既知は白く霞んで
「ほらね、伊国くんは私たちの味方だって言ったでしょ。それなのに日々木さんときたら、意気揚々とタコ殴りにしたそうじゃないか。蛮族の生まれなのかい?」
「伊国久義は吉田さんだけでなく、箱内匡の味方でもあります。昨日の段階ではどちらに着くかが分かっていなかったので、ひとまず半殺しにしただけですよ」
「『ひとまず』って表現の後に『半殺し』って続けるようなやつを蛮族ってんだよ。思考回路にパンツ履かせとけ馬鹿」
吉田が疲れた顔で日々木に言った。
日々木が淡々と吉田に言った。
黒枝が青筋を立てて日々木に言った。
そんな彼らに、久義はおずおずと言った。
「……あの……その、焼きおにぎり……」
三人の視線がこちらに向く。
それぞれの手に、焼きおにぎりが抓まれている。
「ああ、伊国くん。差し入れありがとうね。いやはや、この焼きおにぎりは絶品だ。手が止まらないよ」
「気を付けてください。胃袋を掴むことで、この男は私たちに取り入るつもりかもしれません」
「何だその新妻みてぇな戦術は。てか、そう言いながらお前が一番食ってんじゃねえか。伊国の分がなくなるだろ、自重しろ下っ端」
「術士は体が資本です。食べられる時に食べておかないと」
(何でこの人達は俺に断りなく貪ってるんだろう。夢なら覚めてくれ)
久義はタッパーに所狭しと入っていた焼きおにぎりが、どんどん減っていくのを眺めていた。なんともバイタリティーの溢れる光景だ。悪夢である。
吉田医院が術士派閥と聞いたのは、院内に入ってすぐのことであった。
「私たちはこの通り、零細組織でね。地域医療に携わりながら、他の派閥からの依頼なんかを受けて、細々と活動しているんだ」
白衣の医者は白髪交じりの頭を掻きながら、無気力に言った。
「依頼……ですか」
「そうそう。失踪した術士探しとか、怪物退治の助っ人とか、黒枝さんの薬の横流しとか、色々ね」
「平たく言えば、術士界隈の何でも屋だよ」
吉田医院の薬剤師である黒枝が、眼鏡を押し上げながら言った。
「巨大な組織じゃあ理念やら対外関係やらで手を出せない仕事を、代わりに請け負ってんだ。この前は、霊魂の存在を認めていない宗教組織から、悪霊祓いの依頼を受けたぞ。結構割が良かった」
(やっぱり幽霊って本当にいるんだ)
久義は少しばかりピント外れな感想を抱いた。
そんなやり取りを終えて、現在に至る。
彼らは今、六畳ほどの和室で、ちゃぶ台を囲んでいた。
医院二階の一室である。何でも、吉田は普段ここで寝泊まりしているようだ。生活感溢れる宿直室である。
久義は既に、ことのあらましを伝えてある。
日々木歌子が、箱内匡を襲ったこと。
彼女が、吉田俗及び黒枝一樹に危害を加えないか心配になり、ここにやってきたこと。
そして玄関先で、戦闘する羽目になったこと。
一般人の大山大悟が、二回ほど自爆して気を失ったこと。
貧弱な語彙を駆使した説明に、彼らは耳を傾けていた。
傾けながら久義のバッグを漁り、焼きおにぎりを食べだした次第である。
ちなみに、こちらから許可は出していない。
「とりあえず、久義くんがここに来た理由は分かったよ」
吉田は指についた醤油を舐めながら言った。
「まあでも、実際にはこの通りさ。日々木さんは、我が吉田医院の従業員だよ。一週間ぐらい前に、派遣されてきたんだ」
「派遣……ですか」
久義が問うと、吉田は頷いた。
「私達と友好関係にある術士派閥がね。『将来有望な若い術士がいるから、そっちで鍛え直してくれ』って感じで、彼女を紹介してくれたのさ。うちも人材不足だから、これ幸いと飛びついたんだよ。……まあ、開けてびっくりな狂犬を掴まされたわけだけど」
吉田がくたびれたように溢す。
そんな言葉は聞こえないとばかりに、日々木が四個目の焼きおにぎりを食べた。ちなみに久義はまだ手をつけていない。
黒枝が三個目に手を伸ばしながら、彼女を睨む。
「おい、日々木。もう一度聞くが、さっきの小競り合いで術は使わなかったんだよな? 非術士にバレたら記憶処理なり何なり、後始末が面倒だぞ?」
「見くびらないでください、黒枝さん。ちゃんと素手で戦いました。人除けもしてないのに、一般人の前で術なんて使いませんよ」
