彼は我に滲んで
「重要なことは」
匡は人差し指を立てた。
白い部屋。
天井も、床も、壁も、小物も、全てが白い部屋。
その中の、やはり白いベッドの上で、匡は人差し指を立てて、椅子に座る久義に微笑んだ。
「良いかい? 重要なことは、世界がどうあるかではなく、どうあるように見えるかだ」
黙って、聞く。
久義は今、彼女に説明をしてもらっていた。
先ほどあった不思議なこと、その全てについて。
白い箱。
透明な造形。
赤黒い炎。
あれは、一体何であるのか。
「それが
幼馴染が、言う。
彼女の口調は柔らかい。
出来の悪い息子に物を教える、母親のようである。
その身に、傷はない。パジャマの切れ目から、裂傷が覗くこともない。
そもそも、パジャマに切れ目がない。
先ほどの戦闘で、日々木に切り裂かれたパジャマは、新しいものに取り換えられている。
久義が目覚めた時には、既にそうなっていた。
あれから、時間が経っている。
病室の四角い窓が、夜の闇を囲んでいる。
午後十時。
目覚めたのは、つい数分前のことだ。
まず、小さな掌の感触があった。
自分のざらついた左手を、誰かが握っていた。
眼を開くと、匡がこちらを見下ろしていた。
彼女の小さな手が、久義の白く濁った掌を、握っていたのだ。
そこで、自分がベッドに寝ていることを理解した。
続いて、身に纏う衣類の違和感に気付いた。
匡と同じような色合いの、綺麗なパジャマに替えられていた。
それまで着ていたもの、粗末なジャンパーやらシャツやらズボンやらは、焼けてしまったらしい。
服は元に戻らなかったようだ。
驚くべきことに、服以外は元に戻っていた。
久義は、彼女の話を聞きながら、自分の掌を見る。
日々木に切り落とされたはずの指が、くっついている。
痕すらない。何事もなかったかのように、白く濁った五指が、今までと同じようにある。
「む、酷いな久義」
まじまじと己の手を眺める久義に、匡は不服そうな顔をした。
「掌ばっかり見てさ。君を治したのは僕だぜ? そんな僕の話が、退屈だってのかい? 悲しい。泣いちゃう」
ヨヨヨ……と、匡がパジャマの袖で口元を隠し、嘘泣きをする。落涙のオノマトペが若干古い。
モノクロめいた表現をする幼馴染に、久義は困惑しながらも、言う。
「そ、そういう訳じゃない。ただ……その、びっくりしてるっていうか……」
「火が消えてるから?」
落ち着きなく指を擦りながら、頷く。
思い出す。
自分の皮膚という皮膚を破り、肉の内側から吹き上がった赤黒い炎。
灼熱と激痛をごちゃ混ぜにした業火が、今や残滓すらない。
もちろん、そのおりに焼け焦げたはずの四肢も、元通りである。
匡が得意げに言った。
「そりゃあそうさ。僕を誰だと思ってるんだい? 天下に名高い箱内家の次期当主、箱内匡だぜ? ちょっと骨は折れたけど、あれぐらいの炎も火傷も、ちょちょいのちょいで全快さ」
「それは……えっと、あの……白い箱でか?」
白い箱。
日々木に鼻骨を砕かれ、悶えていた時に触れた、あの白い箱。
その罫線の走った、皺のない完璧な立方体は、頬が接しているだけで、傷を癒してくれた。痛みを取り除いてくれた。
「……お前は、魔法って言ってたな」
「そうだよ。一般人である君にとって、それが一番わかりやすい表現だと思ってね」
「……お前は、一般人じゃないのか?」
久義の問いに、匡は少し黙った。
それから、ぽりぽりと頬を掻いた。
「そう、だね。まあ『術士』というカテゴリーには入るよ」
術士。
聞きなれない言葉である。
クエスチョンマークを浮かべる彼に、匡は笑った。
「まあ、つまりは魔術師とか呪術師とか陰陽師とか、そういう不思議な術を使う人のことだよ」
久義は、今まで自分が目にしてきたあらゆる漫画やアニメ、ライトノベルなど、そこに描かれてきた異能者を思い出した。
