鎚音が聞こえる




「なんやかんやで、フィジカルだよね」


 匡はパジャマの袖をまくりながら、言った。

 午前八時。二人で職員の用意してくれた朝食を食べた後のことである。


「……フィジカル?」


 久義は首を傾げながら、黒いジャンパーをハンガーにかけた。

 既に私服に着替えている。

 箱内病院側が用意してくれたものだ。

 それも、昨日の戦闘で燃えてしまったものと、同じ服を一式。

 代金は払わなくていいとのことだった。久義はどうにも申し訳なかったが、想定外の出費は望むところではないので、好意に甘えることにした。


「そうそう。なんやかんやで、腕っ節の強さっていうのは、最低限必要ってこと」


 匡はそんなことを言いつつ、部屋の隅にあるキャスター付きの机を引っ張ってきた。久義の買ってきたお守りが、これでもかと入っている机だ。

 首を傾げていると、匡は机の上に肘をついた。


「……何してんだ?」


「見て分かるだろ? 腕相撲だよ、腕相撲」


「……何で?」


「君と僕との力の差を教えてあげようと思って」


 唇の端を吊り上げて、匡はあくどい笑みを浮かべた。くけけけ、と悪役めいた笑い声まであげる始末だ。

 久義は匡の真意を図りかねたが、とりあえずは言う通りにした。


 彼女の白い手を握る。

 すべすべとした、小さな手だ。

 彼の異形めいた掌とは、何もかもが違う。


 掌だけではない。

 腕の太さだって、二回りは違う。

 そもそもの長さも違うので、久義は彼女に合わせて、肘の位置や腕の角度を、調節しなければならなかった。

 筋肉の発達した自らの剛腕と、匡の細腕を見比べて、思わず尋ねる。


「……何か、ハンデとか必要か?」


「ん? じゃあ、君だけ両腕でやってみる?」


 ニヤニヤと、彼女が答える。

 久義は、昨日の戦闘を思い出していた。

 確かに、匡の動きは随分と俊敏だった気がする。

 日々木を吐血させるほどの重い裏拳も放っていた。

 だが、あの一撃はタイミングや重心移動など、テクニックを駆使した果てに生まれたものではなかったのか。

 匡の肉の少ない腕を見ていると、そう思わざるを得ない。


「……いや、いいよ」


 久義は机の上に、肘を固定した。

 右腕である。

 匡が言った。


「とりあえずさ。腕に力込めてみてよ」


「力?」


「うん。思い切り、ぐっとね」


 そうは言われても、全力を出して彼女に怪我をさせる訳にはいかない。

 久義はひとまず、三割ぐらいのパワーで臨むことにした。

 太い腕に、力が満ちていく。

 匡の腕は、びくともしない。

 続いて、五割。

 びくともしない。

 七割。

 びくともしない。

 八割。

 九割。

 そして、十割。

 全力。


「……マジ、か」


 久義は、呻くように言った。

 その太い腕は筋肉が膨らみ、岩のようになっている。

