日々に混ざる透明




「最近、血便と血尿が出るんすよ」


 大山おおやま大悟だいごは伸びをしながら言った。その広い背中が、パキパキと鳴る。

 それから、清々しい笑顔でサムズアップした。


「だから、その子の気持ちはすげー分かります!」


「……食事中に汚い話するなよ」


 久義は嫌そうな顔をしながら言った。

 大悟はポカンと口を開き、如何にも腑に落ちないという表情を浮かべた。

 その坊主頭をガシガシと掻いて、文句を垂れる。


「いや、最初に汚い話はじめたの久義さんじゃないすか! 何すか、友達の見舞いに行ったら見ず知らずの女の子の血反吐浴びたって! こちとらハヤシライス食ってるんすよ!?」


「……俺は、麻婆豆腐。……相打ちだな」


「いや、相打ちってなんすか。え、俺達いつの間にか交戦状態に入ってるんすか? ルール無用の食欲減退バトル? 何すかその誰も笑顔にならない食戟」


「……そのハヤシライス……要らないなら貰っていいか」


「良い訳ないでしょ!? ちょ、シームレスにご飯掠め取んな! 白米への戦時中レベルの執着捨てろコラ!!」


 大悟は自分のお盆を両腕で囲み、がるる、と威嚇した。ケチな男である。

 時刻は正午。

 場所は、久義の通う甘倉国立大学の、食堂である。

 腹を空かせた大学生でごった返す室内で、久義と大悟は向かい合いながら、昼食をつついていた。

 四人掛けのテーブルである。

 空席が二つ。

 気配で咽るほどの人口密度で、彼らへの相席を申し出る者がいないのは、久義の顔が怖いからではない。


 久義の顔も、怖いからである。


 坊主頭のメンチ切ってくる大男。大山大悟を一言で形容すれば、そのようになる。

 背丈は百八十センチ後半、本人曰く体重は秘密。久義に負けず劣らずの筋肉を搭載しており、同水準の人相の悪さも誇る。

 垂れ目の四白眼は凄んでいるような印象を与え、やや大きな口と薄い唇は今にも噛んできそうな獰猛さを滲ませている。


 服のセンスも最悪で、ピンクの布地に黒く『乙』と刻まれたダサいTシャツを身に纏うという有様だ。

 さらに最悪なのは、服装の持つ滑稽なイメージを、彼の凶相が不気味なものに変えてしまっているという点か。


 この男に初めて話しかけられた時、久義は心臓が口から溢れそうになるほど慄いた。てっぺんからつま先まで、ならず者に見えたからだ。

 その誤解は、彼がオープンキャンパスに来ていた高校三年生であると分かるまで続いた。

 話してみると意外と気のいい奴で、どことなく親近感を覚えた久義は、親身になって彼に学内を案内した。

 昨年の夏の出来事である。


 再会したのは、今年の四月である。希望に満ち溢れた表情で入学してきた大悟は、あっという間に久義の友人になった。

 友人ゼロの灰色キャンパスライフに、ようやくモノクロ程度の趣が出てきた次第である。

