炭に塗れろ、業火




 久義は自分でも気づかぬうちに駆け出していた。

 距離にして、匡のベッドまで数メートル。足裏で床を蹴り、風を纏い、刃物を掲げる日々木の腕へと手を伸ばす。指の先がぐんぐんと近付き、ついには彼女の手首に食い込もうとする。


 瞬間、日々木の身体が低く沈んだ。

 視界から、消えたように見えた。


 その時には、彼女の肘が、久義の腹にめり込んでいた。


「おっ……え……!」


 自分の全体重が、突進の慣性を絡ませて、胃の腑の一点に集中する。苦いものがこみ上げ、眼球が膨らむような痛みを感じる。

 苦痛の情報量に脳が明滅を繰り返している間に、日々木は久義の足を払った。後頭部が音を立て、視界を閃光が通り抜ける。


「久義っ」


 匡が悲鳴を上げた。手放しかけた意識が、ごうと焔を灯す。彼女の、自分の大切な友人の危機は去っていない。その事実が四肢に食らいつき、無理やり動かした。


 頭を上げて、最初に見えたのはスニーカーの爪先だった。


 日々木の、蹴り。

 鼻骨が潰れる音が聞こえ、嗅覚に鉄が凝る。久義は血を宙と床に塗りながら転がった。

 迷いのないサッカーボールキックだ。久義は天を仰ぎながら思う。普通、人はここまで躊躇なく、転がっている者の顔面を蹴り抜けるものなのか。


 恐ろしい少女だった。

 そんな恐ろしい少女に、匡は襲われているのだと、改めて実感した。


「す……くい……!」


 呻きながら、全身に力を込める。しかし、辛うじて動かせたのは眼球だけだった。目だけで友のほうを見る。

 そこで久義は、瞠目した。


 匡が。

 あの小さくて、華奢な匡が。

 獣のように、日々木に飛び掛かっていた。


「お前っ!」


 見知った少女の顔が、憤怒に燃えていた。目は吊り上がり、唇から食いしばった歯が覗いている。

 今まで見たこともない形相で、匡は日々木の右耳を掴み、引っ張る。

 たまらず、日々木のウェーブがかった頭が傾き、体勢を崩す。


 間髪入れず、幼馴染の見知った右拳が、日々木の顔を殴り抜いた。


 拳が唸る。一度でなく、何度も。まるで修羅のようだ。あの悪戯っぽく笑う、あどけない少女の面影が、鬼の如き形相に塗りつぶされていた。

 このまま、日々木を打ち倒すのか。

 久義はそう思い、しかし気付いた。

 幾度も顔を殴られている少女から、血が散っていない。


「鍛えが甘い」


 日々木が左腕を振り上げ、迫る拳を払いのけた。そのまま、蛇の如き軌道で匡の背後に回り込ませる。

 目にも留まらぬ速さで左手を引き戻し、彼女の後頭部を叩いた。ラビットパンチ。脳味噌を揺らす、ボクシングの禁じ手だった。


「ぐっ」


 引き絞ったような声。匡がわずかにふらつく。日々木の右耳から手が離れる。

 間を置かず、金属光が煌めく。いつの間にか、左の順手に持ち替えられていた刃物が突き出される。平突きだ。腹部目掛けて、最短距離を抉る。


 匡が横を向くようにして体を逸らす。輝きが彼女の脇腹を掠める。パジャマが裂け、少しだけ血が舞う。

 出血しながら、それでも匡は怯むことなく、左の裏拳を振るった。その一撃は吸い込まれるように、日々木の腹に入った。突きにより左腕を伸ばしきり、ガラ空きになった腹へ。


 どぐ、と鈍い音がした。

 ぷしゅり、と水音が聞こえた。


 日々木が吐血していた。


 久義は目を剥いた。裏拳は、手の甲を使っているために硬度こそあるが、重さはない。そんな裏拳で、吐血するほどの重撃を繰り出せるものなのか。

 それも、匡のような細腕で。


「小賢しい」


 血の泡と共に、彼女は忌々しげな声を出した。かちゃりと音が聞こえた。日々木が凶器を逆手に持ち替えたのだ。

 そのまま、左腕を引き戻す。

 匡が頭を下げる。

 宙に留まった彼女の黒髪を刃が斬り飛ばす。

 はらはらと舞う頭髪を潜るように、匡は床を蹴って転がり、横たわる久義の近くで止まると、膝立ちになった。


「ごめん、久義。巻き込んだ」