 一方の匡の腕は、まるで朝のトーストを食べていた時と同じように、ほっそりとしたままだ。


 それなのに彼女の細腕は、久義の全力を物ともしなかった。


 大地に根を張る大木と腕相撲をしたら、このようになるのではないか。そう思ってしまうほど、歯が立たなかった。


「へえ、結構強いんだね久義。術を使わずにこれなら、将来有望だね」


 ニコニコと、匡がいう。

 その白い掌から、ゆっくりと力が滲んできた。

 こんこんと湧き出る剛力が、久義の腕を押し流していくようだ。

 すぐに、彼の手の甲は地に伏した。

 これ以上ないぐらいの惨敗だった。

 汗を拭う久義に、涼しい顔で彼女は言った。


「これも術だよ」


「……お前の術は、白い箱じゃあないのか」


「あれも僕の術さ。でもね、久義。別に僕の我央は、立方体で占められてる訳じゃないぜ。まあ僕に限らず、人は誰だって複雑な我央を持ってるのさ」


 匡は机から、ルーズリーフとシャープペンシルを取り出した。

 白い紙に、黒い字で『我央』と書く。その周りを大きな四角で囲む。その中心に線を引き、箱を二つに分ける。

 そして彼女は、それぞれに『箱内限定』、『一般共通』と書き込んだ。


「僕の我央をざっくり分けると、こうだ」


 彼女は言った。


「この『箱内限定』と書かれているのが、箱内家だけで共有されてる我央だ。特殊な環境、教育、修練でのみ形作られるので、他の術士では獲得できない」


「……『一般共通』は、何なんだ」


「読んで字の如くさ。特別な環境にいなくても、普通に生活していれば形成される我央だよ。例えば『筋力はアップする』とか、『傷は治る』とかね。久義にだって、覚えはあるだろう?」


 少しだけ考えて、頷く。筋力の向上。傷の治癒。確かに、覚えはある。というより、生きとし生ける者全てが経験済みだろう。

 久義の鍛え上げられた肉体も、超回復の賜物である。


「誰でも形成しうる我央っていうのはね。そのまま、誰でも使える基本的な技術を生み出すんだ」


 匡はペンで書かれた箱をつついた。


「さっきの『一般共通』の我央だと、前者は『身体強化』、後者は『自己回復』って感じの術を導き出す。だから、どんな術士であれこの二つは持っていると考えていい。もっとも、それぞれ術を発動する理屈は、属する流派によってアレンジされてることが多いけどね。道教なら内丹術、シャーマンなら神懸かりという感じに」


「……箱内家は、どうなんだ?」


「うちは、そうだなあ。自己回復の術は、傷とか病を箱に吸い取らせる感じ。身体強化は、自分の肉体を箱に見立てて、そこに動物霊とかの筋力を宿らせるって感じかなあ」


 久義は目を見開いた。


「動物霊って……危なくないのか、それ」


「大丈夫大丈夫。動物霊って言ったって、実際に存在するものを捕まえる訳じゃない。自分の想像が生み出した『動物霊のようなもの』を、利用するだけなんだ。空想を現実に、だよ」


