胎の深淵
「お帰りー、久義」
病室に戻ると、匡がベッドに座って待っていた。
彼女の丸い瞳が、久義を映す。
全身に雨を吸った姿は、黒く大きな野良犬のように寒々しい。
「うわ、ずぶ濡れじゃん。傘持って出なかったの?」
匡が眉を八の字に下げ、立ち上がると、机から白いタオルを出した。
近付いてきて、久義の頭に被せる。
身長差が四十センチ近くあるので、彼女は少し背伸びをして、わしゃわしゃと拭いた。
洗剤の良い香が、鼻腔を柔らかく包んだ。
「もう、風邪ひくよ? ほら、ベッドの近くに来て。僕が乾かしてやるからさ」
小さい手に引かれ、白い椅子に腰を下ろす。
匡に背を向けるようにして、座った。
対する彼女は、シーツの上に膝立ちになっていた。どこから取り出したのか、片手にはドライヤーを持っている。
温風が頭を撫でる。乾いていく髪を弄りながら、匡が言った。
「それにしても、結構長いこと戻ってこなかったね。お父さんやお母さんと、沢山話したんだ?」
久義は答えない。
ドライヤーの音だけが、室内に渦巻く。
かちりと、スイッチが切れた。
静寂が満ちる。
「……久義?」
匡の声が、頭の上に落ちる。
不安げな声色。
「……どうして、何も言わないの?」
久義は黙っていた。
奥歯が、きり、と鳴った。
その喉仏が、嗚咽を呑むように、動いた。
「……匡」
今にも泣き出しそうな、震えた言葉。
「箱内家が呪詛を生業にしてるって、本当なのか?」
互いの心音と、息遣いが床に転がる。
雨雲の動く音が、外から聞こえてきそうなほど、静かだった。
「誰から聞いたの」
匡が呟くように言った。静けさが際立つような、凪いだ声。
「……吉田医院で、聞いたんだよ」
久義は絞り出すように、溢した。
全ては雨音の中、あの病院で吉田俗から聞いた話だった。
「箱の中には、悪いものが溜まる。それが、箱内家のただ一つの思想さ」
彼は久義の眼を見て、そう言った。
「この思想が、具体的にどのように形成されたのかは、分からない。だが、昔から閉鎖空間というのは、何かしらの問題を起こすことが多かった。心理的圧迫からくる精神異常や、疫病の充満による大量死などがそうだ。箱内の祖先はそうした現実から、四方の閉じた空間には悪いものが溜まるという、独自の世界観を築いたんだろう」
灰皿の上に置かれた煙草が、白い煙を昇らせる。
その揺らめきすら、重苦しく見えた。
「その世界観を、現実に滲ませる力――それも、かなり強力なもの――を持った人間が、箱内家にはいた。その力が、匡さんのいう『希宇』だ」
「……でも……その世界観に則った術を……箱内家は、人助けのために、使ったんじゃ」
「無論、そういう側面もあるよ」
吉田は白髪交じりの頭を掻いた。
「悪いものは、箱に溜まる。それは言い換えれば、それまで別の場所にあった悪いものを、箱の中に移動させるということだ。希宇を活かせば、この解釈をそのまま現実に滲ませることができる。そのようにして、彼らは瘴気や病を箱の中に封じ込めた。一種のお祓いのようなものだ」
「だ……だったら……!」
「でも、彼らがしたのはそれだけじゃないのさ」
灰皿の煙が、細くなる。
白いフィルターが、燃えてゆく。
「箱の中に、邪気を封じる。これが祓となるのは、人が箱の外にいる場合だ。ならば、箱の中に人がいるときは?」
吉田の眼が、真っ直ぐとこちらを射抜く。
疲れた瞳に映る久義は、ひどく狼狽していた。
まるでそこから先を、聞きたくないというように。
それでも、久義は歯を食いしばり、次の言葉を待った。
匡のことを、知らなければならない。
「押し込められた悪いものが、中にいる人間を蝕むのさ」
箱内の呪。
久義は、想像してしまった。
四方の閉じた空間。
光の届かない、閉鎖された箱の中。
真っ暗な視界で、肌と言わず、鼻と言わず、全身が『嫌なもの』を感知する。
それはだんだんと密度を増し、己に迫ってくる。
閉じているのだから、逃げ場はない。
そうして、嫌なものが自分に侵入してくる。
思わず、嘔吐しそうになった。
そのイメージは、あまりにも神経を掻き毟った。
塊になった不快感が、胸にうずくまって密度を増すのを感じた。
「大丈夫か、伊国」
黒枝が背中を擦ってくれた。
