紫煙の如し
「名は何であれ、病さ」
「君が背負ってきた彼女は、病んでいたんだよ」
それは見れば分かると思ったが、口に出すことはしなかった。
相手は一応医者だし、それ以上に吉田である。
舌も頭も回らない久義にとって、この男相手に議論をふっかけることは、煙を虫取り網で捕まえようとするに等しい行為だった。
吉田は今日も今日とて医者のくせに、診察室で煙草をふかしていた。
職員証と白衣がなければ、即摘み出されるほどろくでなしが板についている。
皺と涙袋の浮いた目元、やや生え際の後退した白髪交じりのスポーツ刈り、張りを失ってくすんだ肌、その全てが落ちぶれた中年男性の風体を醸していた。
「しかし、あれだねえ。ようやっと箱内病院が馬脚を現したという感じかい。『院内で謎の奇病発生す!』と印刷したビラでも撒けば、ついに我が吉田医院の天下かな」
(医者としてどうなんだろう、この人)
およそ人命救助に携わる者とは思えない言葉を、煙と共に吐き出す。
日本で最も「医は仁術なり」という金言にそぐわないこの男は、何を隠そう久義のかかりつけ医である。
吉田医院。
甘倉市にぽつねんと佇む病院で、その体積たるや一般住宅と大差ない。箱内病院と比べれば月とすっぽんだ。むしろ、すっぽんのほうが肉やら生き血やらで、この病院より人の健康に貢献しているレベルである。
別に、この病院がヤブという訳ではない。
久義は家が近いという理由もあり、子供の頃からここに通っている。診察後、かえって具合が悪くなったことなど一度もない。もっとも「馬鹿は風邪をひかない」の諺どおり、久義が体調を崩すこと自体、あまりなかったのだが。
まあ、腕がいいかどうかなど、関係ないだろう。近くに箱内病院という優れた医療機関があるのだから、甘倉市民がそちらに流れるのは当然の帰結である。
これで吉田が神武以来の超絶ハンサムであれば話も違おうが、このようにしみったれた中年男性ときた。おまけにこの社会を舐め腐ったような気だるげな性格である。お得意様になれという方が酷だ。
そんなこんなで、吉田医院は今日も閑古鳥が鳴いていた。
現在、病院を訪れているのは久義と、彼が背負ってきた少女だけである。
「……あの子は、大丈夫なんでしょうか」
久義はモニョモニョとした不明瞭な小声で、それでも吉田の目を見て言った。
半袖の赤いTシャツから伸びる、肘まで白く罅割れた仰々しい腕は、少しばかり震えていた。
彼女を連れてくる時にかかった、血反吐の熱さが肌に滞っている。
吉田は数秒ほど煙草を吸い、先端を白い灰の塊に変えてから、溜め息の混ざるような口調で言った。
「患者が快復もしていないのに、一人でスパスパとヤニを啜るような、ろくでもない医者に私が見えるかい」
久義は神妙な顔で頷いた。吉田は少しだけ動きを止め、白の混じる短い無精髭を掻いてから、灰皿に火の粉を落した。
「全く、伊国くんはそろそろ優しい嘘を覚えた方が良いね。というか、そこは本心から首を横に振るところだろう。現に私は、今まで患者を放って煙草休憩としけこんだことはないぜ」
「それはそもそも患者が来ねえからだろうがヤニヤブ医者」
吉田の後頭部を、背後からの平手が音高く叩いた。
見れば薬剤師の
酷く痛んだ長い黒髪が、怒気で一層ささくれているようだ。
「黒枝さん」
吉田は椅子から立ち上がると、黒枝を睨んだ。上背だけは百八十五センチもあるので、見下ろすような形になった。
「私はいやしくも君にお給金を払っている側の人間だよ。この吉田医院の開業医だよ。そんな私に対して木っ端薬剤師である君が乱暴狼藉とは、世が世なら首を撥ねられてるよ」
そして胸ぐらを掴んだ。
黒枝が、吉田の胸ぐらを。
「世が世だからそういうのパワハラってんだよ。労基行くぞてめえ」
がっくんがっくん。彼女の両腕が吉田の体を揺らす。
中年男性であるが故に中年男性並みの体力しか持たないこの中年男性は、みるみるうちに顔が青くなってきた。
一方の黒枝は額に青筋を浮かべている。白衣から覗く二の腕にも血管が浮いている。二十代前半の女性としては、実にたくましい腕である。
そんな様子を、久義は椅子に座りながら見つめていた。
この薬剤師の腕っ節に敵わないことは、知っている。
この薬剤師が暴力を振るう時、大抵の被害者はこの医者であり、また同じくらいの比率で元凶がこの医者であることも。
なので、平時であれば口は挟まない。
「あの、黒枝さん」
それでも、今は非常時だ。あの少女の容態が、気になった。
吉田医院の職員は彼女とこの医者だけだ。
看護師もいないので、黒枝が似たような仕事を引き受けており、患者の付き添いも彼女が担っているはずだ。
そんな黒枝がここに立っているということは。
「あの子は……大丈夫でしょうか……」