 以降から今日まで、おすすめの授業や美味しい食堂メニュー、休み時間たむろできる空き教室について指導し、目一杯に先輩風を吹かせる日々が続いている。


 本日も例に漏れず、二人仲良くむさ苦しいランチタイムを楽しんでいた。

 そこで久義が昨日のことを話し、大悟が血染めの排泄事情を打明け、今に至る。


「しかし、心配っすね」


 血便だ何だとほざいた舌が乾かぬうちに、手元のハヤシライスにぱくつきながら、坊主頭が言った。


「大丈夫なんすかね、その子。血の混じったゲロ吐くなんて、よっぽどのことっすよ」


「……いや、もう体調はよくなったらしい。昨日のうちに、退院したって」


 久義は夕方、吉田に通話アプリでメッセージを送った際のことを思い出した。

 一秒で既読がつき、少女が快復した旨を返信された。

 安心すると共に、診療時間中にここまで早いレスポンスが可能な吉田医院の閑古鳥っぷりを憂いた。


「それより……心配なのはお前の体調だよ」


「え?」


「え、じゃないよ……何だよ、血便に血尿って。消化器官に何重苦背負わせたらそうなるんだよ」


「うーん、そんなこと言われてもなあ。俺だって、体調には気を付けてるんすよ? でも、見れば分かる通り俺って悩み事多いでしょ? まさにバリケードって感じ」


「それを言うなら……デリケートだろうよ。何を通せんぼしてんだ。結石か?」


「こ、この齢で尿路結石は、ちょっと……」


 冷や汗を垂れながす大悟に、久義は溜め息を吐いた。


「まあ……お前の血みどろの下半身事情は分かった」


「人の肛門と尿道を殺人現場みたいに表現すんのやめてください」


 えんがちょな異議申し立てを無視して、続ける。


「とにかく、体の調子が悪いんなら箱内病院に行け。……彼らは名医だぜ」


 オール親切心からの申し出である。

 それなのに、大悟は苦虫を噛み潰したような顔をした。なお、スプーンは止めない。


「えー、俺あそこ苦手なんすよ」


「何で」


「ううん、何つーか……久義さん、あそこの院長見たことあります?」


 久義は頷いた。

 見たことがあるどころか、知り合いである。

 箱内医院の院長、すなわち箱内立方りほは匡の母親だった。

 現在も廊下を歩いているのを見かけたり、たまに言葉を交わしたりもするが、長い黒髪をポニーテールにまとめた姿は、四十代とは思えないほど若々しい。

 まなじりに入った物憂げな皺を加味しても、二十代で十分に通用しそうな美人である。


「あの人、何か怖くありません?」


 久義は目を丸くした。一体全体、この食い意地の張った坊主頭は何を言うのか。


「……綺麗な人だと、思うけど」


「いや、それは滅茶苦茶同意しますよ!? あんな綺麗な妙齢の女性に診察してもらった日にゃ、うぶな少年は軒並み性癖ねじ曲がりますよ! 俺だって綺麗なお姉さんは大好きさ!」


(こいつ性癖の話となると途端に早口になるな。信用できる)