彼らのような存在が、現実にいるということなのか。
その存在が、日々木や、目の前の匡だというのか。
信じられなかった。
自分の日常に、創作の世界のあれやこれやが、混ざり込んだみたいだった。
それこそ、匡が久義に読ませてくれる、あの世界のような。
「その……術士というのが、我央や
「そうそう。さっきも言ったけど、その三要素が術士を術士たらしめるんだ。流石久義。僕の日々の啓蒙の甲斐あって、理解力高いね」
日々の啓蒙とは、常日頃から読ませられている彼女の小説のことである。
墓に蜂蜜を塗ると御守りが爆弾になるといった、とんちきバタフライエフェクトを魔法と宣う、たわけた小説のことだ。
「……お前の内なる中学二年生が造り出した設定だと思ってたよ」
「失敬な。この三語を僕が作ったのは、小学生の時分だよ。女の子は早熟なのさ」
匡がお道化るように肩をすくめた。
久義は、彼女の小説に度々登場するこれらの単語について、思い出していた。
我央は、主観。頭の中だけに存在するもの。
彼周は、事物。実際に、世界に存在するもの。
希宇は、不思議パワー。我央を彼周に滲ませるのだという。
「……やっぱり、希宇だけが分からん。難しい」
ざりざりと、指の腹を擦り合わせる。
そんな彼に、匡は笑って言った。
「そこまで難しく考える必要はないよ。まあ、『空想を現実にする力』とでも考えればいいさ」
「空想を……現実に……? ……希宇を使えば、そんな、夢みたいなことができるのか?」
久義の問いに、匡はチッチッチ、と舌を鳴らした。
「空想を現実に、とは言うけどもね。そこまで好き勝手出来る訳じゃないぜ。……正確には、好き勝手するのに準備が必要って感じかな」
「準備?」
「そうだよ。まあ、ざっくばらんに言えば、空想を個々人から見た『世界の在り方』にまで、昇華させる必要があるんだ。自分が空想する何かが、重力や引力みたいな、絶対的な力学と同じように実在する。そこまで思い込まなきゃいけないんだよ。古代日本の盟神探湯や、ガリレオ以前の天動説のようにね」
匡は「だからね?」と続けた。
「術の行使には、思い込み……つまりは我央を強化する必要がある。方法は人によってさまざまだよ。なぜ術が使えるかについての理論構築をする。または、宗教組織に入って身も心も教義に染まる。あるいは、薬で意図的に強迫観念に陥る。……そんな屁理屈と小細工をこねくり回して、ようやく術は発現するのさ」
久義は黙って聞いていた。
聞きながら、思った。
どうして、自分の身体から炎が湧いたのか。
あれは、伊国久義という人間が、無意識のうちに行使した術なのか。
そうだとすれば、疑問が残る。
日々木は分かる。彼女はきっと、尋常な人間ではないのだろう。
匡もまだ分かる。自分が気付かなかっただけで彼女は、というより箱内家は、普通でない存在なのだろう。
だが、俺は一般人だ。
久義は尋ねた。
「……その、希宇っていうのは、どれぐらいの人が持ってるんだ?」
匡はさも当然のように、
「生きとし生ける者、ほぼ全員じゃないかな」
と言った。
久義は目が点になった。
彼女はベッドから身を乗り出した。
「ジンクスって、聞いたことない?」
「……ある」
「あれって、ある条件が揃うと、必ずその結果に辿り着くっていう、思い込みだろ。靴下を右から履いたら、雨が降りやすくなるとかさ。そういうのも、実は希宇が関係しているんだ。希宇で、思い込みが現実に滲んでるんだよ」
久義は「でも」と首を傾げた。
「ジンクスは……外れることがあるだろう」
「それは思い込みが弱いからだよ。我央が弱いからだ」
そう話す彼女の掌には、いつの間にか白い箱が乗っていた。
久義から痛みを奪い去った、不思議な箱。
匡の言葉を借りるなら、このルーズリーフ製の立方体が、彼周ということになる。
