邪悪は四方に溜まる




 久義はエレベーターが嫌いだ。

 閉所恐怖症の気があるらしく、四方の閉じた空間というのは、とにかく好かなかった。


 それなのに、彼は箱内病院でエレベーターが降りてくるのを待っていた。


 階段を使うのが億劫になったわけではない。久義は十年以上、この病院に通い詰めているが、それでも匡の病室に行くためエレベーターに乗ったことはない。

 彼女がいるのは八階であったが、それでも久義はいつだって階段を選び、長い時間えっちらおっちら上り下りしていた。

 そんな久義がエレベーターを待つというのだから、これはまさしく異常事態である。


 真に異常なのは、箱内病院のほうであったが。


 改めて、周囲を見回す。いつもは子どもだの、年寄りだの、人間ドックのサラリーマンだので賑やかなのに、今日は驚くほど静かだった。人がほとんどいない。たまに視界の端を横切るのは、売店目的の患者ぐらい。その患者も、まるで何かから逃げるように、落ち着かない様子であった。


 原因は何となく分かっていた。


 空気が、淀んでいる。


 濁った泥水の中にいるような不快感。ねばつく肌感覚、重みを増す悪寒。正体の分からない気味の悪さは、目には見えないものの、確かにそこで蠢いていた。


 帰りたいと思った。しかし、帰れない。久義は肩から下げている鞄の紐を握った。その中に、今日の講義のレジュメが入っていた。これを渡さなければ、彼女の単位も危ういだろう。


(いや、本当は分かってる)


 汗を滲ませながら、思う。自分がここに来た、本当の理由について。レジュメ云々は、言い訳に過ぎないのだ。それは誰に対してか。


 日々木歌子。


 久義は彼女の言葉を思い返す。熱があるのだから、今日の見舞いには来るな。要約すればそうなるだろう。久義は一度、彼女の言葉を受け入れた。本当に、そうしようと思った。だが、できなかった。不安になったのだ。


 今、匡は無事だろうか。


 吉田のいう奇病。日々木に対して感じた引っ掛かり。その全てが絡み合い、悪い虫の知らせを引きずり出す。

 病院に来れば、悪い予感は消えるのではないかと、どこかで期待していた。しかし、実際にはそうならなかった。院内で蠢く目に見えない瘴気が、久義の体をなぶり、心の奥底の不安をほじくり返した。


 過去の丑の刻参りの記憶さえも。


 久義は体がじんわりと熱くなるのを感じた。まただ。どうにも最近、例の知恵熱が頻繁に顔を出すようになった。思考を止め、呼吸だけを意識する。しかし、熱は少し勢いを弱めただけで、しぶとく滞留した。


 食堂でのことを思い出す。あの時の熱が、ぶり返してきたのか。日々木の透明な石の効果は、どうやら一時的なものらしい。

 まるで波が寄せて返すように、体温がじわじわと上がっていく。周囲にはびこる悪い空気も、炎熱を助長しているようだった。頭がくらくらして、付近の壁にもたれかかる。

 ゴトンと、振動が伝わった。一拍遅れて、ドアが開く。エレベーターが到着したらしい。乗らねばならないと思い、のそのそと久義は動きだした。


 そして、エレベーターから出てきた人影に、ぶつかりそうになった。


「あっ……すいません」


 くぐもった声で謝罪し、乗り込もうとする。

 そんな彼を、たった今降りてきた人物が呼び止めた。


「あれ、久義くんじゃないか」


 突然名前を呼ばれ、少しだけ肩をびくつかせるが、遅れて声に聞き覚えがあることに気づいた。そちらを向く。

 後ろ手に結わえた黒い長髪、整った美しい顔立ち。とても成人間近の娘がいるとは思えない若々しい姿。


 箱内立方が、立っていた。


「あ……箱内先生。こ、こんにちは」


「うん、こんにちは。今日は見舞いかな?」


 立方が穏やかに微笑む。黙っていると陰のある美人という感じだが、話してみると案外に暖かなのが彼女である。今日も今日とて、箱内病院内の妙な雰囲気なんかどこ吹く風と、のほほんとしていた。神経が太いのだろう。