 久義はうんうんと頷いて、尋ねた。


「でも、じゃあどうして怖いだなんて思うんだ? 話したことでもあるのか?」


 友人の母親である彼女の物腰を思い出す。

 社会的地位は高いが、それでもかなりフレンドリーな方だったと思うが。


「いや、実際に話したことはないんすけど」


 大悟は困ったように頭を掻き、言った。


「なんつーか、雰囲気が重いんすよね、あの人。風格? 気迫? うーん、上手いこと言えないんすけどねえ」


 風格も気迫も、彼女から感じたことはない。

 ただ、雰囲気が重いというのは、少しだけ納得できる気がした。


 彼女の、目だ。


 立方は、いつもどこかくたびれた目をしているのだ。

 それが、冷たく映ることもあるだろう。怖く映ることも、また然り。

 しかし、それは仕方がないことだと思う。

 大病院の長というだけでも、久義には計り知れない重圧を抱え込んでいるのだろう。


 その上、一人娘が長らく入院しているとあっては。


「悪い人じゃない……きっと」


「ううむ、久義さんがそう言うんなら、そうなのかもしんないっすけど……。でもなー。俺、険のある美人って苦手なんすよね」


「……何か、過去に女性関係で嫌なことでもあったのか」


「えっ。……いや、俺そんな色恋沙汰は一回もないっすよ……。男大山大悟、二十歳を前に清い身っす……」


 大悟の語気が塩をまぶした高菜のようにしおれていく。その様子が少しばかり面白かったので、久義は微かに笑った。口角が吊り上がり、太い歯が覗く。

 何も知らない人間が見たら、裏に並々ならぬ悪意を感じてしまう毒笑であるが、本人に自覚はない。

 大悟はその笑みを額面通りに受け取ったらしく、


「後輩の気の毒な経歴を嘲笑うとか人間でねえ!」


 と口を尖らせた。


「あークッソ、傷つく……。大体、久義さんだって女性経歴まっさらでしょ?」


「そうだけど」


「ぐぎぎ、何すかその軽い反応! 余裕ぶっちゃってさあ! あ、まさか女性に興味ないとか……」


「他人のセクシャリティーを捏造するな」


 久義はその濁った手で軽くチョップを見舞った。

 石を打ちつけたような硬い音がした。

 大悟は少し脳が揺れたらしく、一瞬白目を剥いてから、何事もなかったようにハヤシライスを食べ始めた。

 少し間を置き、ハッとした表情になった。


「どわわ、ちょっと! 記憶がコンマ単位で飛んでたじゃないっすか! アンタ馬鹿みたいに手ェ固いんすから、人を殴る時は細心の注意を払ってくださいよ!」


(殴ること自体は良いのか)


「分かればいいんすよ分かれば」


(まだ何も言ってない)


 大悟は不服そうな顔でハヤシライスを食べ進めると、「にしても旨いなこれ」と直ぐに機嫌を良くした。単純な男である。


 その様子を見ながら、久義はぼんやりと思う。

 自分は異性愛者だ。女性に興味はある。だが、たとえば恋人のような、大切な存在が出来るとは思えなかった。


 匡以上に、大切な存在は。


「そういえば、件の幼馴染の女の子とはどうなんすか?」


 久義はむせた。鼻から麻婆豆腐がこぼれる。

 ひとしきり咳きこんでから、


「……妙なこと聞くなよ」


 と眉尻を下げた。困り顔もしっかり怖い。涙目だが、眼光だけで潤みが蒸発しそうである。

 しかし、大悟は流石に心得たもので、両眉を少し上げてお道化るように言った。


「だってー。その……名前、何でしたっけ」


「匡」


「そうそう、スクイさん。スクイさんとは、もう十年以上の付き合いなんでしょ? 何つーか、良い雰囲気になったりしたこと、ないんすか?」


「しないよ」


 久義は渋い顔をした。

 匡とそういう関係――恋仲になるなんて、考えたこともない。

 彼女は自分ではなく、もっと真っ当な男と関係を持ち、ちゃんと幸せになるべきだと思う。

 匡は友人だ。とても、大切な友人。

 それで十分だ。

 それ以上の仲になりたいとは思わない。


 なる資格なんて、俺にはない。


「俺はあいつを……の、呪った……から」


 大悟はポカンとして、それから呆れたように溜め息を吐いた。


「前々から思ってたんすけど、久義さんって不思議ちゃんの気がありますよね」


「……何を言うんだお前は」


「べっつにー」


 大悟はやれやれという顔で、一息に皿を空にした。

 それからデザートのフルーツヨーグルトに手を伸ばしつつ、口を開いた。


「ま、いいっすよ。惚れた腫れただけが人の縁じゃなし、男女の友情も結構結構コケコッコーっす。しかし、あれっすね。久義さんがボーイフレンドとなると、スクイさんにゃあ悪い虫が付くことはなさそうっすね」