四角い彼周を片手に、彼女は言った。
「心底ジンクスを信じ切ることができれば、古来の雨乞いやら呪いやらと同じぐらいの効果を発揮するようになるさ。もっとも現代人は頭が固いから、昔ほど非科学的な我央を持ちにくいんだけどね。今時、雷を神の怒りだと本気で信じ込む人はいないだろう?」
なるほど、と思う。
希宇を持っているからといって、必ず術士になる訳ではないのだ。空想を信じ込むことができないからである。
それもそうだろう。現代は科学万能の時代だ。朝の占いを、気象予報よりも確実だと考える人などいない。
「それに」
匡は続けた。
「希宇そのものにも、個性や強弱がある。個性は遺伝で、強弱は日々の鍛錬や素質、環境で形作られることが多い。希宇が弱ければ、我央の発現なんて夢のまた夢さ。裏を返せば、歴史に名高い救世主や行者、陰陽師など、伝説に事欠かない人々は、この希宇が尋常じゃないぐらい強かったんだろうね」
そこで、久義は尋ねた。
「……どうして、俺の希宇は突然強くなったんだ」
少なくとも、昨日までは赤黒い炎など、微塵も発現しなかった。
それはつまり、希宇が弱かったということではないのか。
「突然じゃないさ」
匡は言った。
「希宇はね、使えば使うほど強くなる。これが、鍛錬による強化だ。そして、もう一つが環境による強化。希宇はね、他人の強い希宇に喚起される特徴があるんだ」
久義は、まだ話が見えない。
「つまりね?」
彼女は続けた。
「久義は僕が入院してから、毎日のように見舞いに来てただろう? だから、優秀な術士と接触する機会が、凄く多かったわけ。そりゃあ、希宇も強まるってもんさ。風邪っぴきの人間と一日も欠かさず会ってれば、風邪ひくのと一緒だよ」
「か、風邪って……いいのか、そんな比喩で」
「似たようなもんさ」
ううむ、と久義は唸った。
それにしても、風邪か。
何となく、彼は知恵熱を想起した。深く悩むとやってくる、病のような炎熱についてだ。
今にして思えば、あれも術の発現の兆しであったか。
「とにかく、君は根気強いお見舞いを十年以上続けてきた。この年月の積み重ねが、ついさっき目に見える形で発露したんだ。それが、あの赤黒い炎の正体だよ。……ま、あのままじゃあ身を焼くばかりで不便だから、ちょっと改良を考えなきゃだけど」
匡は頬に手を当てて、いかにも考えものだというジェスチャーをした。
久義が、尋ねる。
「……希宇の強弱は、何となく分かった。……でも、個性って何だ」
「簡単なことさ」
匡は微笑んだ。
「傾向だよ。特定の価値観に基づいた我央が、より発現しやすくなる傾向。代々クリスチャンの家系の術士なんかは、親の希宇が子に、子の希宇が孫に、連綿と受け継がれていく。こうして樹木の年輪のように重ねられた希宇は、キリスト教系の我央を滲ませやすくなるんだ」
久義は匡の言葉を、頭の中で反芻していた。
そういえば、そんな内容のことを、彼女の小説でも言っていたように思う。
昔取った杵柄か、あるいは脳の二次応答とでもいうべきか、とにかく匡の話す理屈の数々は、驚くほど染み込んできた。
「ま、こんな風に術士っていうのは、結構家柄に左右される存在でね。僕の生きる箱内家もそんな感じさ」
箱内家。
大昔から、この甘蔵に根を下ろして活動している医術の血族。
吉田医院とは比べ物にならない、地域医療の根幹を担う存在。
匡の白い箱も、傷を治してくれていたな。
もしかして、と久義は思った。
「箱内家が医術に手を出したのは……この術式を持ってたからか?」
「手を出すだなんて、まるで医術を違法薬物のように言うんだな君は」
そう言ってから、匡は少しばかり沈黙し、頷いた。
「でもまあ、そんなところだね。君の想像で大体合ってるよ。……久義は箱内病院の歴史って知ってる?」
今度は、久義が頷く番だった。