吉田は煙を溜息と共に吐いた。
「できれば、一般人の前での戦闘も止めてほしいんだけど。どうすんの、あの坊主頭。取りあえず下の階に寝かせてるけどさ」
大悟は既に吉田医院のベッドの上だ。ちなみにそこまで運んだのは久義である。吉田や黒枝は勿論、元凶の日々木も手伝ってくれなかった。世の不条理が分かる一場面であった。
「忘れさせればいいじゃないですか」
日々木はもぐもぐと口を動かしながら、無表情で言った。
「私の石然り、黒枝さんの薬然り、記憶を弄る方法なんていくらでもあるでしょう」
「あのねえ、日々木さん。普通ならバレるバレない関係なしに、一般人の近くで術を使うこと自体が良くないからね。ここは記憶が飛ぶぐらいの物理的な衝撃を与えるのが正解さ」
「術士以前に人として不正解だろうが」
「そう言いながら私の頭を叩くんじゃないよ。何を喋るか忘れちゃったじゃないか」
「黒枝さんの鉄拳で殴りつけるのが一番効果的だと立証されましたね」
笑顔こそないが、がやがやと賑やかな食卓を前に、久義はポカンとしていた。
しかし、このまま会話と共に焼きおにぎりが消費されていく様を、静観しているわけにはいかない。
何より、聞くべきことがあった。
「……あのっ」
再び、三人の視線がこちらに向いた。
久義は少しだけ緊張しながら、ゆっくり切り出した。
「……日々木さんは、どうして匡を襲ったんですか」
昨日の病室で、彼女が幼馴染に刃を向けた理由。
それを知らないことには、話を進められなかった。
日々木はようやく、焼きおにぎりから手を離した。
その瞳に、冷淡な色が宿る。
「理由を知って、どうするんです。この場で、先程の続きをしますか」
じわり、と久義からも殺気が漏れる。
六畳に敵意が満ちる。
「何だってそう喧嘩腰なんだお前は」
黒枝の拳骨が日々木の脳天に落ちた。
ゴツン、という音が部屋に響く。聞くだに痛そうである。
久義は目を丸くしていた。知り合いの薬剤師が、不思議な力を持つ少女を容易く制しているのを見れば、誰だってそうなるだろう。あまりにも衝撃的だったため、その巨躯に纏う殺気は霧散していた。
頭を押さえる日々木を尻目に、黒枝は言った。
「悪いな、久義。一応……やむにやまれぬ理由はあるんだ。でも、詳しくは伝えられないんだよ」
「……どうして、ですか」
久義は尋ねる。その眉は、緩く八の字を描いた。不安のせいだ。
それでも、黒枝は静かに言った。
「お前が箱内側に付く可能性が高いからさ」
「それって……つまり……」
「我々は今、箱内の敵ということだよ」
吉田がいつもと同じように、気だるげに言った。
久義は、自分の顔に影が落ちるのを感じた。
確かに、この医者は日頃から箱内病院を目の敵にしている。
しかし、それは半分ポーズのような、取るに足らない敵対心だと思っていた。
それなのに、彼は。
彼の息がかかった、日々木は。
匡を、切りつけた。
「な……んで……」
久義は絶望で、喉が狭まるような思いがした。
胸に生じた苦しみが、吐き気と共にせり上がってくる。
嫌な汗が、びっしりと肌に浮いた。
「よ……吉田、さん。お……れ……」
言葉を絞り出そうとする。しかし、上手く形にならない。途切れ途切れの呼気が、ひゅう、と乾いた音を漏らす。
その背中を、摩る手があった。
「無理すんな、伊国」
黒枝だった。
優しい声で、彼女は続けた。
「お前が匡と、あたしたちのことを大切に思ってるのは分かってる。ごめんな、苦しいよな。お前は優しい奴だから、板挟みになっちまうよな、そりゃあ」
ぐぐ、と久義の喉から声が漏れる。声にならない声だ。目が潤むのが自分でも分かる。背中に感じる黒枝の体温が、じんわりと眼元に移っていくようだ。
それでも、このまま黙っていたのではいけない。
何とかして、匡を護らねばならない。
深呼吸をして、もう一度吉田を見る。
「……吉田さん。……術士が……違う派閥同士、争うことがあるのは、知ってます」
「ふむ。匡さんから聞いたのかい」
吉田の問いに、久義は頷いた。
恐らく、箱内家と吉田医院は、それぞれ敵対する派閥なのだろう。
日々木が匡を襲撃したのも、そこに理由があると思った。