「そんな輩……寄るだけで殺してやる」


「こっわ」


 あまりにも久義の発言が堂に入っていたため、大悟はほんの少し青ざめながら、それでも尚ヨーグルトを食べる手を止めなかった。彼は食いしん坊だった。


 久義は食堂の窓から外を見る。

 ここからでは見えないが、数百メートルも歩けば、そこに箱内病院がある。

 この後も見舞いに行く予定だ。

 ついでに今日の講義のプリントも届ける。

 匡が単位を取得するためなら火の中水の中である。


 そうだ。俺は、匡のためなら何だってする。悪いものから、彼女を守るためならば。

 悪いものから。


 何かがあの病院で、悪さでもしているのかな。


「久義さん? あれ? どうしたんすか?」


 気付けば、大悟の強面が間近にあった。

 驚いて、思わず裏拳を放つ。ぶべらっ! と奇声を発して坊主頭が吹っ飛んだ。

 幸い窓際の席だったので、他の机を巻き込むことはなかったが、代わりに周囲の冷たい視線が突き刺さる。

 久義はそそくさと大悟を起こし、ぺちぺちと頬を叩きながら椅子に座らせた。


「すまん、すまんな。大丈夫か?」


「いや……別にいいっすけど。てか、久義さんこそ大丈夫すか? 顔、真っ赤っすよ?」


 久義は思わず、自らの額に手を当てた。

 ごつりとした頭蓋が、満遍なく熱くなっている。

 心が遠くに飛んでいたから、身体の不調に気づかなかった。

 久義は呼気を整え、何も考えないようにする。こうすれば熱が引くはずだ。

 しかし、いつまで経っても肌は赤いままだった。


「大丈夫っすか?」


「いや、大丈夫。……お前こそ、血便と血尿大丈夫か? 甘倉には箱内病院のほかに、吉田医院ってのもあるから……」


 まるで寝ぼけているような、ふわふわした口調になった。

 そんな久義を見て、大悟は「ただ事ではない」と判断したようだった。


「今更その話は蒸し返さなくていいっすから! ちょ、マジでしっかりしてください! 病院行きましょ!? ほら、肩貸しますから!」


「心配すんな。……あ、じゃあ冷えピタ買ってきて。金……渡す……」


 財布を取り出そうとするが、ポケットにうまい具合に手を入れられない。

 指先から、力が抜けていく。


「金は後でいいっすから! じゃ、じゃあちょっと待っててください! 秒で買ってきます!」


 どたどたと坊主頭が遠ざかる。

 その背中を見ながら、あの男は良い奴だなとしみじみ思った。


 思う傍から、脳内で別のものが乱舞していく。

 それは、たとえば匡のことだったり、血反吐の少女の姿だったり、吉田の言葉だったりした。


 何かがあの病院で、悪さでもしているのかな。


 再び、吉田の声。

 箱内病院では奇病が流行っているのだそうだ。

 赤に染まった少女が昨日の記憶に倒れ伏す。

 匡がベッドの上で寝ている。

 少しの汚れもない、真っ白いベッドの上。


 そこに、真っ黒い釘が迫っている。


 しんどくなってきた。久義は机に突っ伏す。

 表面が冷たくて心地よかったが、すぐに体温が伝播して温くなってしまう。

 燃えているようだ。炙られている感じだ。その高熱に、覚えがあった。

 まるで、あの夜。

 丑の刻参りの、夜のような。


 カツン。


 固い響きだった。

 一瞬、鉄鎚の音かと思った。

 しかし、音はそれっきりだった。

 正体を知るより先に、何も聞こえなくなった。


 一拍置いて、額に冷たいものを感じた。


 しゅるりと、呼気が漏れた。

 心地よかった。

 額の冷たさが、炎熱を瞬く間に吸い取っていった。

 煩雑な混乱も消え、精神が凪いでいくのを感じた。


 大悟が冷えピタを買ってきてくれたのか。

 礼を言わねばならない。

 久義は感謝を述べようと、身体を起こして。


 坊主頭が見えないのに気付いた。


「大悟?」


 後輩の名を呼ぶ。返答はない。どこにもあの大男はいない。まだ帰ってきていないらしかった。

 それでは、あの冷たい感触は何だったのか。

