火のない所に
(まさか焼きおにぎりのタッパーを渡されるとは)
久義はそんなことを思いながら、曇天の下を歩いていた。
肩から提げたバッグには、匡への差し入れが収まっている。
母に持たせられたのだ。「すーちゃんのところに一か月も世話になるのだから、手土産ぐらい持って行きなさい」とのことだった。
家族には箱内家でお世話になると伝えてある。
理由は「あちらの使用人が産休に入るので、代わりの人間が見つかるまでの間、住み込みで手伝いをする」という風に、でっち上げた。
(お袋も親父も、深く詮索しないでくれて助かった)
久義は自分に似て、口数の少ない父母を思い返した。彼の家はコミュニケーション能力欠如者の集まりなので、何かを深く問いただすようなことはしない。他人に電話をするのも苦手な性質なので、おそらく箱内家への裏取りもないだろう。
それにしても、箱内のような裕福な家庭への手土産が、高価な菓子などではなく、お手製の焼きおにぎりだとは。久義の好物を考えなしに持たせたのだろうが、流石のぼんやりである。自分は母の血が濃いのだろうなと、これまたぼんやりと思う。
(でもまあ、顔が見れてよかった)
父母の顔を思い浮かべる。両者共に無口だが、それでも愛情は誰より深かったと感じる。久義はそんな二人のことを、確かに愛していた。
出来ることならば、また会いたい。
そのためには。
(匡に、鍛えてもらわないと)
自然と、手を握りしめていた。固くなった肌が、ぎちり、と音を立てる。
強くならねばならない。
少なくとも、日々木を倒せるぐらいには。
(でも、その前に)
久義は足を止めた。
目の前には、やや古びた二階建ての木造家屋がある。
玄関には取ってつけたように、『吉田医院』と表札があった。
ブロック塀で囲まれたそこには、顔なじみの医者が、顔なじみの薬剤師と共に、暇そうに働いている。
日々木歌子に気を付けろと、彼らに伝えねばならない。
あの少女は、危険だ。
あの少女は、貴方達を知っている。
恐らく、俺が貴方達を大切に想っていることも。
(場合によっちゃ、しばらく箱内家に匿ってもらった方が良いだろう)
そんなことを考えながら、久義は灰色のブロック塀の中に、入ろうとした。
その時である。
「久義さーん!」
耳に馴染みのある能天気な声が聞こえてきた。
そちらに視線を向ければ、見慣れた坊主頭が手を振っていた。
「……大悟」
名前を呼ぶと、唯一親しい後輩である大悟が、嬉しそうに駈け寄ってきた。
「お疲れ様です! 奇遇っすね、こんなとこで会うなんて」
「ああ、そうだな。……お前も、吉田医院に用か?」
尋ねると、彼は苦笑しながら頷いた。
「そうなんすよ。いやー、実は血便と血尿が出ましてね。そんで、昨日久義さんにこの病院のこと教えてもらってたの思い出したんす。……あれ、久義さんもどっか体調悪いんすか? もしかして、昨日の熱がぶり返したとか?」
大学の食堂で、久義が炎熱に悶えたことを言っているのだろう。
あの後、透明な石のお陰で復調した彼を見て、大悟が目を丸くしていたのを思い出した。
久義は首を横に振った。
「いや……お陰様で、体調は悪くない。……ちょっと、吉田さんと世間話に来たんだ」
「え、お知り合いなんすか?」
「子どもの頃からのな」
そう答えてから、久義はあることを思い出した。
「……あ、そうだ。大悟、悪いんだが電話番号教えてくれないか」
「え? 何でですか?」
「……野暮用でな、しばらく大学に出れないんだ。……その間のレジュメとか、レポートの有無とかを……電話で聞ければな、って思って」
もちろん、野暮用の内容は言わない。一般人である大悟に対し、「術士として修業するから」なんて伝えた日には、慈悲深い目でカウンセリングを提案されるだろう。
「別に、良いっすけど」
(持つべきものは友だなぁ)
じーん、と感動する久義に、大悟はメモ用紙に電話番号を記すと、渡してきた。
渡しながら、言う。
「でも、俺達かなり前に番号交換しませんでしたっけ」
「え? ……あ、いや……実は昨日……なんか、スマホが燃えてな」
「……ネット炎上的な意味っすか?」
「……いや、物理的に」
「久義さん、ン・ダグバ・ゼバとタイマン張りました?」
大悟が困惑のあまり、よく分からないことを抜かす。しかし、本当のことを言う訳にもいかないので、否定せずにおく。「なれたんだね、究極の力を持つ者に……」とか何とか聞こえたが、無視する。
「取りあえず、中に入ろう」
大悟に先に入るよう促しながら、久義は周囲に視線を巡らせた。
日々木の姿はない。
何かが起こらないうちに、事を済まさねばならない。
「……急がなきゃな」
「何をですか?」
首筋の産毛が、全て逆立った。
背後から聞こえた敬語。
大悟のものではない。
鈴を転がすような、可憐な少女の声。
聞き覚えのある、恐ろしい声。
振り返った時には、腹部に突きを入れられていた。
胃袋が拳の形に歪み、内容物がせり上がる。
衝撃でバッグがずり落ち、地面に転がる。
ブロック塀にもたれるようにして、久義は前を見た。
緩やかにウェーブがかった亜麻色の髪が、美しく揺れている。