 匡はあっけらかんと笑った。


「ま、これは僕の我央の話だから、どうでもいいや。今重要なのは、久義の我央だからね」


「俺の、我央?」


「うん。君が術士として活動する上で、根幹となる大原則。とりあえず、さっきみたく図に表してみよう」 


 彼女はルーズリーフに、もう一つ箱を描いた。ご丁寧にも、上部に『伊国久義』と書かれている。

 再び、線で分ける。

 それぞれに文字を書き込んでいく。


 久義は、どきりとした。

 箱に書かれた文字にである。

 一つは、先ほどと同じ『一般共通』。

 そして、もう一つは。


「……『丑の刻参り』」


 久義は呻くように呟いた。

 紙の上に書かれた文字は、苦い記憶を呼び起こす呪いの名称だった。


「そんなに苦しそうな顔するなよ」


 匡は困ったように、眉を八の字にして笑った。


「現状、君が一番早く習得しうる術だぜ?」


「で、でも……。お前……、俺の丑の刻参りは、効果がなかったって……」


 久義は鉛でも吐くように言葉を溢した。

 匡が頷く。


「もちろん、幼き日の君の呪いは毛ほども意味がなかったさ。でも、当時と今とでは状況が違うんだ」


「……希宇が、育ったからか?」


「それだけじゃない」


 匡は人差し指を、久義の胸に触れさせた。胸骨のあたりを、押さえる。


「我央が育ったからだよ」


 指先を伝って、言葉が染み込むようだった。

 久義は、戸惑った。


「……我央が? ……俺のか?」


「思い出してごらん。今までのこと」


 匡の言葉に引っ張られるように、この十四年間が頭を過る。

 見舞いの日々。

 御守りを渡した日々。

 丑の刻参りを、悔いた日々だ。

 贖罪の日々である。


「君はずっと、丑の刻参りを引きずってきただろう?」


「……ああ、そうだ」


「それはつまり、『丑の刻参り』には効果があると、信じてきたってことだ。十年以上の歳月、この黴臭い呪いの実在を信じてたんだぜ?」


 その通りであった。

 久義はサンタクロースの正体を看過した後も、猫の尻尾が二つに分かれないことを知った後も、丑の刻参りは在ると思い続けた。

 思い続ける原動力があったからだ。


 匡への罪の意識。


「あの日の呪いの効力は存在しない。でも、あの日の呪いの実在を信じ、悔い続けた年月は消えないんだ」


 十四年分の懺悔。

 十四年分の贖罪。

 その月日は、確かに存在している。たとえ、丑の刻参りが実際には機能していなかったのだとしても。

 彼女は真っ直ぐと、久義を見つめた。


「それが、君の我央だよ」


 長い長い、後悔の日々の結実。

 久義だけに見える、世界の在り方。


(これが、俺の我央)


 心の中で、反芻する。

 無言だった。


「でも、困ったなあ」


 匡は頬に手を当てて、溜め息を吐いた。


「僕の予想だとさ。君が丑の刻参りをすると、同時に赤黒い炎に焼かれちゃう恐れがあるんだよね」


 赤黒い炎。

 昨日、自分の身を焼いた業火。


「……そうかもな」


 匡の説明はなくとも、何となく納得がいった。

 我央が、個々人の蓄積した思い込みであるとすればだ。

 思い返す。

 日々木との戦闘時、あの焔に包まれる寸前、自分が何を考えていたか。

 あるいは、どんな世界観を抱えて、今まで生きてきたのか。


「……罪人は、業火に焼かれる」


 それは、因果応報の世界観だった。

 丑の刻参りという罪。

 それに対して、与えられるべき罰。

 例えば――。


「久義は確か、丑の刻参りをした後に、高熱を出したんだっけ」 


 匡は言った。久義が頷くと、彼女は続けた。


「やっぱり。おそらくそれが原体験となって、我央を作り出したんじゃないかな。罪を犯せば炎熱に襲われるっていうね。まあ、古今東西問わず『罰としての火』はメジャーなイメージだ。そういうイメージが根付いた現代社会で生きてきたんだから、君の中で、罪人を焼く赤黒い炎が育つのも、無理はないだろうね」


「……大した推理だな」


「そりゃね。僕は日頃から、君が術士になったらどんな異能を手に入れるか、妄想してたんだ。想定パターンの一つに、この我央の在り方も組み込まれてたのさ」


 匡が胸を張って言った。


(匡自身が術士じゃなかったら、割と黒歴史レベルで恥ずかしい妄想だな)


 そう思いながらも、口には出さない。久義だって、微笑ましい黒歴史の一つや二つ覚えはある。


「とにかく」


 匡は続けた。


「君が丑の刻参りを使うには、この炎の発生を抑える必要がある。相手を呪う前に、自分が焼け死ぬんじゃ話にならないからね。そのためには、君を業火から守る理論を構築して、我央に染み込ませる必要がある。……うーん、これは時間がかかるぞ」


「……何か、すまん」


 久義が頭を下げると、「別に良いさ」と彼女は微笑んだ。


「術を適切な形でものにするのは、骨が折れるもんさ。特に久義のなんて、我流中の我流だからね。……ま、そういうのは後に回しておいてさ。今は基本の術を修得していこっか」