 そこまで考えて、久義は何とはなしに、さっきまで大悟が座っていた場所を見た。


 息を呑んだ。


 大きな二重の目。

 栗色の瞳。

 滑らかな白い肌。

 形の良い頭から、色素の薄い茶髪が肩に触れ、柔らかく波打っている。

 背丈は百六十センチほどだろうか。細い肢体を、薄緑色のスプリングコートが寄り添うように包んでいた。


 ああ、こんな顔だったな。


「やはり、貴方でしたか」


 小さく膨らんだ薄桃色の唇が開く。

 透き通った声。

 高すぎず低すぎず、心地よく鼓膜を揺らす、鈴のような声音。

 当たり前だが、もう口の端から血反吐が噴きこぼれることはなかった。


 昨日の少女が、座っていた。


「あの時はありがとうございました。お陰様で、今はこのように健康体です」


 鈴のような声が後から後から転がり出る。

 しかし、その表情は硬い。

 笑みなど欠片も上がることなく、唇が動いている。

 それなのに、少女は美しかった。

 笑っても怖い自分とは大違いだと、久義はぼんやり思った。突然の再会に、頭が混乱していた。

 ずっと黙っていると、彼女は一瞬の間を置き、「失礼しました」と言った。


「自己紹介がまだでしたね。私は日々木ひびき歌子かこと言います。平穏な日々のヒビに、木々のキ。歌手のカに、子どものコです」


 ご丁寧に漢字まで教えてくれる日々木に、久義は慌てて答えた。


「あ、あの……お、俺は……」


「伊国久義さん、ですね」


 久義は驚いた。

 なぜ、彼女は自分の名を知っているのか。

 そんな疑問が、顔から出ていたらしい。

 日々木は、言った。


「吉田先生から聞きました。貴方のこと、大切なお得意様だと言ってましたよ」


 表情を動かすことなく、日々木は明瞭な口調で言った。


(そういえば、この子はどうして、吉田医院に行きたいなんて言ったんだろう)


 久義は、そんなことを思う。

 口には出さない。

 会って間もない人間と、スムーズな会話なんてできない。

 ましてや相手は女性。異性との学内交流なんて、授業を除けば初めてのことだ。

 久義は自分の脳味噌に緊張が張りつめるのを感じた。


「ここの学生だったのですね」


「え……あ……はい。……二回生、です」


「では、私より一学年先輩ということになりますね」


「あ……そう、なんですね。……新入生?」


「ええ、そうです」


 久義は少し驚いた。

 まさか、この少女が大悟と同じ年だとは。

 化粧っ気がないせいか、高校一年生ぐらいに見える。

 それでいて目鼻立ちがくっきりしているのだから、随分と優れた容姿である。

 訳もないのに、こちらが負い目を感じてしまうほどだ。

 まだ血反吐に塗れていた時の方が親しみやすかった。久義は取り留めもないことを思う。


「ところで」


 日々木が口を開いた。


「先程はどうしたんです。随分と、苦しそうでしたが」


 その問いに対し、久義はどう答えたものかと悩んだ。

 一言、「熱があった」とすれば済む話だが、彼はコミュニケーションの素養が皆無だったので、それすら出てこなかった。

 ひどく混乱していた。

 混乱しながら、辛うじて言葉を絞り出した。


「……その……あの。……出たんです。……熱。……丑の刻参りの時、みたいに」


 本人でも分かるほど要領を得ない説明に、日々木はにこりとも笑わなかった。

 しかし、軽蔑も怯えも浮かべることはなかった。

 ただ、静かに聞いていた。

 聞き終えて、言った。


「とにかく、熱が引いたようで何よりです」


 コトリ、と音がした。日々木が机の上に何か置いたらしい。そちらに視線を向けた。

 透明な丸い石が、転がっていた。

 綺麗だと思った。混じりっけのない純粋な透明。丹念に丹念に、気泡も傷も入らないよう練り上げた氷の如き結晶。電灯から零れる人工の光も、その石を通り抜ければ神秘を帯びるような美しい透明が、僅かな歪みもない球体に閉じ込められている。


