何度も転んでこしらえた傷だ。じくじくと痛みが滲み、目には涙が浮かぶ。


 それでも、足を止めるわけにはいかない。


 震えるようにして、歩く。焦りの見える足取りだった。早く、町から離れねばならないからだ。そうしなければ、人に見られてしまう。人に見られると、成功しないのだ。

 丑の刻参りは。


(すーちゃんを、呪わないといけない)


 久義は熱に浮かされたように、そう思っている。

 右手には金槌、左手には新聞紙で作った人形ひとがた、ポケットには小さな釘がある。

 蝋の溶ける、甘い匂いが鼻をつつく。

 火の色を含んだ夜の闇が、うねっている。


 まるで、赤黒い炎のようだ。


 頭上で燃えさかる炎熱が、じりじりと炙られる顔の皮膚が、そのイメージを更に強める。

 あの赤黒い炎は、業火か。

 悪い人を燃やす、地獄の焔。

 そんな炎があることも、すーちゃんが教えてくれた。


(人を傷つけるのは悪いこと。人を呪うのも悪いこと。だから、僕は悪い人)


 僕も、焼かれるのだろうか。

 怖い。

 それでも。

 すーちゃん。匡ちゃん。箱内匡ちゃん。

 どうしても、彼女を呪わないといけない。


 久義は足を止めた。

 一際大きな木が、目の前に聳えていた。とても立派な巨木である。そのゴツゴツした樹表から、これまでに重ねられてきた長い時間が、染み出してくるようだ。


(丑の刻参りは神木? とかいう凄い木でやるもんだって、すーちゃん言ってたな)


 久義は左手に持つ人形を見た。昨日の朝刊を、父親から貰って切り抜いたものだ。

 胸の部分に、マジックの拙い字で『はこうちすくい』と書かれている。

 続いて、ポケットから釘を取り出した。炎の揺めきで影を纏い、シルエットと化した真っ黒な釘。


 まるでそこに、丑三つ時の闇が凝縮されているようだ。


 小さな釘だった。

 ちゃんとした道具は用意できなかった。白装束も五寸釘も藁人形も鉄輪も、久義の家にはなかった。辛うじて揃えられたのは、ケーキ用の小さな蝋燭と、古びた金槌と、貧相な釘ケースだけだ。


(でも、トゲトゲした気持ちがあれば呪えるって、すーちゃんも言ってたし)


 丑の刻参りを教えてくれたのは彼女だ。根暗で気弱な久義の、唯一の友達である箱内匡。

 こんな自分にも優しくしてくれた女の子。

 いじめられている自分を救ってくれた、ヒーローみたいな女の子。

 大好きな女の子だった。

 久義の初恋だった。


(でも、呪わないと)


 大木に新聞紙の人形を押さえつける。その胸の辺りに、釘の先端を浅く刺す。釘の平たい頭に、金槌で狙いを定める。

 この尖った闇のような釘を打ちつけ、あの子を呪わないといけない。

 やっつけないといけない。

 どうして?

 決まっているじゃないか。

 僕があの子を呪うのはーー。

 



(どうしてだろう)



 

 久義は立ちつくしていた。

 彼はいつの間にか、青年の姿になっていた。


 場所は変わっていない。依然として、周囲は闇に閉ざされた木の群れだ。

 目の前には、大樹が聳えている。十四年前よりも、心なしか厚みが増しているようだ。この木は、正しく成長しているのだろう。


 その木の表面に、人の輪郭が描かれている。


 まるで死体発見現場にテープで象られた人型だ。丸い頭、長い手、長い胴、長い足。およそ百九十センチの背丈の人間が、書き込まれている。

 胸の部分に、名前が刻まれていた。


『伊国久義』


(いつの間にか、丑三つ時になってたのか)


 久義はぼんやりと思いながら、拳を握る。金槌も釘も持っていない、白く濁った素手だ。

 やらねばならぬことがあった。

 贖罪。

 丑の刻参りの罪を、贖わなければならない。


 あの赤黒い夜の炎を、丑三つ時の凝った釘を、打ち消さなければいけない。


(どうして、あんな馬鹿なことをしたんだろう)