何とかして、妥協案を見つけられないだろうか。
久義は、はらわたを削ぐような苦しげな声で、言った。
指の腹を、ざりざりと擦り合わせながら。
「……吉田さんの目的が何なのかは、分かりません。……でも、その目的……箱内の……匡の血を流さずに果たせませんか。やっぱり、俺……あいつが傷つくのだけは……嫌なんです」
「出来るよ」
「……え?」
久義はきょとんとした。
そんな彼に、吉田はあっさりと言った。
「いや、だから出来るよ。匡さん含む箱内家の面々を傷付けず、私たちが目的を果たすこと」
渦を巻いていた嫌なことが、突然掻き消えてしまい、久義は動揺した。
思わず、黒枝を見る。
彼女もウンウンと頷いていた。
日々木だけが、無表情である。
「ただし、条件が一つ」
混乱する久義の前で、吉田が人差し指を立てた。
「目的達成のため、伊国くんに協力してもらいたいことがある。それでもいいかい?」
久義はハッとした。
そのクマの濃い目に、炎が灯った。
喜びの火。
「も……勿論です! お、俺に出来ることなら……何だって……!」
何度も、何度も頷いた。
とても、嬉しかった。
何はともあれ、匡が害されることなく、吉田と敵対することもない道が存在する。
それが分かっただけで、とてつもない安堵が胸に降りた。
「じゃあ、めでたく同盟が結べたところで」
そんな彼に、やはり倦んだ目で吉田は尋ねた。
「久義くんに、いくつか質問をさせてもらっても良いかな? 目的のために協力するなら、互いの術や術士に対する理解を、共有しておく必要があるからね」
「な、何でも聞いてください……!」
「じゃあ、まず一つ目」
吉田は新しい煙草に火を点けながら、言った。
「君が術士や、術の存在について知ったのは、いつのことだい」
嘘を吐く意味もないので、正直に答える。
「日々木さんに……襲われてからです。……術の原理とかについて聞いたのは、昨晩から」
「そうなのか。……じゃあやっぱり、普段のアレは無意識だったんだな」
そう言ったのは黒枝であった。
「伊国、気付いてたか。お前は今までも、術を行使してたんだぜ」
久義は理解した。
彼女はきっと、あの謎の知恵熱のことを言っているのだ。
自分が思い悩む時、必ずやってきて身を焼いた、不可視の業火。
しかし。
「……何で、分かるんですか? ……俺が、術を使ったって……」
「分かるんだよ」
黒枝は苦笑した。
「術士ってのはな。他人の術の発動を、気配みたいなので感じ取れるもんなのさ」
「逆に術を使ってなければ、相手が術士かどうかを明確に知ることはできない。足運びや間合いの取り方で、推測するのが精一杯だね」
吉田が、彼女の言葉を引き継ぐように語った。
いずれも、初めて知ることばかりだ。
「そう、なんですね……」
久義は頬を掻きながら、独り言のように溢す。
「そこら辺のことは……まだ、匡から聞いてなくて……」
「成る程ね。じゃあ、二つ目の質問。君が今抱えている術関係の情報は、全部匡さんから聞いたってことでいいかな」
頷く。
「三つ目。匡さんは術や術士に対して、君にどんなことを教えた?」
久義は眉間を揉み、記憶の掘り起こしに努めた。
匡の説明を受けてから、まだ時間は経っていなかったので、大まかなところは思い出すことが出来た。
順を追って伝えていく。
その殆どは、我央、彼周、希宇に関連するもので占められていた。
我央は主観。自分にとっての世界。
彼周は事物。ただあるだけの世界。
希宇は力場。我央を彼周に滲ませるための存在。空想を現実に変える力。
我央と希宇は、術を使うほどに強化されるということ。
希宇は遺伝などによる傾向性があるということ。
そして、久義が術士となった要因について。
「なるほどね」
話を聞き終えた吉田が、納得したように言った。
「我央に彼周に希宇。その三語を作り出すことで、術が発生する理屈を説明したわけか。中々クリエイティブだね」
「そうかぁ? いわゆる中二病じゃねえかな」
黒枝が首を傾げるのを無視して、彼は続けた。
「一応伝えておくとね、伊国くん。それらの単語は、匡さんオリジナルだ。君にはなじみ深い概念だろうが、他の術士にとってはチンプンカンプンな代物だから、それだけ知っておいてね」