「気になりますか」


 日々木の問いに、ハッとした。

 知らぬうちに、見入っていたらしい。

 気恥ずかしさがやってくるが、それでも久義は頷いた。

 実際に気になったのだから仕方がない。ここで嘘を吐く必要はないだろう。

 彼女の細い指が透明に触れる。綺麗な爪がコツコツと小さな音を立てる。


「もう一度、触ってみますか」


「え? ……もう一度?」


 久義が尋ねると、日々木は「ええ」と言った。


「さっき、触れたじゃないですか。額で」


「……ああ」


 思い出す。冷たい感触。先ほど、額から体の熱を奪った何か。

 それが、この石か。

 しかし、そうだとすれば。


「す……すごい、ですね。この石。……すぐ、良くなりました。体」


 ひどい風邪に罹患してしまったような状態だったのが、さっきの今で完全に霧散していた。

 市販の解熱グッズなど足元にも及ばない効果だ。

 否、病院で処方されるどのような薬も、ここまでではないだろう。

 もしかしたら、昨日彼女がすぐに回復したのも、これを持っていたからなのだろうか。

 何なのだろう、この石は。


「ぱ……パワー、ストーン?」


「はい?」


「え? ……あ、いや」


 無意識のうちに、考えていることが声に出ていた。今度は羞恥から顔を赤く染めつつ、久義は続けた。


「……その、石。これ……パワーストーン、かなって」


 俺は何を言っているのだろう。

 言葉を紡いだ端からそう思ったが、悔いる頃には相手が聞き終わっている。

 久義はざりざりと指の腹を擦り合わせた。

 眉一つ動かさず、日々木は言った。


「似たようなものです」


 白く細い指で、表面をなぞった。

 どこまでも透明なそれは、不思議なことに指紋がつかない。

 彼女は石を撫でながら、問うた。


「興味あるんですか」


「ぱ……パワーストーン、なら。……その……友達に、あげることも、あって」


 今までも、お守りに交えて何度か買ったことはある。

 これはお守りと比べて、匡はいっそう喜んでくれていたと思う。

 見てくれが綺麗だからだ。

 効果のないことが、文字通り珠に傷だが。


「……ざ、材質は?」


「材質、ですか」


 久義は頷く。

 パワーストーンというのは、その材質も重要なファクターなのだと、今までの経験で知っていた。

 アメジストには恋愛運を高める効果があるだとか、ルビーは健康と幸運を招くのだとか、そういうセールストークに丸め込まれた思い出は、両手の指では足りないぐらいだ。

 しかし、日々木は素っ気なく答えた。


「さあ、知りません。何でできているかは、『これ』にとってはどうでもいいことです」


 その物言いに目を丸くしていると、彼女は続けた。


「大切なことは、造形ですよ」


「造、形?」


 日々木は頷いた。


「ええ。大切なことは、材質ではなく、造形です。例えば、槍はどうして物を貫けるのでしょう。それは、槍が尖っているからです。尖ってさえいれば、その材質が石だろうと鉄だろうと、竹であろうといいのです。逆に、尖端が丸ければ、どんな材質であろうと貫けません」


 彼女はつらつらと言った。

 久義は少しだけ驚いていた。

 この少女は、こんなに雄弁だったか。

 程度こそ違えど、何だか少し匡を彷彿とさせるような。

 日々木は石を摘まんだ。


「これもそうです。これは丸い造形だからこそ、ヒーリング効果を持つんです」


 久義は思った。

 僅かであるが、言葉に力が秘められている。

 今までのどこか冷たい口調が、ゆっくりと溶けて静かに脈動を始めたようだ。

 確かな温度に包まれて、彼女の声は連なった。


「円という形は」


 丸い石を、久義の前に差し出して、日々木は言った。


「円という形は、古来より『何も欠落していない、満ち足りた状態』という意味が含まれます。円満だとか、丸く収まるだとか、日本の慣用句の中にも、その毛色はあるでしょう」


 掌の上で弾き、くるりと回す。

 どこまでも透明で、指紋も何もついていないから、一瞬回転しているか否かが分からない。

 透明で完全な球体が、色も形も光の当たり具合すら変えることなく、つうっと移動しているようだ。


「人が非常に巨大なもの、例えば世の理を表す時にも、この図形を用いることが多々あります。太極図しかり、曼荼羅しかり。円とは、秩序であり、摂理であり、無欠なのです。だからこそ、これにもそうした円と同じ力が宿るのです。だからこそ、これを持った人は肉体と精神が整理され、混沌から遠ざかり、満ち足りた状態になるのです」