それでも、中々悪寒は退いてくれなかった。
久義には閉所恐怖症のきらいがある。それでも、この精神の押し潰されるような不安感は、異常であった。異常である自覚があった。
しかし、その異常に覚えがあった。
日々木を見る。
彼女の冷たい視線が、刺さる。
この目だ。
この目をしている日々木を、匡の病室で、赤黒い焔に包もうとした瞬間だ。
あの時も、このように心臓が蠢かなかったか。
あの時は、確か――。
思い出せない。
「……吉田、さん」
久義は何度も浅い呼吸を繰り返し、ようやく心音を落ち着かせて、言った。
「……それでも、今の箱内病院は……ただの、医療機関です。……箱内の呪い、なんて……もう」
「……残念だがね、伊国くん。今もかの家を囲む状況は、変わっていない。今後も変わらないだろう」
吉田は煙の混じらない、透明な溜息を吐いた。
「箱内立方が、頭にいる限りはね」
箱内立方。
匡の母親だ。
自分にも優しくしてくれる、温厚な女性だ。
吉田の言葉の意味が、分からない。
人を呪う箱内家と、友人の母親の笑顔が、どうしても結びつかない。
「……どういう、意味ですか」
「約四百人」
「え?」
「箱内立方が呪殺した人数だ」
立ち上る紫煙が凍りついた。
久義の脳味噌が、視覚情報の取り込みを停止したのだ。
それほどの衝撃であった。
「殺したのは、敵対する術士だけじゃない。非術士の女子供も、箱の中で惨たらしく死なせた。一つの派閥を潰すために、一族郎党呪殺したことすらある」
吉田は酷く疲れた目で、煙を見つめた。
「私はね、その仕事ぶりをこの目で見たことがある。恐ろしいものだった。……確かあの時は、立派な広い日本家屋だったかな。畳と言わず板間と言わず、一面、血の海になってたよ。ある者は全身の穴という穴から、どす黒い体液を垂れ流して死んでいた。またある者は骨肉を倍にまで膨れ上がらせて、骸になっていた。……しかし、一番堪えたのは」
彼はそこで言葉を切った。
気だるさとは違う、何かを強く厭うような空気が、白衣から漏れ出ていた。
「……正気を失った母親が、獣のように赤子を喰い殺していたことだ」
地獄絵図だ。
彼の口から語られる様相は、そうとしか言えなかった。
「その時にね、彼女と一緒に家の中を検分したんだ。当時の私は、非術士ながら箱内に身を置いていてね。箱内立方の肉壁のようなことをしていたのさ」
吉田は煙草を見た。ぐずぐずと崩れていく白い灰を見た。
その遠くに、彼は陰惨なものを見ていた。
「……彼女は穏やかに、笑っていたよ。満足げに頷きながら、老若男女の屍を見て、笑っていた」
久義の脳裏に、立方の笑顔が浮かんだ。
血生臭さは無縁の、温和な表情。
その表情を浮かべながら、彼女は虐殺を行ったのか。
信じられなかった。
信じたくなかった。
でも、吉田の表情は、あまりにも真剣で――。
吉田医院から出た久義は、真っ黒な器のようになっていた。
困惑、悲嘆、不信、絶望。あらゆる暗澹が彼の中に詰め込まれていた。
雨を吸い、体を冷やし、凍てつくような悪寒を抱えて、この病室に入った。
そして今、事の真相を匡に尋ねているのだった。
誰よりも信頼している、唯一無二の幼馴染に。
「……なあ、匡」
久義は縋るような声を出した。
彼女が一言、「違う」と答えてくれれば、それを信じようと思った。
吉田に教えられた箱内の闇を、虚偽と断じようと思った。
「吉田俗が、箱内の元構成員だということは、知ってるよ。……なるほど、そっか」
匡の細い指の腹が、久義の髪をすいていく。
ゆっくりと、慈しむように。
「じゃあ、彼は母さんの仕事ぶりを見てたんだね」
久義の心臓が、氷でも孕んだように冷たくなった。
なぜならば、今の匡の言葉は。
「……嘘、だろ」
「嘘って言ってほしい?」
彼女の声が鼓膜を揺らした。
依然として、静かな声だった。
「ごめんね。全て本当だよ」
静かな声で、匡は久義の願いを押し潰した。
かひゅう、と掠れた呼気が漏れた。
絶望が胸を焼いていく。
「箱内家は、そういう一族なんだ。邪悪罪業ことごとくを箱に収め、時に祓い、時に呪い、時に生かし、時に殺してきた。……そうして、ここまで育ってきたんだ」
そこで、言葉が途切れた。
一瞬の静寂。