 視線を日々木に向けたまま、彼女は言った。いつもの茶目っ気のある声とは違う、真剣な言葉だ。こんな匡の姿を見るのは初めてだ。久義はそんなことを考えて。

 ふと、身体の痛みが引いていることに気付いた。


「動ける?」


 突然の回復で目を白黒させていると、匡が尋ねてきた。「ああ」と返せば、彼女は笑った。


「良かった。僕の魔法も捨てたもんじゃないね」


 魔法。今、彼女は魔法と言ったか。

 久義は匡の言葉が飲み込めなかった。混乱して、所在なく周囲を見た。

 そして、気付いた。


 白い箱があった。


 真っ白ではない。青い罫線が何本も走っている。その模様に、久義は見覚えがあった。ルーズリーフだ。その箱は、ルーズリーフを折って作られたものらしかった。

 箱は、定規で測りながら作ったのではないかと思えるほど、綺麗な立方体をしていた。余計な皺は一つとしてない。少しの誤りも逡巡もなく作られた折り紙は、こういう形になるのかもしれなかった。


 そんな箱が、久義の頬に触れるようにして置かれていた。


 不思議な箱だった。その箱に触れていると、体中の痛みがほどけていくのだ。ほどけて、正体のなくなった痛みの名残が、接している頬の一点を通じて、流れ込んでいくようだった。


「匡」


 声を出してみて、その明瞭さに驚く。そして、既に鼻血が止まり、鼻骨も元通りになっていることに気付いた。

 本当に不思議な箱だ。


「一体、何が起こっているんだ」


 問う。匡は答えない。日々木を睨んだまま、気を張りつめている。

 日々木もまた、動かない。口から血が流れている。とめどなくではない。先ほど吐いた血の残りを、唇の端から捨てているような流れ方だ。

 案の定、血の流れは細くなり、すぐに止まった。ダメージはそれほどないようだった。


「貴方は、何も知らないんですか」


 口を開いたのは、日々木であった。冷たい響きの声だった。


「伊国さんは箱内匡と、長い間親しくしていると聞きました。なのに、何も知らないというのは、白々しいとは思いませんか」


「黙れ」


 ようやく、匡が言葉を紡いだ。ぞっとするような、敵意に満ちた声だった。


「久義は関係ない」


「信じると思いますか」


 日々木は冷たい視線を溢しながら、得物を構えていた。切り出し小刀のようだったが、刃渡りは十センチほどもありそうに見えた。部屋の灯りを受けて、ぬるりと銀光を溢す。

 久義は匡の脇腹を見た。パジャマの切れ目からは、じわりと赤い血が膨らみつつあった。


「治さないんですか、その傷」


「浅いからね。術を使わなくても、アドレナリンで止血できるさ」


「へえ」


 日々木は口元を綻ばせた。笑みを作ったのだ。


 冷たい、怖い笑みだった。


「伊国さんが負傷された時には、随分と慌てて回復に励んでおられましたが。お優しいんですね。箱内の跡を継ごうという御方が」


 匡は再び黙った。何も言わず、ゆっくりと立ち上がる。日々木の視線を遮るように。

 久義を、守るように。

 その姿に、日々木は一瞬笑みを深くすると、水が引くように無表情に戻った。

 つまらなそうな横一文字の唇が、うっすらと開く。影を含んだ口内が僅かに覗く。

 ピンク色の舌が、丸まっていた。丸まって、少しだけ力を溜めて、口蓋を弾いた。


 カツン、と音がした。


「あっ」


 久義は思わず声を上げていた。その音に聞き覚えがあった。

 食堂で、聞いた音だ。

 脳裏に滲んだ過去の景色は、続けて額に冷たい感触を呼び起こした。あの冷たい、透明な石の感触。


 記憶の中の石と、同じ色をした造形が宙を舞っていた。


 日々木が投げたのだ。敵意の感じられない、ゆるりとした速度の投擲だった。放物線を描き、匡の足元に落ち、久義の眼に留まる。

 刹那、強烈な怖気が全身を走り抜けた。

 それを、久義は廊下で見ていた。踏みつけ、忌避感に襲われ、辛うじて蹴り飛ばした造形。


 透明な十字が、転がっていた。

 

