箱の中の少女




 青年が、他人の墓石に蜂蜜を塗りたくっている。


 その一文で、親友の書いた小説は始まった。

 理由はやはり、魔法を使うためだという。

 久義は、渡された原稿用紙をベッドの上に置き、そちらを見た。


 患者衣姿の少女が、ニコニコしている。

 箱内はこうちすくいが、感想を求めて、ニコニコしている。

 久義は苦い顔をして、ひとまず思ったことを伝えた。


「……理解に苦しむんだが」


「あ、久義はピーナッツバター派だった?」


「……トーストに限って言えば」


 そう答えてから、再び小説を読み進める。

 読み進めながら、「今の受け答えは適切じゃなかったな」と思い直す。

 再び、顔を上げる。


「いや、味付けはどうでもいいんだ……。何なんだ、こいつは。……何で人様の墓に、蜂蜜をぶちまけてるんだよ」


「水をぶちまけても、すぐに乾いちゃって、愚弄にはならないからね」


「……一理ある」


 そう言ってから、再び小説を読み進める。

 読み進めながら、「今の受け答えも適切じゃなかったな」と思う。

 しかし、それ以上喋るのは億劫だった。久義は口下手な男である。


 諦めて、原稿用紙の字を追っていく。

 季節が夏で、時間が夜中ということもあってか、ぬらぬらと光る墓石に虫が集まり出した。

 青年はオオクワガタだけ虫かごに入れると、また蜂蜜を塗り始めた。

 匡曰く、この作品のジャンルは『異能バトル』である。


「……今回の主人公は、墓荒し兼虫取り少年か」


「正確には、墓荒しで、虫取り少年で、魔法使いさ。優秀な主人公にしたかったんだ。マルチな才能の持ち主を、人はありがたがるものだからね」


(ありがたがるというか、蟻がたかるというか。あ、綺麗に韻が踏めた。俺、ラップか早口言葉の才能があるかも)


 久義は首を傾げながら、心の中で自画自賛した。世の駄目人間がそうであるように、彼もまた脳内では饒舌なタイプである。もちろん、頭の中で喋った内容は数秒後に忘れる。


「……何にせよ、随分なトンチキを主人公に据えたもんだ。『ミスター・ビーン』の二次創作かと思ったよ」


 眉間の皺を揉みながら、言う。

 今にでも、原稿用紙をゴミ箱に叩き込んで、作者の頭をかち割りそうな威圧感を醸している。

 しかし、機嫌が悪いわけではない。

 常日頃から、テンションを司る神経が煤けて用をなさないのが、この男なのである。


「かの名作コメディーに例えてもらえて嬉しいよ。でも残念なことに、この場面はギャグじゃなくシリアス。主人公も僕も、大真面目に墓を汚しているのさ」


 一方の匡はいつもの通り、その中性的な顔をこれでもかと綻ばせていた。その表情は、とても長年の入院生活を強いられているとは思えないほど、朗らかだ。

 まるで誕生日と、夏休みと、親の仇の訃報が同時に来たかの如く、ニコニコと言った。


「何たって、彼の魔法『御守おまもり身代みがわり天罰爆弾ばちあたり』は、日頃の下準備が必要不可欠だからね。具体的には、墓に蜂蜜を塗ったり、聖書で鼻をかんだり、仏像を闇鍋に入れたり、身を焼くほど不届きな行為をしなきゃ駄目なのさ。こうして、不良債権の如く溜まって焦げ付いた報いを、御守りで堰き止める。そして、御守りを破って天罰を決壊させて、フィニッシュさ。あ、ごめんこれネタバレだ」


(ネタバレ以上に気にすべきことが、山のように積み重なってる気がする)


 久義は心の中でそう呟きながらも、ひとまず話を合わせた。


「でもその論法でいくと……フィニッシュするのは、主人公じゃないか。……折り重なった天罰が……落ちるんだよな?」


「ところが、そうならないんだな、これが。彼は術の発動のために身代わり人形を用意するんだ。一旦御守りで堰き止めておいた障りだとかを、そこで男ではなく身代わり人形に炸裂させる。そして、その人形に降りかかった災厄に、敵役を巻き込んで倒すんだよ。あ、ごめんこれもネタバレだ」


 匡は目を輝かせて、少し早口になった。

 そんな彼女を横目に、久義は小説の結末をチラッと見た。

 主人公が敵役目掛けて藁人形を投げ、手元にある御守りを破いた瞬間、一帯を眩い電光が包んだ。

 次の段落では、相手が黒焦げになって立往生していた。

 完。

 久義は苦悶の表情を浮かべた。


「何だよその顔。機械仕掛けの神でも、もっとエモい演出するとか言いたいのか? 精進の足らない読者だな君は。ラストシーンは過程ありきで輝くものなんだぞ。久義くんはヘリで山頂に降りて、景色がつまらないから登山はナンセンスとほざくような破綻者なんですかー? 未熟なり伊国久義。敗れたり伊国久義」