箱内病院は現在、総合医療を掲げている。外科も内科も何でもござれで、五臓六腑のどこが悪くても、適切な医者に診てもらえる。
しかし、設立当初はそうではなかった。
その昔、箱内病院は肉体治癒ではなく、もっぱら精神医療を生業としていたのだ。
東京や京都に、公立の癲狂院ができる十九世紀より前の話だ。
まだ、疾患に『狐憑き』や『犬神憑き』と名のついていた頃の話である。
具体的に何年前にこの地に根付いたのか、その正確な数字は分からなかった。
「箱内の先祖が甘倉市に居ついたのは、今からおよそ五百年前のことだ。室町時代だね。当時はまだ『天暗』の名前が当てられてたこの町で、僕らのご先祖様は憑き物落としみたいなことをしてたのさ。患者の中にある狂乱を箱に吸い取り、治したんだね」
「箱に、吸い取る」
「そうそう。箱は『悪いものを吸い取り、閉じ込める』ものなんだ。この五百年の間、僕たちはそう思い込んできた。それが、箱内にとっての我央だ。この我央を希宇で滲ませて、現実の病や傷なんかを箱に封じるんだよ」
「箱は……何か、特別なものを使ってたのか?」
久義は、今までの創作物に見た異能を思い出した。
神父の悪魔祓いに、陰陽師の式神術。そのどれもが、何らかの道具を用いて行っていた。それは、たとえば十字架だったり、血文字の刻まれた札だったりした。
存在そのものが、特殊な道具だ。
しかし、匡は首を横に振った。
「宗派によっちゃ、術の触媒そのものに特殊性を見出すところもあるけどね。箱内家は、そこら辺ドライだよ。うちは、箱であれば何でもいいんだ。思い込みの条件に、ありがたいマジックアイテムは必要ないのさ」
「……じゃあ、その白い箱も」
久義は匡の持つ立方体を指で示した。
彼女は、首を縦に振った。
「これも、何の変哲もないただの箱だよ。百枚入りのルーズリーフから作った、原価三円の安物さ。でも、効果は折り紙付き。折り紙だけにね」
んひひ、と匡は笑った。
その笑顔は、昨日までの彼女と全く変わっていない。
その楽しげな表情が、日々木の襲来を挟んでこちら側を、今までの日常と地続きにしているような気がした。
「あ、でも」
匡は、ふたたび人差し指を立てた。
「釈明しておくと、今の箱内病院は、現代医学に基づいて患者さんを治してるからね。こんな怪しげな箱、基本的には使ってないから、そこんところ勘違いしないよーに」
「……基本的には、というと」
「場合によっちゃ使うってことさ。例えば、科学の通用しない呪いをかけられた患者さんとかにはね」
科学の通用しない呪い。
久義の脳裏に、あの日の丑の刻参りが過る。
では、あの夜に濡れた釘も。
彼の考えていることが、匡には分かったらしかった。
彼女は「そうだよ?」と頷いた。
「君の丑の刻参りなんて、全くの無意味だったさ。あの程度の術、うちのスタッフなら十秒足らずで綺麗さっぱり消し去れるからね。もっとも、当時の君は希宇の微弱な正真正銘の一般人だったから、呪いの効果は端から皆無だったんだけど。釘と蝋燭を無駄にしたね」
「じゃ、じゃあ……どうして、入院なんか」
「決まってるじゃん。術士としての訓練のためさ」
狼狽する久義に、匡は何でもないように言った。
「よっぽどの狂気に陥ってない限り、常人と同じ生活をしてたんじゃ我央は育たないからね。入院してから今日までの十年以上を、僕はこの白い箱の中で、術の研鑽のために費やしてきたのさ。頑張り屋だろう?」
匡が、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
いつもの笑みだ。日常の笑み。
久義は、自分の胸のつかえがとれた気がした。
ようやく、罪が許されたような気がした。
そうか。あの夜の俺の釘は、誰にも届いていなかったのだ。
良かった。本当に、良かった。
くあぁ、と欠伸が聞こえた。匡のものだった。