「うっ」


 匡が呻いた。久義と同じように、内臓を擦るような嫌悪感に襲われたようだ。時間にして一秒にも満たない刹那、確かに彼女は怯んでいた。


 それが、隙になった。


 緑色の風が、弧を描くように視界の外へ吹き抜けた。

 首元がひやりとした。

 ダンッ、と至近距離から靴音が聞こえた。一拍遅れて、匡が久義の方に振り向いた。


「動くな」


 冷たい声が頭上から降ってくるのを、久義は聞いた。

 その言葉が自身でなく、匡に向けられたものだと直感した。

 人質にされたのだ、俺は。


 久義を跨ぐようにして、日々木が片膝をついていた。


 頸動脈に、彼女の刃が触れていた。金属の冷たさが、首の皮一枚を通じて血管に染み渡る。

 濃い死の予感が、身体を硬直させた。


「それを滑らせたら、許さない」


 匡が怖い顔で言った。

 日々木の五指が久義の頭を掴み、床に叩きつけた。治ったばかりの鼻骨がひしゃげ、血が弾ける。意識にノイズが走る。


「勝手に口を動かすからですよ」


 日々木の冷たい声が聞こえてきた。


「貴女のせいで、どんどん伊国さんが傷ついていきますね」


 匡の口端から血が滲む。唇を強く噛んだらしかった。歯を食いしばる音が、部屋に響きそうな憎悪の表情。

 血の匂いを嗅ぎながら、久義はぼんやりと思う。


 ああ、足を引っ張っている。


 何が起こっているかは分からない。匡と日々木が何者で、どういう関係があって、このような事態が起こっているのか分からない。

 それでも、確かに自分が彼女の足枷になっている。それだけは分かった。


 じり、と精神が焦げ付く音を聞いた。


「これ以上、傷つけたくないですよね」


 日々木の掌が、頭から離れる。同時に、頸動脈に触れている刃が、少し強く押し当てられた。ちくりとして、何かが流れる。血だった。動くな、ということだろう。

 彼女の手が、緑色のスプリングコートに隠れた。再び姿を現した時には、そこに黒い粒が抓まれていた。


「飲んでください」


 そう言って、ゆっくり投げた。

匡が右手で受け止める。


「睡眠薬です。飲んでください。飲めば力が抜けて、意識が消えます。安心してください。作用は強力ですが、後遺症は残りません」


 日々木の言葉に、久義は動揺した。硬直していた身体がビクンと跳ね、咳きこんだ。

 頸動脈の刃が食い込み、血の玉が群れを成していく。


「貴方も動かないでください。あと一ミリ足らずで、致命傷ですよ」


 首に触れた凶器よりも、冷たい声。だが、久義にその温度までは伝わらなかった。

 聴覚含む、五感が鈍くなっていた。

 ただ、熱かった。

 熱さにうなされるように、呻いた。


「眠らせて……どうするつもりだ」


「貴方には関係のないことです」


 返答と同時に、床に顔を叩きつけられた。

 しかし、痛みはなかった


「関係なく、ない。……匡は、俺の友達だ」


 友達。

 その言葉が、頭蓋に響く。

 一音一音がさざめき、熱を生んでいく。

 身を焼くような、炎熱。

 全身を駆け巡り、苛む業火。

 痛みすら、伴うような。

 痛みが、意識を昂らせる。

 そう、友達だ。彼女は、俺が護らねばならない人だ。

 だって、彼女は俺を許してくれた。

 丑の刻参りを。俺の罪を。


 だから。


「ああ、鬱陶しい」


 日々木の無表情に、一滴ほどの苛立ちが滲んだ。

 カツン。

 直後、冷たいものが触れた。後頭部だ。丸い輪郭が、感触として染みこむ。続いて、頭から熱が吸い取られていく。心が強制的に和らぎ、張りを失っていく。


「安楽に身を委ねなさい。貴方が何かを懸念することはない。意味もない」


 強烈な安堵。黒い残滓が次々と剥ぎ取られる。二十本の指先から、優しく神経が抜かれていく。

 四肢の筋肉が温もりと共に蒸発していく。

 全身の感覚がしぼみ、胎内の赤子のような大きさにまで丸まっていく。


 すごく、眠たい。


 首筋に刃をあてがわれているはずなのに、まるで母に抱かれているような気分。満ち足りて、何も不安はない。懸念することもない。心地の良い無力感。無力でいいのだと感じる。