「匡のいう『希宇』に該当する単語なら、あるっちゃあるぜ。国内で一般的なところでは、『
未だ知らない術の常識が、厚みを増していく。
それが異能や、異能を取り囲むあらゆる事柄に、現実味を帯びさせる。
久義は今頃になって、己が本当に非日常に足を踏み入れたのだと自覚した。
「……別の、術士と言えば」
久義は、先ほどからぼんやりと気になっていることを、尋ねた。
「……吉田さんや黒枝さんも……その……術士、なんですか?」
無言で煙草を吹かせる吉田に代わり、黒枝が答える。
「あたしはそうだが、このヤブ医者は違うぞ」
久義は驚いた。
見る限りだと、吉田はこの派閥の長であるように感じる。
そんな彼が術士でないなど、ありえるのだろうか。
「まあ、そんなこともあるさ」
吉田は煙をくゆらせながら、何でもないように言った。
「匡さんの説明では、『希宇』は誰しもが持つものなんだっけ。でも、私のように全く持たない人間も、いることにはいるんだ。かなり少ないんだけどね」
そういうものなのか。
久義は、まだ自分の知らないことが沢山あるのだと、改めて思った。
その時である。
「しかし、腑に落ちませんね」
日々木であった。
今まで沈黙を守っていた彼女が、張りつめたガラスを砕くように、口を開いた。
無表情のまま、淡々と続けた。
「箱内匡は、強力な術士が近くにいるだけで、『希宇』は育つと言っていたのですよね」
冷たい視線が、久義に向けられる。
無意識のうちに、体が硬くなる。
警戒心を抱えながら、頷く。
「……はい、そうですけど」
「そんなことは、ありえません」
日々木はきっぱりと言った。
久義は、呆気に取られた。
困惑で、肉体の硬直が引き抜かれたようになる。
「ど……どういう、ことですか?」
戸惑いながらも、尋ねた。
日々木は表情を変えることなく、言った。
「いいですか? 世界中に、術士はかなりの数存在するんです。そんな彼らが、一般人と隔絶して生活することは不可能です。術士は日々、彼らと触れあって生きているのですよ」
日々木は淡褐色の視線で、こちらを射抜いてきた。
「術士の近くにいるだけで『希宇』が育つならば、一般人はどんどん異能に目覚めていくでしょう。ネズミ算式に術士が増えていきます。一年も経たないうちに、吉田さんのような例外を除き、全人類が超人になってしまいますよ」
訳が分からなかった。
匡の言葉が、間違っていたというのか。
しかし、そうだとするならば――。
「……じゃあ、どうして俺は術なんか」
少なくとも、久義は自らを一般人だったと考えている。
匡との交流を除けば、普通の人間と同じような生活を送ってきたと思っている。
もしも術士との接触が、希宇の喚起と関係ないならば、自分は今でも一般人である。
もちろん、術だって行使できるはずはない。
赤黒い炎など、湧き起こる訳がない。
しかし、実際には業火に焼かれる羽目になった。目の前の日々木を巻き添えにして。
久義の希宇は、それほどまで強まっていたのだ。
日々木は視線を逸らすことなく言った。
「貴方は、術士の家系ですか?」
その問いに、「違うよ」と答えたのは吉田であった。
「伊国くんのお父様お母様とは知り合いだから分かるけどね。彼らはまごうことなき一般人だ。その血に、術士としての歴史はないし、力もないよ」
吉田は天井を見上げた。ゆっくりと、白い煙を噴き上げる。霧のように揺蕩い、薄まっていく。
彼は、言った。
「突然変異でないなら、考えられる理由は一つだ」
けだるげな瞳が、久義を映した。
「君は過去に、強力な術に晒されたことがあるんじゃないか」
「強力な、術……ですか?」
吉田は頷いた。
「言っただろう。一般人の近くで、術を使うのは好ましくないって。あれはね、術の存在がばれて社会が混乱するのを防ぐ以外にも、術士が必要以上に増えないようにっていう狙いがあるんだ」
「……と、言うと?」
「術に晒されるとね、伊国くん。匡さんの言う『希宇』が、強まってしまう恐れがあるんだよ」
吉田は煙草を灰皿に擦りつけながら、いかにも胃が痛むという顔をした。
久義は、彼の言葉がよく分からなかった。