「うん? ああ、安心しろよ伊国。うちのヤブは社会不適合者だが、それでも簡単に患者を死なせちゃあ信用問題だからな。そうならないためにも、ベストは尽くしたよ。峠は越えた」
黒枝が薄く笑顔を浮かべる。久義は安堵のため息を吐いた。彼女は人相こそ険があるものの、基本的に誠実だ。その言葉に嘘はないのだろう。あの少女は本当に助かったのだ。
「いや、さっきからそう言っているじゃないか。君は私の言うことをことごとく信じていないのかい」
久義は少し考えて、また神妙な顔で頷いた。吉田はキナ臭い溜め息を吐き、黒枝はカラカラと笑う。
「結構結構。流石、弊医院と十年以上付き合ってるお得意さんは違うな。今後もだまくらかされないよう、その姿勢を崩さず行けよ。高い薬とか、掴まされたくねえだろ?」
八重歯を覗かせて微笑めば、凶暴な影が顔に落ちる。
その堅気らしからぬ面構えを前にすると、どことなく「高い薬」という言葉が、反社会的な色を帯びるようだ。
実際、彼女の薬は大変よく効くので、かえって危険ではないかと心配になるほどである。
黒枝は診察室の天井にぶら下がったハンガーから、黒いジャンパーを外すと、久義に渡してくれた。
少女の血反吐はすっかり洗い落とされていた。ほのかに洗剤の匂いもする。
「で?」
吉田が言った。
「どうして、あの少女をここまで連れてきたんだい。箱内病院を、抜け出してまでさ」
久義は思い返す。
あの病院の廊下、饐えた匂いが立ち上る血の池に、少女が横たわっていた場景。
その一枚絵があまりにも衝撃的で、久義は少しの逡巡も挟むことなく彼女に声をかけた。
何を言ったかは覚えていない。それほどの動揺だった。
しかし、その後のことは鮮明に覚えている。
少女の目が、開いた。
皮膚に負けず劣らず、真っ赤に充血した右眼の、爛々と輝く淡褐色の瞳が、久義を見上げた。
射竦めるような、鋭く強い視線だった。
ごぶり、と水音が聞こえた。
血反吐を漏らしながら、少女の口が動いていた。
何かを喋りたいのか。久義は彼女の唇に顔を近づけた。酸っぱい鉄の匂いが強くなり、自らも苦いものがこみ上げたが、それでも耳をそばだてた。
「吉田医院に、連れて行ってください」
蚊の鳴くような掠れ声で、彼女は確かにそう言った。
「ここも……病院、だけど」
久義は思わずそう返すと、少女は強い眼光で見上げてきた。
凄みのある視線だった。
それ以上、彼は何も言えなくなった。
赤い泡を口角に留めながら、彼女は言った。
「早く……!」
途端に瞳孔が揺らぎ始め、その鋭い目を閉じた。
気を失っていた。
どうして少女が、箱内病院で倒れたのに、わざわざ吉田医院を指名したのか。
なぜ突然、血反吐を吐いたのか。
腑に落ちないことは幾らでもあった。
それでも、ただ事ではないと思った。
久義は自分が馬鹿だと分かっている。少女の真意を推理できるほどの地頭はない。
であれば、ひとまず彼女の意向に従おうと思った。
だから、間髪入れずに彼女を背負い、垂れ落ちる吐瀉物に構うことなく、吉田医院まで走ったのだった。
「なるほどねえ」
吉田は新しい煙草に火をつけて、口に咥えようとして、黒枝に取り上げられてから言った。
「まあ、つまるところ、ようやく甘倉にも道理の分かる患者が出てきたということだね。醜く肥え太った大病院ではなく、清貧に誠実に患者に向き合う我々を選んでくれたのだから」
「だとすれば診察態度を清く正しく改めなくちゃな」
黒枝は吉田が取り出した煙草の箱を取り上げ、くしゃりと握りつぶしながら笑った。黒髪から覗く額に青筋が浮いている。
彼は少し黙って、白衣の袖口を揺らした。掌に煙草が現れた。「マジシャンかお前は」と再び叩かれる。
そんなことを手を変え品を変え五回は行い、最終的に白衣をひん剥かれてから、吉田は悲しそうな顔で言った。
「まあ、我が医院の名声を高めるためにも、あの少女には必ず元気になってもらうこととするよ。だから、ひとまずは様子見かな。名前なり身元なりの確認は、目が覚めてからだね」
「そうしろ。じゃ、アタシはもう一回様子見てくるよ。必要があれば点滴でもするわ」
黒枝が診察室を後にするのを見送り、その足音が遠のいたのを確認すると、吉田は近くの椅子に捨てられた白衣を纏い、懐から煙草の箱を取り出した。殆ど四次元ポケットである。
「あの子の病だけどね」
煙と共に、吉田が切り出した。
「最初に見た時は、発熱に血液混じりの嘔吐とのことだったから、病原性大腸菌からなる胃腸炎か、あるいは極度のストレス状態からなるものだと思ったんだ。しかし、それにしては治りがとても早い。もしも胃腸炎であった場合、回復は三日から一週間かかるんだが、彼女は既に嘔吐の症状も収まって、熱も引き始めてるんだ。仮にストレスから来るものだとしても、こんな短期間の回復は聞いたことがない」