 久義は頷いた。


「見舞いがてら、授業のプリントを渡しに……。箱内先生は……休憩中ですか?」


 立方は多忙だ。院長というのは実に仕事が多いのだと、匡も言っていた。だから久義も、病院で彼女を見かけることはあれど、話すことは滅多になかった。

 立方は笑って「サボり中かな」と言った。


「今日は外来も少ないからね。回診も会議も終わって、こうやってブラブラしてるのさ。休める時は休むのが、健康の秘訣だよ」


「……勉強になります」


「うんうん、勉強したまえ。たたでさえ君はクマが酷いんだ。……それにしても」


 立方は久義の顔と、エレベーターとを見比べて、意外そうな顔をした。


「珍しいね。久義くんが、階段使わないなんて」


「う……いや、その」


 久義は言葉に困った。自分が今日、階段を使わない理由。その内容が、かなり妙だったからだ。

 箱内病院の階段は玄関から入ってすぐのところにある。手すりも踊り場も清潔にしてあり、電灯の明かりも窓からの日光も柔らかなため、上っているだけで何となく穏やかな気持ちになれる階段なのだが、今日に限っては違った。


 無性に、忌々しかったのだ。


 いつものように丁寧に掃除してあり、光にだって満ちているのに、その全てが神経をささくれ立たせる敵意を纏っているような感じがした。

 原因は分からない。分からないが、それでも階段を使おうという気にはなれなかった。これならば、まだエレベーターのほうがマシだと思ったのである。


 こんな理由なので、久義は言葉に困った。階段がいけ好かないので、エレベーターを使うことにしたなど、院長である立方に対して、どう説明すればよいのか。貧相な語彙を駆使して、笑われるならばまだいいが、不快な思いをさせたならば目も当てられない。久義は友人の母親を敵に回す趣味はなかった。

 押し黙っていると、立方が少しばかり眉尻を下げた。


「久義くん、もしかして疲れてるの? ……ちゃんと眠れてる?」


「え? ……ね、眠れてますよ」


「本当に? 悩みとかない? 大学生活は順調?」


 久義は少しばかりたじろいだ。近頃話してなかったので忘れていたが、立方はかなりのお節介焼きなのだ。

 心配してくれるのはありがたいが、仮に同じことを付き合いの長くない人間にやられた場合、久義は石のように固まる自信があった。会話が苦手なのである。


「じゅ、順調……です。最近は……その、一緒に食事する相手も出来ましたし」


「え!? 久義くん、もしかして彼女できたの!?」


「ち、違います……友達です……」


 それも、自分と同じくらいの図体と人相を誇る男友達である。久義が弁明すれば、立方はにやにやと笑った。


「ふーん、そっか。じゃ、まだまだ匡も枕を高くして眠れるってことだね」


 からかうような友人の母の口調に、久義は眉を八の字にして頬をざりざりと掻く。

 どうにも立方は、昔から彼と匡との関係を茶化す傾向があった。その度に久義は照れたり、恥じたり、ばつの悪い顔になったりした。もっとも、彼は生まれつきばつの悪い顔なのだが。


「い、いや。……俺と匡は、そんなんじゃ」


 久義はいたたまれなくなって、指の腹を煙が出るほど擦っていると、ふっと立方が優しい笑みを浮かべた。


「ま、いいや。惚れた腫れたは、若い二人に任せるとするよ。とにかく、久義くんがリラックスできたようで何より」


「え?」


 そこで久義は気付いた。

 いつの間にやら、熱が抜けている。立方と話しているうちに、血管まで焦げ付きそうな感覚が、すっかり霧散していた。


「病は気から。心が塞がっていると、悪いものがどんどんたまっていくものさ。独りで抱え込まないで、周囲に頼りなさい」


 微笑みながら、彼女は言った。


「あ……ありがとう、ございます」


 久義は彼女の言葉を嬉しく思ったが、同時にどことなく気恥ずかしくもなったので、やや耳たぶを赤くしながら礼を言った。立方は満足げに頷くと、


「じゃ、匡をよろしくね。あ、そうだ。お悩み相談は結構いいコミュニケーションみたいだから、上手くやったら距離がグッと縮まるかも」


 そう楽しそうに言って、ヒラヒラ手を振ると、去っていった。果たして彼女の軽口は、こちらをリラックスさせるためのものだったのか、それとも単に面白がってのことなのか。久義は友人の母のことがいまいち分からなかった。

 それでも。


「……悪い人じゃあ、ないよな。やっぱ」


 久義は一人、納得するように頷いた。大悟は彼女を怖そうだといったが、彼だって実際に話してみれば、きっと誤解は解けることだろう。血便やら血尿やら、消化器官のトラブルにだって、親身になり対応してくれるはずだ。