「あー、今日は色々あったから疲れちゃった。話の続きは明日にして、もう寝よっか」
「……そうか。おやすみ」
久義はそう言うと、椅子から立ち上がった。
その手を、匡は慌てて握った。
「ちょっとちょっと! どこ行く気?」
「え……家に、帰るんだけど」
「こんな時間に!? 外も暗いし、泊っていきなよ。第一、そんな病院服で深夜ウロチョロして、職質でも受けたらどうするの? 口下手な君なんて、弁明しようとすればするほど、ボロが出るに決まってるんだから」
喋りながら、彼女は病室の隅を指さした。
見れば、白い上等な敷布団が、畳んであった。
「看護師さんに事情を話して、宿泊者用の布団も準備してもらったからさ。君のために、茣蓙まで敷いたんだぜ?」
「事情? ……さっきの、日々木さんのことか?」
「うん。ここのスタッフは全員術士だからね。異能を用いた荒事にも、理解があるんだ」
久義は目を丸くした。箱内家が尋常でないことは理解できたが、まさか、病院の職員たちまでもそうだとは。
こりゃ、吉田医院では逆立ちしても勝てないな。久義は頭の片隅で、そんなことを考える。
「ともかく、今日は僕と一緒に寝ること。下手に外に出て、また襲われたんじゃたまったもんじゃないだろう?」
言われてみれば、まあ、そうである。
匡のいない外で襲われたとして、自分が日々木に勝てるビジョンが見えない。
あの赤黒い炎で自爆するのが関の山だ。今度は距離を取られて、一人寂しく薪になるかもしれない。
久義だって、犬死は嫌である。
「……分かった。じゃあ、俺はここで見張っとくよ」
「見張るって何だよ。いいよ、そんなことしなくて。事情を知ってるうちのスタッフが、夜間の警備を強化してくれてるからさ。言っとくけど、彼らは君の何倍も優秀だぜ?」
「……そういう、もんか」
「そういうもんさ。さ、そうと分かったら早く寝よ寝よ。夜更かししてると、そのクマがもっと濃くなっちゃうよ? まったく、普段寝不足になってまで何してるんだか。あー、いやらし」
「へ……変な想像、すんなよ」
久義はモニョモニョと不明瞭なことを呟いたが、匡は全く聞く耳を持たなかった。何を言っても弁明は無理なようなので、仕方なく茣蓙の上に布団を敷く。
寝転んでみると、柔らかすぎず固すぎず、意識を吸い取るぐらいに心地よい布団であった。いつも自室で使っている煎餅布団とは、雲泥の差だ。今更ながらに、箱内家と伊国家の経済格差を思い知る。
そんな思考が、だんだんと解けていく。
瞼が、重くなっていく。
「ねえ、久義」
途切れ途切れの意識に、匡の声が入り込む。
囁くような、優しい声。
「手、握っていい?」
「……いいよ」
掌を、ベッドに乗せるようにして、差し出す。
柔らかい感触が、暖かく触れる。
匡の温もり。
大切な、友人の温もり。
「……こんなに、大きくなってたんだねえ」
彼女の親指が、角質化した久義の手を、撫でる。
ざらざらと、音がする。
その音を聞きながら、彼は目を閉じた。
夜が、押し寄せてくる。
久義が覚醒したのは、午前一時を少し回ってからのことだ。
やや霞んだ視線を周囲に巡らせる。自分がどこにいるのかを思い出す。
手は、まだ握られたままだ。
久義は、もう一度病室の時計を見た。
アナログの時計。
秒針の音が、一秒を潰していく。
もう少しで、午前二時だ。
丑三つ時である。
久義は、ゆっくりと上体を起こして――。
「行っちゃ、駄目だからね」
声が聞こえた。
そちらを見た。
目が合った。
匡の黒い、大きな目が、久義を見つめていた。
「……行かないよ」
彼は、呟いた。
そして、再び体を横にした。
ふたたび、無明が訪れた。
今度は、目覚めなかった。
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