 それは罪ではない。

 俺に罪はない。


 許さねぇぞ。


 言葉が脳に焦げ付いた。焼け跡から意識が盛り上がる。


「許さねぇぞ」


 同じ言葉。その時になって、それが己の口から出たものだと、久義は気付いた。

 熱い。神経が、筋肉が、骨格が熱い。細胞全てが焔に焼かれている。もはや後頭部の冷温は毛ほども意味をなさない。

 安堵は消え去る。激痛が全身に張り巡らされる。血が一滴残らず釘のように尖り、余すとこなく貫いているようだ。

 釘。ああ、釘だ。


 俺に罪がない?


 冗談だろう?


 許さない。鼻骨が砕けようと、首が切られようと、五臓六腑がばらばらになろうと、命を失ってさえ、ここで眠ることは俺自身が許さない。

 まだ、匡の危機は去っていない。

 誰のせいだ。

 日々木か。

 それもある。


 彼女は殺す。


 匡の脇腹に血を滲ませた、彼女は殺してやる。

 でも、彼女のせいだけではない。

 彼女に良いように人質にされた、俺のせいだ。


 俺も殺す。


 匡を傷付けるものは、全て罪人だ。

 罪人は、焚殺されるべきだ。

 熱い。

 体が熱い。


 あの丑の刻参りの夜のようだ。


 匡を呪い、その罪が高熱となり、身を灼いたあの夜。

 あそこで死んでおけばよかった。

 だが、もういい。

 俺は生き延びた。


 ここで、焼け死ぬためにだ。


 無数の思考が、久義の中で絡み合う。時間にして、一瞬。一瞬のうちに、膨大な罪の意識が、殺意が、己への悪罵が噴き上がり、互いに擦れ合い、火花を散らしていく。

 密度を増して、滞り、黒ずんで。


 ぶつりと、熱が弾けた。


「久義っ!」


 匡の声が聞こえた。絶叫だった。そちらを見ると、今にも眼球がこぼれそうなほど目を見開く彼女がいた。

 その瞳が、赤黒い光を放っていた。

 否、彼女の瞳だけではない。気がつくと、病室全体が赤黒く染まっていた。まるで炭交じりの血を溶かしたような明かりが、煌々と揺らいでいる。

 それにしても、熱い。さっき、何かが体で弾けた気がする。それは、右手だったように思う。右手が、酷く熱い。そちらに視線をやる。


「ああ」


 そして、久義は理解した。光の正体を。熱の正体を。

 右手から、赤黒い炎が迸っていた。

 止めどなく焔を猛らせながら、右手が何かを掴んでいた。

 日々木の足首だった。


「ぐっ……が……」


 彼女の顔が苦悶に歪む。肉の焦げる匂いが鼻に届く。炎が日々木の脚を舐め、皮膚を焼いて捲り上げていた。

 久義は自分が何をしているのか分からなかった。

 体の中では依然として炎熱が膨らみ、痛みと共に全身を駆けまわっていた。


 それでも、匡を救わねばならないと思った。


 そのためには日々木を、匡に刃を向けるこの少女を、焼き殺さなければならない。

 久義は自分がうつ伏せになったままだと気付いた。これでは、どこに何があるのか分からない。

 足首から手を離し、ゴロリと身体を回転させて、仰向けになった。

 日々木の顔が見えた。

 こちらを見下ろしている。

 彼女は少し、動揺しているらしかった。


 何かが光っていた。刃だ。これは危ない。匡に刺さりでもしたら大変だ。久義は右手で、日々木の左手を包むように握った。

 細い指の一本一本が脂で泡立ち、力を失うのが分かった。


 ああ、首が熱い。

 しゅうしゅうと音を立てている。血が迸っていた。先ほど体を動かした際、日々木の刃がさらに深く頸動脈に潜り込んだのだ。


 その傷口が、ぶつりと音を立てた。


 右手と同じように、赤黒い炎が噴き上がった。