「もっかい、箱内病院を紹介してやるか」


 独り言をポツリと溢し、エレベーターに乗り込む。行き先は八階。友人の待つ病室へ。動き出した機体を感じながら、久義はふと思った。


 そういえば、奇病について立方に聞いていなかった。


 彼女はこの大病院の長である。であればこそ、あの病気について豊富な医学知識に基づく見解を、聞けたのではないか。


 少なくとも、あの奇病が丑の刻参りのせいではないという、そんな見解が。


 久義は吉田から話を聞いた時から、ずっとある夢想をしていた。

 奇病の正体についてだ。あるいは、この箱内病院で蠢く、悪い何かの正体について。


 それらは皆、俺が突き刺した釘によるものではないか。


 あの丑の刻参りの夜、藁人形に突き刺した釘、その切っ先が、十数年の時を経て、匡に届こうとしているのではないか。

 どろりと、全身を汗の膜が包む。また、炎熱だ。立方が対話で拭ってくれた焔が、己の中でジクジクと燃えている。とてつもない悪寒。所在なく、肩にかけた鞄の紐を握りしめた。


 匡は、大丈夫だろうか。


 気付けば、真っ白に濁った人差し指が、エレベーターのボタンを連打していた。一刻も早く、辿り着かねばならない。そんな思いが彼の頭を覆っていた。


 刹那、天井が落ちてきたような気がした。


 見上げる。汚れ一つない天井が、依然としてそこにあった。落ちてきていたのは、天井そのものではない。天井の向こうにあるものだ。

 とても嫌な、重圧。

 病院内に充満していた瘴気、それを濃縮したような強い邪悪。質量すら伴うような、恐ろしい忌避感。

 そんなものが、天井の上から降り注いでいる。

 天井の上には、何がある。八階。匡の病室。久義は確信した。


 彼女の近くに、何かが陣取っている。


 邪気がどんどん強まり、熱がどんどん上がり、これ以上は血液が茹ると思った時、ようやく扉が開いた。目前のクリーム色の廊下と白い壁が、三途の川と彼岸のように遠く見えた。

 同時に、おぞましい空気が濁流の如く雪崩れ込んでくる。


「匡……!」


 熱と共にはい回る怖気を振り払うように、久義は一歩踏み出した。


 瞬間、足を切り落としたくなった。


 一瞬遅れて、久義は自分が何かを踏んでいることに気づいた。そこから嫌な感覚が這い上り、足首に絡み付いているようだった。

 咄嗟に蹴り飛ばす。少しの擦過音と、小さな衝突音。踏んでいた何かが、廊下に横たわっている。久義はそれを見た。見てしまった。本当なら見るのも嫌なのに、目を奪われてしまった。

 それは、十字の形をしていた。そして――。


 透明だった。


 見覚えがある。この色は見覚えがある。食堂で、これと全く同じ色合いの石を目にした。これと全く同じ色合いの石は、俺から熱を奪い去り、救ってくれた。


「日々木さん」


 彼女は今、何をしているのだろう。もう、匡の元には行ったのだろうか。あの透明な石を渡したのだろうか。


 この、忌々しい空気を抜けて?


 久義は走り出した。病院の中で走るのは初めてだった。いつもは廊下にある看護師や患者の影もなく、無人の風を体が切り裂いていく。

 悪寒が強まっていく。久義は遠のいていく透明な十字を思う。そして、確信する。自分が向かっている場所に、全く同じものがあるはずだ。


 つまりは、匡の病室に。


 走る、奔る、疾駆する。無限のように感じる距離と、重い瘴気を乗り越えて、ついに匡のいる病室の扉に手を掛ける。力任せに、引き放つ。その一瞬一瞬、匡と日々木の談笑風景があるのを祈りながら。


 光。


 刹那、目に飛び込んできたのは光だった。窓からの鈍い日差しを反射し、煌めいているものがあった。煌めいているものを、日々木が持っていた。


 あの透明な石を、渡しているのか。しかし、その光は白銀で。しかも、それを日々木は右の逆手で持っていて。あらゆる視覚情報が、それは石ではないと訴えていて。


 ようやく、久義は理解した。


 日々木が振りかざしているのは、金物だった。

 彼女は匡に対して、刃を振りかざしているのだった。

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