 基本の術。


「……『身体強化』と、『自己回復』か」


「そうそう。君は元のフィジカルがつよつよだから、基本を少し齧っただけでも、かなり戦えるようになると思うんだ」


 久義は、先程の匡の言葉を思い出した。


「……なるほど。なんやかんやで、フィジカルか」


「なんやかんやで、フィジカルだね」


 匡が頷く。楽しそうに、笑っていた。


「久義の場合、希宇自体は長年の見舞いの甲斐あって、割りかし育ってるみたいだからね。コツさえ掴めば、簡単な自己回復ならすぐできるようになるよ」


「コツ……か……」


 久義は今までの自分の人生を振り返った。コツを掴むという経験は、あまりないように思う。彼は無類の不器用だった。

 何だか、不安になってきた。


「ま、そう難しく考えなくていいよ。要はどれだけ強く思い込めるかってことだからさ。そのための練習方法も教えてあげる」


 そう言うと、匡は再び引き出しを開けた。

 中から取り出したのは、爪きりだった。


「じゃあ、とりあえず爪を伸ばすところから始めよっか」


「爪……?」


「うん。爪を切ってから、それを元の長さまで戻すんだ。僕もこれで練習したんだよ。実際に傷を治すより、平和的だろう?」


「平和的……?」


「他の流派では、この術の会得のために、指を切り落とすところもあるらしいぜ」


(術士怖すぎるだろう)


 久義はまだ見ぬ術士の世界に対して、内心慄いていた。


「ま、とにかく指出してよ。爪切るからさ」


 大人しく、掌を出す。彼女は久義の白く濁った手を、まじまじと見つめた。


「それにしても、今更ながらに凄い手だよねえ。肌は硬いし、爪は分厚いし。久義、僕に内緒で空手でもやってんの?」


 妙な間があった。


「……まあ、そんなとこだ」


 目を逸らしつつ、答える。

 疚しいところがある人間の挙動だ。

 それに気付かなかったのか、はたまた気付かないふりをしたのか、匡はそれ以上追及しなかった。

 パチリ、パチリ。猛禽類のように重厚な爪を、匡が切っていく。

 その音が、病室の静寂を引き立てる。


「久義はさ」


 匡が、ポツリと言った。


「術士になるの、拒まないんだね」


 静かな声だった。白い室内に染み込む声。

 今までと、違うトーンだ。ためらうようなトーン。

 あるいは、申し訳なさそうな。


「術士をしてるとさ。昨日みたいなことも、たまにあるんだ」


 匡が言った。

 昨日のこと、とは。


「……日々木さんみたいな、襲撃者がいるってことか?」


 彼女は頷いた。


「術士もさ。それぞれ、派閥みたいなのがあるんだ。派閥同士の小競り合いもしょっちゅうさ」


「……フリーの術士とか、いないのか」


「いることにはいるよ。でも、そういう術士は何をするか分からないっていうので、目の敵にされる。……後ろ盾がないから、術の実験台として喧嘩吹っ掛けられて、死ぬ人もいるんだ」


 それが本当なら、物騒な世界である。

 いや、きっと本当なのだろう。

 匡の物憂げな顔を見ていて、久義はそう思った。


「僕もさ」


 彼女は続けた。


「それなりに力のある家系の、跡取りだからね。……今回みたく、命を狙われることも少なくないんだ」


 爪を切りながら、自嘲気味に笑った。

 久義のほうは、見ない。


「知ってるかい? 最近、箱内病院で奇病が流行ってるって」


「え? ……ああ、吉田さんから聞いた。……まさか、あれも」


「多分、あの少女によるものだと思う」


 昨日のことを思い出す。

 病院内に充満していた、身の凍えるような悪い空気。

 あれは、日々木の透明な十字が生み出していたものだ。

 もしかすると彼女は、あの悪い空気を箱内病院の患者に、何らかの方法で注ぎ込んだのか。

 あるいは、もっと恐ろしい方法で、彼らを病ませたのか。

 しかし、そうだとすると――。


「でも……日々木さんも、体調を崩してたぜ」


 血反吐を吐く少女の姿が、思い出される。

 彼女が元凶だとするならば、どうして。


「カモフラージュだよ」


 匡は爪を切りながら、当たり前のように言った。


「自分も倒れることで、警戒を解いたのさ」


「……誰の」


「君のだよ。現に久義は、彼女を吉田医院まで連れて行ったんだろう? それに、昨日は見舞いに来ないよう、釘まで刺されたらしいじゃないか。君に近づいて、なおかつ君を病院から遠ざける。そのために、あの子は一芝居打ったんだよ」