 何故、幼き日の自分は丑の刻参りなんてしたのか。後悔する度に、そんなことを思う。

 でも、理由は遠く向こうに霞んで、一向に思い出せないのだ。


(思い出せないと言えば)


 記憶が滲む。揺らいだ思考が、次々に連想を吐き出していく。

 日々木歌子も、その中にいた。

 彼女を前にして、自分は酷く怖がっていたな。

 どうしてだっけ。


 ずるりと、木が蠢く。


 目の前にあった大樹が、輪郭を歪ませていく。粘土が塗料を取り込むように、周囲の闇を含んで、黒ずみながら形を変える。


 そして、黒い箱が出来た。


 久義よりは小さいが、それでもかなりの大きさの箱。棺のような直方体。

 体が冷えた。

 氷水が肉をこじ開けて入り込んでくるような、嫌な感覚。

 悪寒。

 それでも、久義はその箱を見つめていた。


 この黒い箱は、一体何なのだろう。

 中に、何が入っているのだろう。

 ゆっくりと、濁った指を伸ばす。そっと箱の蓋らしき部分、その端に触れる。

 開け放つため、力を込めようとしてーー。


「駄目だよ、久義」


 細い腕が柔らかく、彼を包んだ。

 匡が後ろから、久義を抱きしめていた。


「その中を見たら駄目」


 体に籠ろうとした力が、解けていく。意識が輪をかけて朦朧としていく。

 黒い箱が遠のいていく。

 匡の体温と匂いが、久義に入り込んで、閉じ込めてゆく。

 闇が深くなる。




 白い病室で、匡は久義の寝顔を撫でていた。

 膝枕の体勢である。

 その細い指が、彼の黒い髪であったり、濃いクマに触れていく。


「よかった。怖い夢は終わったんだね」


 優しく微笑んで、彼女が呟く。

 先ほどまで、久義は苦悶に顔を歪めながら、うなされていた。悪夢を見ているようだった。

 だから、彼女は彼の胸の上に、白い箱を置いた。

 久義の中の悪いものを、立方体に吸収したのだ。


 現在の時刻は夕方である。

 もう少ししたら彼を起こして、一緒に夕ご飯を食べよう。久義の好きな焼きおにぎりを用意すれば、きっと喜ぶだろう。そんなことを考えながら、寝顔を眺めている。


「久義」


 ポツリと溢す。その指で、彼の唇をゆっくりなぞる。かさついた薄い唇。低い声をモニョモニョ漏らす、口下手な唇。

 この唇が照れたように笑うのを、もう一度見たい。

 もう随分長いこと、この幼馴染の笑顔を見れていない。それは恐らく、罪悪感のせいなのだろうと、匡は思う。


 でも、そんな日々はもう終わりだ。

 匡は決めていた。この病室を、久義が苦しまない優しい空間に変える。彼の求める物を与え、あらゆる悪いものを取り除いてやる。


 それを永遠に続けるつもりだった。


 自分と久義だけが存在する幸福の箱を、作り上げよう。そう決めたのだ。


「だからさ」


 そこで、匡は廊下に通じる扉に、目を向けた。


「君は必要ないんだよ、日々木さん」


 ゆるりと、扉が開く。

 向こう側に立っていたのは、少女だった。

 自分の大切な幼馴染を傷つけた女。


 日々木歌子が立っていた。


「私だって、自分が必要だとは思いませんよ。その悪趣味なおままごとには」


 冷たい視線を久義に寄越してから、同じくらい冷たい声で彼女は言った。

 匡は久義を起こさないよう、ゆっくりと膝を抜くと、静かに立ち上がった。

 その口元に、昏い笑みが浮いている。


「で? それが分かってるなら、どうして来たのかな?」


「貴女の幸福な日常を奪いに来ました」


 日々木の右手が、小刀を構える。

 匡は無言で、久義の胸から白い箱を取った。


「僕、君が嫌いだ」


「私も貴女が嫌いです」


 病室の空気がひび割れるほど、濃密な敵意が渦巻いた。

 今日も、夜が来る。

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