日々木歌子が、立っていた。
腹部にうずくまる苦痛を蹴散らすように、怒号が響いた。
「テメェッ! 久義さんに何しやがる!」
言うが早いか、久義の視界で大悟が跳んだ。
ドロップキックだ。
全身をダイナミックに伸び縮みさせて、坊主頭の両脚が日々木に迫る。
それを、彼女は難なく避けた。
「ほげぇ!」
大悟は勢いよく地面に転がった。着地のことを考えず飛び技を繰り出したようだ。中々の思い切りの良さである。
「大悟……! 大丈夫か……!?」
「何のこれしきぃ!!」
すぐさま立ち上がる。だばだばと鼻血が出ていた。顔面から着地したらしかった。間抜けである。
大悟は鉄臭い鼻息をふんすと噴き出し、日々木に人差し指を向けた。
「おいこら亜麻色の髪の乙女この野郎!! そこにおわす御方をどなたと心得る! こんな俺にも優しくしてくださった聖人君子、伊国久義さんであらせられるぞ!!」
「知りませんよ。というか、誰ですか貴方」
「あぁん!? 俺が誰かだとぉ!?」
日々木の問いに、大悟は「ぐっへっへ」と怪しい笑いを漏らす。顔も相まって三下の悪役感が半端ではない。
彼は親指で自らを指さし、堂々と叫んだ。
「聞いて驚け、見て笑え! 我こそは久義さん一の子分、大山大悟じゃボケェ!!」
(その前口上を『おじゃる丸』以外で聞くことになるとは)
久義は若干狼狽えながらも、二回ほど深呼吸をする。
少しだけ、回復した。
図らずしも、大悟が時間稼ぎをしてくれたことになる。
「……やっぱり、持つべきものは友だなぁ」
ほんの少し、久義は微笑んだ。
「何が可笑しいんです?」
日々木の拳が飛んできた。
左である。
右腕で弾く。痛みはない。角質化の進んだ彼の四肢は、鎧のように堅牢だ。
それは、攻撃においてもアドバンテージとなる。
久義の右足が、大地を踏み抜く。
背骨を捩じる。
肩甲骨を捩じる。
左の拳が、風を纏う。
どぐぅっ! と重い音が響いた。
日々木の靴が、地面を擦りながら後退する。
術で強化していないにもかかわらず、久義の鉄拳は凄まじかった。
それでも。
「……強いな、あんた」
苦々しげに、久義は言った。
体重の乗った、これ以上ない一撃だったはずだ。
それなのに、日々木への有効打にはならなかった。
「腹部に入らなくて良かった」
日々木が無表情で溢す。
その腕が、十字に重ねられていた。
接触の瞬間、これで防御したのだ。
彼女もまた、堅牢であった。
「石のような拳ですね。巻き藁でも突いて、鍛えたんですか」
腕を解きながら、日々木が言う。
その瞳は、依然として冷たい。
「俺もいるぜぇ!!」
大悟が再び、日々木に飛び掛かった。
フライングクロスチョップである。
「……」
日々木は何のリアクションもなく、これを避けた。
大悟がブロック塀とキスした。「ぶべらっ!!」と断末魔が聞こえる。
「大悟、もう下がれ……!! 緊張感がなくなる……!!」
「何しに来たんですか貴方は」
「お、俺が死んでも代わりがいるもの……」
日々木にまで誹られながら、大悟は地に伏した。自爆のダメージで気絶したようだ。神武以来の役立たずである。
久義は改めて構える。
構えながら、思う。
(日々木さんは、どこから出てきたんだ)
先程、周囲を見渡した時には居なかったはずだ。
突然背後に立たれたのだから、ブロック塀の裏側に潜んでいたわけではない。
それこそ、空から降ってきたのでもなければ、あの出現には納得がいかない。
空から。
上から。
(まさか)
久義のこめかみに、冷たい汗が滲む。
日々木は、上から降りてきたのだろう。
では、上とはどこか。
吉田医院は、二階建てである。
「……お前、今までどこにいた」
「この小さな病院以外で、選択肢があるなら教えて欲しいですね」
日々木は無表情に言った。
久義の眉間に皺が寄る。凶相が際立つ。
「吉田さんたちに……何かしたのかっ……!?」
「さあ、どうでしょうね」
轟ッ、と血が熱くなるのが分かった。
肌の内側で炎がくねっている。
俺は、間に合わなかったのか。
罪の意識を薪にして、赤黒い熱が充填されていく。
「……殺してやる」
久義の瞳が、憤怒で焦げ付く。
「同感です」
日々木は透き通った氷のような眼で、何でもないように言った。
骸が転がるまで、終わらない戦いであった。
「あー、そこまでにしてくれないかいお二方」
その声が、響くまでは。
久義は、目を見開いた。
彼の目の前で、日々木がゆっくりと構えを解いたから――。
だけではない。
声のほうを見る。
「死なれたら困るよ。治療費をふんだくれないじゃないか」
声の主が、言った。
依然として、医者にあるまじき台詞である。
医者にあるまじき咥え煙草である。
医者にあるまじきよれよれの白衣である。
医者にあるまじき、気だるげな顔見知りの男が、立っている。
吉田俗が、立っている。
「話はあとだ。とりあえず、病院に入ってくんない? 閑古鳥が鳴いてるうちに」
煙をくゆらせて、締まりのない顔で、そう言った。
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