 日々木はそう結んだ。

 久義は彼女の言葉を半分も理解できなかった。一体、何の話をしているのだろうか。もしかして、これも彼女の練り上げた設定か。匡と同じように、日々木にも創作の趣味があるのか。


 しかし、現に石は久義から熱を奪い去った。

 頭の中でとぐろを巻いていた混乱だって。


「これって……どこで、売ってます?」


 効果がある。確実に、効果がある品だった。

 衝撃だった。今まで真に効果のあるお守りと、出会ったことがなかったから。

 これがあれば、匡の体調が良くなるかも知れない。

 迫っている悪いものも、消えてなくなるかも知れない。

 本気で、そう思った。


「どこにも売ってませんよ」


 日々木はまた、素っ気なく答えた。つまらなそうに、石を見る。

 そして、視線を久義に。


「買いたいんですか」


 こちらが頷くと、彼女は少しだけ首を傾げた。

 物思いにふけるような、どこも見ていない目。

 白い鎖骨に影が溜まる。


「箱内さんにあげるんですか」


「え……?」


 なぜ、名前を知っているのだろう。

 少しばかり疑問に思ったが、恐らくは病室の前に貼られた名札を見たのだろうと納得し、久義は頷いた。


「は、はい。……その……それがあれば。……匡も、元気になる……かもって」


 しかし、手に入らないのであれば、そんなことを考えても仕方がない。

 ざりざりと、指の腹を擦る。

 そんな彼に、日々木は言った。


「では今日、私が渡しておきましょうか」


 何でもないような、口ぶりであった。

 目を丸くする彼に、彼女は続けた。


「病室の場所は分かっていますから」


「でも……い、良いんですか? そんな、凄いもの」


「ええ。私は同じようなものを沢山持っていますからね」


 ぽかんとした。

 一体、この少女は何者なのだろう。

 久義は。この世に不思議なものが存在すると信じている方だが、それにしても彼女の存在を受け入れるには謎が深すぎた。


「ただ、条件があります」


 日々木が久義を真っ直ぐ見据えた。

 綺麗な瞳だったが、相手を射竦める力があった。

 久義はそれだけで怯んでしまった。

 彼女は続けた。


「伊国さん。貴方は今日、箱内さんのお見舞いには行かないでください」


「え……どうして」


 日々木は視線をそらさず「当たり前じゃないですか」と言った。


「貴方は先程まで、熱にうなされていたんです。いつぶり返すか分からない。そんな状態で、病人に近づくのは危険です。貴方が罹患していたものが何かは分かりませんが、それがもしも感染する類のものだったらどうするんです」


 そんなことは、日々木にも言えることではないか。

 昨日まで血反吐を吐いていた彼女に、しかし久義は何も言えなかった。

 下手に口答えして、その不思議な石を貰えなくなったらかなわない。

 感染云々も納得できる話だ。


 何より、日々木にはこちらを黙らせる凄味があった。


「じゃ、じゃあ。……お願い、します?」


「分かりました。では、私はこれで」


 日々木は久義から言葉を引き出すと、用は済んだとばかりに席を立った。

 黒いスウェットパンツから伸びる脚は規則正しく動き、あっという間に彼女を食堂の外へと連れ去った。


(何だったんだ、あの人)


 気になることは沢山あった。

 久義は鈍く残る混乱に頭を痛めながら、日々木について考えようとした。

 だが、実りのある推論はできなかった。

 ただ、拭い去れない引っ掛かりが一つだけ。


 日々木は匡の名前を知っていた。

 久義はそれを、病室の名札を見たからだと思った。

 だが、あの時の彼女は、廊下に倒れ伏していたはずだ。

 それも、血反吐に沈むようなコンディションで。


 そんな状態で、名札を読む余裕などあるのだろうか。


 久義の中に、言いようのないざわめきが繁茂した。それは炎のように広がり、不安として焦げ付いた。


「煤けるなあ」


 結局その不安は、窓の外でレジ袋片手に盛大にすっ転ぶ大悟を確認するまで、延々と続いた。

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