 なるほど、と思う。

 であれば昨日、大学で炎熱に苦しむ自分を救ってくれたのも、善意からの行動ではなかったということか。


「……怖いな、術士って」


「そうだよ。怖いんだ、術士は」


 爪が、切り終わった。

 綺麗になった手を、匡は見ていた。

 久義のほうは、やはり見ない。


「そんな術士にさ。……久義、本当になりたい?」


 目を掌に向けたまま、彼女は言った。

 言葉は、涙のように床に零れた。


「僕なら……今の君を、戦いから遠ざけることもできるよ」


 ああ、そうか。

 久義は理解した。

 彼女は、自分のことを心配してくれているのだ。

 十年来の友である、伊国久義のことを。


(俺はお前を呪った男なのに)


 良い奴だな、と思った。

 だからこそ、久義は言った。


「それでも、俺は術士になるよ」


 匡は顔を上げた。

 その黒い瞳には、少しだけ驚きが混じっているようだった。

 そんな彼女に、彼は言った。


「……術士になれば、昨日みたいなことがあっても……匡を護れるんだろう」


 それが全てだった。

 久義の、全てだ。

 友を呪うようなどうしようもない自分を、彼女は許してくれたのだ。

 丑の刻参りが無効だろうと有効だろうと、その事実は変わらない。

 匡が優しい少女だということは、変わらないのだ。


「……そっか」


 彼女は、微笑んだ。

 悲しそうな、でも嬉しそうな、そんな笑みだった。


「……よっし!」


 空気を変えるように、匡は明るい声を出した。


「じゃあ、今日から特訓と行こうか! 術士の先輩として、僕が手取り足取り教えてあげるよ!」


「……それは、心強いな。……ちなみに、何時から何時までだ。俺、今日は午後から講義があるんだが」


 彼女はポカンとした。


「何言ってるの、久義。一日中に決まってるじゃん」


「え……あの、大学は……」


「今日は休め。明日も明後日も、最低一か月は休みなよ。空手の稽古もね」


 久義は冷や汗をかいた。


(俺の無遅刻無欠席に傷がつく上に、単位が軒並み殺されてしまう。やっぱり怖いな術士は)


 しかし、そうは言っても匡を護ると大見得を切った手前、特訓の申し出を断る訳にもいかなかった。

 幸いにも、現在取っている授業はテストやレポート提出のみで済むものばかりだ。最悪、仲のいい友人からノートを貸してもらうなどして、対応しよう。


(メールで、大悟にノート取るの頼んどくか)