分からなかったなりに、嚥下しようとする。
「じゃあ、俺の場合……昨日の戦闘で術に晒されたから、一気に希宇が強まったってことですか」
「……いや、違う」
吉田は首を横に振った。
「黒枝くんも言っていたように、君は昔から無意識のうちに術を発動させていた。昨日よりも前の時点で、希宇を目覚めさせるイベントがあったのだと考えたほうがいい」
久義は戸惑った。
記憶になかったからである。
頭のどころを掬ってみても、術に晒されたという経験は出てこない。
身に覚えがあるとすれば、あの夜の丑の刻参りぐらいである。
しかし、もしもあの儀式が術になっていたのだとすれば、その元となる希宇が必要なはずだ。
希宇に目覚めたのは、あの夜よりも以前でなければならない。
そして、そんな記憶はどこにもないのだ。
「分からないことは、他にもあります」
そう言ったのは、日々木だった。
「箱内匡は、腐っても箱内家の跡取りです。既に術や術士に関する基本知識は叩き込まれているはず。術士が近くにいるだけでは術士になれないことなど、とっくの昔に理解していなければおかしい」
「……間違えて、教えてくれたんでしょうか」
久義の問いに、日々木は無表情で言葉を紡いだ。
「あるいは、あえて隠したか」
隠した?
匡が俺に、隠し事をしたのか?
何のために?
疑問がぐるぐると、湧いてくる。
久義は深呼吸をした。
ただでさえ、色々な新知識が乱舞する状況なのだ。
出来る限り冷静でいないと、事態の一割も飲み込めない。
ひとまず、彼は尋ねた。
「……でも、何のために」
「簡単ですよ」
日々木は顔色を変えずに、言った。
「隠さねばならない事情があったのでしょう。それがバレたら、久義さんが反旗を翻すような何かを、抱えているんじゃないですか」
「……俺が、反旗を? ……そんなことは、ないと思うけど」
「どうして断言できるのです? 言っておきますが、術士は秘密が多い存在です。ただの友人が知らされている事実など、小指の先ほどもないと思いますが」
久義は黙った。
堰き止められたように、言葉が出なかった。
確かに、自分は匡の何を知っているのだろうか。
少なくとも、彼女が不思議な術を行使することなど、昨日の朝は全く知らなかったではないか。
「……でも」
それでも、久義は言葉を絞り出した。
「……匡が、どんな秘密を抱えてても。……俺は、あいつの味方だ。……それだけは、絶対に変わらない」
たとえ、彼女が自分に対して、どんな目的でどんな隠し事をしていても、反旗を翻すようなことはしない。
久義は、そう決めていた。
丑の刻参りを許された、あの日からずっとだ。
「絶対なんて言葉、簡単に使うべきではないですよ」
それでも、日々木はどんな反応も見せることなく、淡々と言った。
「随分と箱内匡にご執心のようですが。そもそも、貴方は知っているんですか? 箱内が、どういう血族なのか」
「……え? し、知って……ますよ。……大昔から、この土地の人を癒し、救ってきた一族でしょう」
匡は、そう言っていた。
自分達が、この甘倉にて精神医療に携わってきた術士の家系なのだと。
立派なことだ。
少なくとも、日々木のように平気で人を害するような術士より、よほど立派だ。
口にこそ出さないものの、久義はそう思った。
そんな彼を、日々木は冷たい目で見つめていた。
今までと、どこか違う温度の視線であった。
どこか、憐れむような。
「伊国くん」
数秒の沈黙を破ったのは、吉田であった。
彼はゆっくりと煙を吐くと、灰皿に煙草を置いた。
まだ、僅かも吸っていない、新品同然の煙草である。
嫌な予感がした。
この医者が、自ら煙草を手放すことは少ない。
そのくたびれた目に、厳しい光を宿すのも。
吉田の真剣な顔が、久義の心を掻き乱す。
「どんな煌びやかな箱も、四方が閉じれば、必ず暗闇を囲むものだよ」
そして、彼は語り出した。
窓の外で、ぽつぽつと音がする。降り出したらしい。
雨滴の温度が、室内を冷たく満たした。
久義は、心の底が煤けていくのを感じた。
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