「え、それは……良かった、です?」
まさか、そこまで回復していたとは。久義は炎のように発熱していた少女の体を思った。
とても、数時間で治るような状態には見えなかったが。
「快方に向かっているのは良いことだがね」
吉田は言った。
「どうにも、よく分からないことばかりだ。実はね、私たちが彼女に対して行った処置は、検温と寝かせることだけなんだ。それから原因を探って対処しようと思ってたら、それだけで症状が収まり始めたんだよ。四十度まで上がっていた体温が、見る見るうちに平熱さ。君が連れてきた女の子は、改造人間か何かかい?」
「いや……わかんないです。俺、箱内病院で倒れてたことしか、知らないんで」
「じゃあ箱内病院がショッカー本部なんだな。彼女はそこから命からがら逃げてきた。これなら辻褄は合うだろう」
「え、そうなんですか」
「冗談だよ」
投げやりな口調で紫煙をくゆらせ、吉田は「しかし」と続けた。
「どうにも最近、箱内病院で妙なことが起こっているのは本当さ」
「妙なこと?」
吉田は椅子から立ち上がり、窓を開けた。
室内を覆い始めていた煙のベールが逃げていく。
明瞭になった医者の容貌は、依然として気だるげである。
気だるげなままで、彼は続けた。
「匡さんから聞いていないのかい。ここ二、三日の間、患者たちが奇病に罹患しているらしいぜ」
奇病。
「それって、どんな」
「実際に見た訳じゃないがね。聞くところによれば、高熱を出して若い男性が寝込んだのだとか、中年女性が手足の軽い痺れを訴えたのだとか、パニックを起こして小学四年の男子が自傷したのだとか、そういった類のことが立て続けに起こっているらしい。それも、それまで普通にしていた入院患者がだ。幸い、治りは早いようだがね」
久義は不安になった。
「その病気って、感染するものなんですか」
「ううん、どうかな。確かに、院内で色んな患者が罹っているようではあるけどね。しかし、たとえば大部屋の病室で誰か一人が罹患しても、それ以外の患者は何ともなかったり、逆に棟が離れているのに同じ症状が出たりと、感染経路が良く分からないらしい。個人的には私腹を肥やした箱内病院への天罰であれば有り難いんだが、そういう訳ではないだろうね」
吉田は天井を仰いだ。くゆる紫煙を眼で追った。
「あの病院で、何かが悪さでもしているのかな」
吉田は、ぼんやりと独りごちた。
(何かが、悪さを)
久義は、イメージする。
あの箱のような病院で、何か良くないものが蠢いている。それは患者から患者へと広がるというより、神出鬼没に院内を漂い、気まぐれに誰かに入り込んでいるようだ。
症状こそ様々だが、一定期間巣食ってから、また別の人間へと移動する。若い男へ、中年女へ、小学生男子へ。
そして、あの栗色の髪の少女へ。
あの栗色の髪の少女は、匡の病室の前で倒れていたな。
ぞくりと、神経が毛羽立った。
不安が大きくなった。心臓が嫌な脈打ち方をして、血管が弾けそうなほど蠕動する。
嫌なイメージをしてしまった。
何か悪いものが、匡に迫っているような。
「どうしたんだい、伊国くん」
「……え?」
「熱でもあるのかい。病院にでも行った方が」
吉田の色素の薄い瞳越しに、久義は自分の体を見た。
確かに、いつもくすんだ色合いの頬が、真っ赤になっていた。
体が熱くなるのを感じた。思考が煤けて、不明瞭になっていく。
考え事をする時、決まってこうなるのだ。
久義は天井を見上げ、息を吐いた。
「……知恵熱です。気にしないでください」
「ああそう。考え事かい。もしかして、匡さんが心配になったとか」
「……はい。大事な……友達ですから」
久義は眉間を揉み、目をつぶる。心を落ち着かせ、何も考えないようにする。すると、栓でも抜いたように熱は引いていった。いつもやっている対処法である。
吉田は久義を数秒ほど見て、煙草を灰皿に押し付けた。
「まあ、匡さんが心配なのは私も同じさ。いくら商売敵の一人娘といえど、お得意様の親友だからね。……伊国くんは、毎日のように彼女の見舞いに行ってるんだっけ」
久義が頷けば、吉田は自らの顎をざらりと撫でて、口を開いた。
「じゃあ、何か変わったことがあれば、私にも伝えてくれ。事と次第によっては、我が医院の抱える有能薬剤師、黒枝さんの秘薬を格安で授けよう。いざとなったら匡さんに呑ませてあげなさい」
「……それって、法律的にどうなんですか」
「君は法と友達、どっちが大事なんだい」
(医者以前に社会人としてどうなんだろう、この人)
そう思いつつも、久義は何も言わず、開いた窓の外を見た。
依然として青空の見えない、どろりとした曇天が揺蕩っていた。
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