「僕もまた、そうだ」
困ったような声が、頭に落ちた。
久義は振り返らずとも、幼馴染がどんな表情をしているのか分かった。
笑っているのだろう。悲しげに、儚げに。
「この前、院内で奇病が流行っているって言ったよね」
匡が続けた。
久義は答えない。
嫌な予感がした。
「あれも、僕がやったんだ」
歯の隙間から、苦悶の声が漏れた。
耳を塞いでしまいたかった。
そんな久義に、彼女は言葉を流し込んだ。
「病室を箱に見立ててね。瘴気を、怨念を、動物霊を患者の体に押込めたんだ。ある人は熱病にうなされ、ある人は自傷に走ったよ」
「……どう、して」
振り絞るように、尋ねる。
「訓練だよ」
彼女は静かに答えた。
「どれだけ遠くにある箱に、どれだけ惨いものをねじ込めるか。我央と希宇の強化には、実践が一番効果的だからね。……まあ、まだ呪殺には踏み切れてないけどさ」
久義は、何も言えなかった。
そこに彼の常識で測れるものは、何もなかった。
術士の合理は自分の定規から逸脱している。
どこまでも、掌の外である。
十四年間も一緒にいた彼女が、ひどく遠く感じられた。
昨晩握った手の温もりが、久遠の果てに遠ざかってしまったような。
ぽすりと、肩甲骨のあたりに熱が生じた。
あの赤黒い炎ではない。もっと柔らかな温度だ。
人の温もり。
匡の額が、押し付けられていた。
彼女は久義の背中に、顔を埋めていた。
「……あのね、久義」
匡の頭蓋を通して、声が染み込んでくる。
「僕ね、猫を飼ってたんだ。三歳の誕生日に、母さんがプレゼントしてくれた白猫を」
どうして、今そんなことを話すのだろう。
久義はぼんやりと思う。
頭の中が茹るように、輪郭を失っていく。
「名前は、シロ。ふわふわした、甘えん坊の女の子でさ。いつも一緒にいて、凄く可愛がってた」
そう語る彼女の声は、淡々としていた。
懐かしむのでもなく、ただ、淡々と。
「四歳の誕生日……久義と会う、少し前だね。その時に、母さんが僕を呼んだんだ。畳の部屋にね。いつも、僕がシロと遊んでた部屋」
匡の呟くような言葉が、久義の脳裏に像を結んでいく。
畳の部屋。
そこに、幼い匡がいる。
彼女の目の前に、白い猫がいる。
そして、母親がいる。
立方が穏やかな笑みを浮かべている。
「畳の上には、黒い箱があった」
彼女の声が、頭蓋に響く。
「母さんは、そこにシロを入れて、蓋をしたんだ」
白い猫が、黒い立方体に封じられる。
立方が笑っている。
その笑みで、彼女は数多の屍を見送ったのか。
「蓋が開いた時、シロは赤茶けた肉塊になってたよ」
胸の中にある業火が、熱を増したように感じた。
あまりにも、惨い話だ。
幼い子どもに対し、母親がしていいことではない。
娘の可愛がっていた猫を、目の前で呪殺するなど。
「箱内家では、そうやって術の下地を作るんだ」
匡の言葉が、心臓に浸透していく。
鼓動が重い。
「愛するものが、箱の中で惨たらしく死ぬ。物心がつく前から、そうした光景を何度も何度も見せつけられた。そうするとね、箱がとても恐ろしいものに思えてくるんだ。大切なものを取り殺してしまう、極小の魔窟にね」
匡の額が、少しだけ強く押し付けられる。
肩甲骨のより深いところに、彼女の体温が埋め込まれる。
高級な洗剤の匂いが鼻腔を濡らす。
「それが、僕の我央だよ」
小さな声が背中に染みる。
吐息に含まれる水分で、ぬるく湿るようだった。
「ねえ、久義」
するりと、細い腕が胸に巻き付いた。
羽毛のような柔らかさで、匡は久義を抱きしめていた。
「僕が怖い?」
心臓が呻く。
骨が震える。
神経がわななく。
久義は苦いものがこみ上げるのを、必死に抑えた。
自分が彼女を恐れてはいけない。
心の中で、焼きつけるように反復する。
湯のようなものが、頬を伝った。
涙であった。
止めなければならない。
匡は自分の、大切な人なのだから。
「……匡」
「なに?」
「……俺、さ。……馬鹿、だから。……お前が……箱内の跡取りとして、何を背負ってるのか。……見当も、つかなくて」
「うん」
「……そんな俺が……こんなこと言うのは……筋が通らないって、思うんだけど……」
「うん」
「……でも、よ。……俺……やっぱり、お前が……人を呪うのは……嫌なんだ」