 そう考えた時だった。

 久義は、あることに気付いた。


「……なあ、匡」


「ん? 何?」


「……俺のスマホって、どこ?」


 匡はあからさまに、「あちゃあ」という顔をした。

 もう、それだけで全て分かった。

 彼女は久義の肩に、掌をポンと置いた。


「……次は、耐熱性のスマートフォンを買うんだね」


「……そうする」


 しかし、困ったことになった。大悟への連絡手段が絶たれてしまったのだ。これでは自分も、匡だって進級の危機である。

 術士という非日常に片足を突っ込んでも、こうした日常の悩み事は消えない。久義は小市民なのだった。


 いや、それ以前の問題もある。

 親だ。

 久義は実家暮らしである。大学生の息子が一日二日帰ってこなくても、そこまで心配しないとは思うが、一か月となれば事情が変わる。最悪、失踪届すら出されるだろう。

 こんな時、スマートフォンがあれば簡単に連絡できるのだが。久義は今になって、現代機器のありがたみを知った。


「……匡。俺……一度家に戻ってもいいか?」


「ええ!? 何で!?」


 匡は明らかに動揺した。

 まあ、昨日の今日である。日々木のことを考えれば、かなり心配ではあるだろう。

 それでも、久義は言った。


「……家を空けること伝えとかないと、親父もお袋も心配する。……一月分の着替えも欲しいし、財布だって然りだ」


「……服もご飯も、携帯だって、こっちで用意するのに」


 有り余る財力である。匡の言葉にそんなことを思うが、それでも続ける。


「……それに、二人の顔も見ときたいんだ」


 この一月の間、日々木が再び襲ってこないとも限らない。

 その時には、今度こそ匡を護って戦いたい。

 しかし、その中で傷つくこともあるだろう。


 死ぬことだって、あるかもしれない。


 それを考えると、久義は無性に父母の顔が見たくなったのだった。

 その気持ちは、匡にも理解できたようだ。

 彼女は渋々といった面持ちで、頷いた。


「分かったよ。まあ、今はまだ日が高いし、一般人も出歩いてる。あの子も、白昼堂々襲ってくることはないだろうさ」


 匡は「でも」と続けた。


「それでも、何があるか分からない。念のため、武器は持っておいて」


「……武器?」


 首を傾げる久義を前に、匡はまた引き出しを開くと、中から何かを取り出した。

 鉄鎚だった。

 随分と、年季が入っている。

 そして、どこか見覚えがあるような。


「忘れちゃった?」


 匡が微笑んだ。


「君がくれた鉄鎚なのに」


「俺が……?」


 目を白黒させていると、彼女は続けた。


「丑の刻参りの後、君は僕のところに来て土下座しただろう? その時に、この鉄鎚をくれたんじゃないか」


「え……? え……?」


 全く身に覚えがない。この幼馴染は、自分のことをからかっているのだろうか。

 しかし、匡の口ぶりは真剣でこそなかったが、嘘をついているようでもなかった。

 そんな口調で、言う。


「いやー、あの時はびっくりしたよ。この鉄鎚で、自分のことを呪ってくれって言うんだもん。そうすれば、僕じゃなくて自分に災いが降りかかるってさ。君、身代わりになろうとしたんだぜ?」


 久義は、黙った。

 数秒間の、無言。

 そして、口を開いた。


「……すまん、やっぱり覚えてない。……お前に謝ったことは、覚えてるんだけど」


「え、そうなんだ。……まあ、あれから十四年が経ってるし、忘れてても仕方ないか」


 匡は独り納得したようだった。


「とにかく」


 彼女は続けた。


「この鉄鎚は、君の我央の始まりみたいなもんさ。そういうアイテムって、術の行使の際に有効に働くものだよ。今のうちに、手に馴染ませておいた方がいい。練習と護身を兼ねて、持っていきなよ」


 匡に圧されるような形で、久義は鉄鎚を受け取った。

 傷のついた木の柄を握った瞬間、背中を駆け抜けるものがあった。

 嫌な感覚だ。

 久義は本能で理解した。


 この鉄鎚で、俺は丑の刻参りをしたのだ。


 久義はすぐに、ズボンのポケットにしまった。

 できれば、暫くは存在を忘れていたいと思った。

 なるべく明るい表情で、言う。


「……じゃあ、行ってくる」


「うん。……できるだけ早く、戻ってきてね」


 匡の言葉に頷き、病室を出た。

 廊下に立つ。

 ここに日々木が倒れていたんだよな。

 あれは全部、演技だったのだな。

 そんなことを、思う。

 思考が、伸びていく。連想ゲームのように、別の思考へと姿を変えていく。


 その中に、吉田医院があった。


 日々木を背負って連れて行った、吉田医院だ。

 ぞくり、と胸に起こるものがあった。

 虫の知らせ、とでもいうのだろうか。


 日々木は、あの病院を知っている。

 同時に、彼女は自分と吉田が顔なじみであることも知っている。

 吉田が、久義の弱みになり得ることも、知っている。


 匡にとっての久義が、そうであるように。


(念のため、気を付けるように伝えといたほうが良いよな)


 顔なじみの気だるげな医者を思い浮かべて、久義は歩を早めた。

 廊下の窓から覗く空は、今日も濁っていた。

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