 それがきっかけとなったように、全身で熱が弾け始めた。左足。右肩。胸。脇腹。右膝。繊維が裂けるようにして、焔が躍り出てくる。


 とても、痛い。

 とても、苦しい

 ああ、焼け死ぬのだな。


 久義は理解した。ここで、自分は死ぬ。この赤黒い炎に包まれて死ぬ。

 燃える左手を日々木に伸ばす。首を掴もうとする。


 瞬間、頭部に肘が打ち下ろされた。


 額が切れ、そこから炎がチロチロと舌を出す。

 左手がぶれ、首ではなく、彼女の襟元を掴む。そのまま、引っ張った。

 日々木の身体が、被さるようにして落ちてきた。


 脇腹に彼女の右鉤突きが刺さる。日々木は必死に抵抗しているようだった。しかし、久義は構わず彼女の背中に腕を回した。赤黒い炎の塊と化した左腕だ。ありったけの力を込め、抱きしめる。


 絶対に逃がさない。

 

 ここで、一緒に焼け死んでもらう。

 

 何かを、匡が叫んでいた。しかし、もう上手く聞こえなかった。鼓膜も焼け爛れているらしかった。

 陽炎で朦朧とする視界いっぱいに、日々木の顔が映っている。眉間に深く皺を刻み、歯を食いしばり、額に汗を浮かべている。

 その双眸に、炎が揺らいでいた。

 久義から溢れ出る赤黒い業火ではない。


 彼女の目で燃えさかるのは、闘志だった。


 足首を焼かれ、左手を灼かれ、背中を焦がされながら、それでも日々木は少しも怯んでいなかった。

 忌々しげに、彼女は舌を鳴らした。カツンと、音が響き渡る。

 瞬間、日々木の右手に透明な造形が生じた。

 それが二本の十字であると、久義は分からなかった。

 その瞬間、彼には目の前にあるのものが、日々木の姿が、全く別の物に見えていた。


 それは、虚だった。 

 虚を湛えた、黒い木箱だった。

 子どもほどの大きさの、黒い木箱だった。


 瞬間、久義の未だ焼き潰されていない肌が、一斉に粟立った。心臓が爆弾のような音を立てて跳ねた。

 その間隙を、日々木は見逃さなかった。

 彼女は十字架を久義の腹に落すと、舌を鳴らした。


 透明。


 光の尾を引きながら、日々木の右手が動いた。そして、自らの左手を焼き潰している久義の右手を、なぞるように揺れた。

 ずるりと、彼女の左手が解放された。


 久義の右の五指が、床に転がっていた。


 切り離されたのだ。何に? 久義は日々木を見た。

 彼女の右手、その人差し指と中指の間に、透明な平行四辺形が挟まれていた。


「……ちっ」


 日々木は小さく舌打ちを残し、やや覚束ない足取りで、病室の窓へ歩いていった。身に負ったダメージは深いようだ。


「その人、ほっとくと死にますよ」


 日々木が力の薄れた声で言った。

 匡への牽制だろうか。

 しかし、それは意味のない行為だった。

 匡はその言葉を聞くより先に、久義に駆け寄っていた。


「久義! 久義! 大丈夫だからね! 僕が絶対助けるからね!」


 ぼんやりと、音の輪郭ばかりが聞こえる。久義の世界は、今や陽炎に呑まれたように朦朧としていた。

 部屋に湿った風が流れ込んでいる。

 窓が開いているのかもしれない。

 日々木が飛び降りたのかもしれない。

 頬に温かい滴が落ちるのを感じる。

 匡が泣いているのかもしれない。

 匡が悲しんでいるのかもしれない。

 全てが曖昧だった。そんな意識の中、確かな思いは一つだけ。

 ああ、良かった。


 匡を守ることができた。


 五体に業火を燻らせながら、それでも久義は安らかな表情を浮かべて、眠りについた。

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