「……そっか」
ゆっくりと、彼女の頭が動く。
舐めるように背中を昇り、肩口から顔が覗く。
匡の頬が、久義の首に触れる。
二人の体温が境目をなくし、溶けあっていく。
「久義はさ。僕が手を汚したら、離れていっちゃう?」
幼馴染の息遣いが、産毛に絡んでいく。
「僕は……丑の刻参りを、許したのに」
五臓六腑が焼き切れるかと思った。
如何ともしがたい苦悶の炎が、全身に充満していく。
赤黒い灼熱が、日々木と相対した時以上の速度で、存在感を増していく。
「……俺、は」
久義は口を開いた。
燃え盛る血を飲み込むように、苦痛にまみれた表情で、言った。
「……お前が……どう在っても、傍にいるよ」
心が四肢の如く罅割れていく。
この言葉は駄目だ。彼女の呪いを肯定してはいけない。友人が他者を不幸にするというのならば、やめさせなければならない。
そんな当たり前のことが、出来なかった。
匡を押しとどめることも、突き放すことも、出来なかった。
あの夜の黒い釘が、闇を焦がす蝋燭の炎が、どうしても消えてくれなかった。
罪悪感が、どうしても消えてくれなかった。
彼女は俺を許してくれた。
ならば、俺が彼女を糾弾する資格はないのではないか。
外の雨脚が強くなっていく。
甘倉の町は、暗雲に閉じ込められたまま、動かない。
唾液を飲み込む音がした。
匡が喉を鳴らしたのだ。
「それって」
湿った呼気を、彼女は漏らした。
「友達として? ……それとも」
「……お前が望むなら、肉壁でもいい」
久義は間断なく後悔しながら、答えた。
もう何も分からない。
自分が間違っていること以外は。
自分に罪があること以外は。
しばしの沈黙。
匡の抱きしめる力が、強まった。
彼女の両腕が、久義を閉じ込める。
「……んひひ。幸せ者だなぁ、僕は」
その言葉は、少しも嬉しそうではなかった。
苦痛に耐えるような、涙を堪えるような、はち切れそうな声。
そんな声を、彼女の口から聞きたくなかったのに。
衣の擦れる音がして、匡の掌が動いた。
久義の胸から腹へと、ゆっくり下っていく。
そこには、ジャンパーのポケットがあった。
久義は身を捩った。
しかし、まともな抵抗はできなかった。
力が抜けていく。
胸中にある拒絶の意思が、根こそぎ奪われたようであった。
視線だけを動かす。
病室の扉。
床。
足元。
白い箱が、靴に接するように置いてあった。
ルーズリーフで作られた、完璧な立方体。
自重を支えきれず、久義の体が傾いでいく。
脇腹に柔らかな感触があった。
匡の掌であった。
優しく、ベッドに寝かせられる。
ジャンパーのポケットに、彼女の手が入っていく。
そして、黒く小さなUSBメモリーのようなものを、取り出した。
盗聴器だった。
吉田医院で、久義が貰ったものだ。
匡は盗聴器に唇を近づけると、囁くように言った。
「吉田さん。黒枝さん。それから……久義の指を切り落とした、日々木さん」
その表情からは、何も感じ取れない。
顔の皮膚の奥に、あらゆる禍々しいものを閉じ込めているような、無表情。
「二度と、僕たちの箱に入ってこないでね」
匡は両手を結んだ。右手と左手の中に、空間が生じるように。
まるで、掌の箱であった。
箱の中に、盗聴器がある。
「【
匡が呟いた瞬間、彼女の指の隙間から、どろりと赤黒い液が漏れた。
手を開くと、盗聴器が歪んでいた。隙間から部品が顔を出し、血のようなものが垂れている。
機能を停止した、骸である。
無感情に見つめてから、近くのごみ箱に放り投げた。
彼女の視線が、再びベッドの上の久義に落ちる。
深淵のような、黒い瞳であった。
匡は大きな深呼吸をして、ベッドに寝転んだ。
久義の頭を腹に埋めさせるようにして、抱きしめる。
「大丈夫だからね、久義」
穏やかな声が、鼓膜を揺らす。
赤子を慈しむ母のような声。
「今度こそ、僕が護るからね」
消えていく。
罪悪感も、絶望も、このままではいけないという意思も。
全てが、まるで羊水に溶けるようにして、正体を失っていった。
久義の涙が、シーツの上に僅かな染みを作った。
雨音が、遠ざかっていった。
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