「え……? ……分かった」

「ごめん、破れ伊国久義とは言ってないんだ。だからさ、今にも原稿用紙を引き裂かんとする、その角の取れて真ん丸キュートな手を放してくんないかな」


 久義は匡を見て、コクリと頷いてから、また作品を途中から読み始めた。

 そんな彼の脇腹を「日本語って難しいよね」と言いながら匡がつつく。その様子は、まるで子猫が母猫にじゃれつくようだ。

 もっとも猫の親子と違い、久義と匡は似ても似つかないのだが。


 箱内匡。

 身長百五十センチに届くか届かないか。艶のある黒い髪は滑らかで、うなじを隠すぐらいの長さに切り揃えられている。

 白く瑞々しい柔肌。薄く血を宿す桃色の唇。すっと通った鼻梁に、杏仁のようにくりくりした目と、その穏やかな視線で濡れる長い睫毛。


 およそ人間の表情に内包される、全ての醜悪や歪みをすっかり消し去ったような端整な顔立ちは、一見すると良く出来た人形のようでもあるが、喋っている最中は間断なく茶目っ気が混ざるため、そんな印象は霧散する。


 纏う雰囲気も、どことなく品が良い。

 それもそのはず、名前からも分かる通り、彼女はこの箱内病院の箱入り娘である。だからというべきか、彼女に割り当てられた病室は日当たりもよく、大きくて清潔な良物件だ。

 入院の間も全く不自由していないらしく、テレビにノートパソコンに本棚にゲーム機など、あらゆる娯楽用品がこの病室には揃っている。

 ちなみにこの病院の院長は彼女の母親であり、箱内家の女系の強さが垣間見える。


 こんな贅沢暮らしをしているのだから、さぞかし馬鹿娘に育っていると思いきや、一を聞けば十を知るような才女ぶりだ。

 箱内の雇った家庭教師が優秀なこともあり、一度も授業に出ていないのに小中高から郵送されたテストは全て満点である。

 地元ということもあり、大学は久義と同じく市内の寂れた国立に入ったが、彼と違い血の滲むような勉強は欠片もしていない。


 一方で、体のほうは驚くほど貧相だ。全くもって気の毒になるほど凹凸がない。骨格が二次性徴の来る前と大して変わっていないのも手伝い、見ようによっては女顔の美少年である。

 痛々しさもどこ吹く風で振り回す一人称「僕」も相まって、非常にややこしい。


 このように文句も付くには付くが、おおむね優れた容姿、頭脳、家柄の持ち主である。

 そんな彼女が、どうして久義のように陰鬱な強面とつるんでいるのかといえば、単純に幼馴染だからだ。

 まだ身長差も生まれてないような、幼子の頃からの付き合いである。ちなみに当時から力関係は変わっていない。ずっと、久義が少しばかり劣勢である。

 匡は久義の服のほつれを弄りながら、口を尖らせていた。


「大体さー、この敵役が雷に打たれるのは必然なんだよ。ストーリーとしても、裏にあるテーマ性としてもね。だからこそ、その結末に至るまでの道理を、僕はちゃんと作中に敷き詰めてるんだぜ。『ミスター・ビーン』の如く、この作品はどこまでも理詰めなんだ。そうしなきゃ、登場人物の我央がおうだって納得しないしね」


「出るのか、我央。……今回も」


 久義は作品を読み進めながら、ぼそりと呟いた。


「僕が腹を痛めて生み出した概念だもの。そりゃあ擦り切れるまで使ってやるさ。作品ごとに違う世界観考えるより楽だからね」


 それから匡は人差し指を立てて、「良いかい?」と口を開いた。


「魔法の根幹は我央に彼周ひしゅう希宇きう。これ僕の作品の鉄則だから、忘れないでね。我央は主観、彼周は事物、希宇は……不思議パワー」


「……不思議パワー?」


「何か言いたげだな君は。仕方ないじゃん。他二つと違って、現実とニアイコールで結べるのがなかったんだし」


 彼女は膝立ちになり、座っている友人の肩越しから原稿用紙を覗き込む。

 さらさらした髪に鼻をくすぐられ、久義はクチュンと小さなくしゃみをした。

 少し跳ねた唾液に「うへ、ばっちい」と言って、何事もなかったように匡は続けた。


「御守りボムで言えば、我央は主人公が持つ『悪いことをすれば報いを受ける』という因果応報の世界観。彼周は藁人形だったり、御守りだったり、墓を蜂蜜まみれにする悪行そのものだったり。

 我央は主観に、つまりは頭の中だけにあるもので、彼周は実際に世界にあるものさ。そんな我央を希宇で彼周に滲ませて、ようやく魔法が発生するんだ」


「うん、知ってる。……覚えた、流石に」


 匡が創作活動に身を堕としたのは六歳の頃だ。

 入院前の時点で、匡は色々な与太話を聞かせてくれた。

 しかし、設定や物語を練るようになったのは、ベッドの上が彼女の定位置になり、暇を持て余しはじめた後だった。

 絵心がないことから、表現媒体に小説を選んで以来、匡はこの人相の悪い幼馴染だけを読者に、異能バトル物を書き散らしている。


 我央も彼周も希宇も、その頃に生まれた言葉だ。

 もはや久義にとって、これらの設定は物理化学よりも付き合いの長い存在だ。

 あまりにも長い付き合いなので、最近ではマンネリ化が進む次第である。

 久義は作品を読み終わると、感想が聞きたくてウズウズしている匡を見た。


「……匡。俺……もっとキラキラした物語とか、読みたい。魔法陣と呪物ひしめく、派手な異能バトルが」


「ええ、何で? 僕の作品も魔法出てるじゃん」


「お前の出す魔法は……その、みみっちい。今回もだ。何で……雷を降らすためだけに、墓に蜂蜜塗らなきゃなんないんだ。下準備が……緊張感に欠ける」


「緊張感ありありでしょ。いつ寺の住職がブチ切れて出てくるか分かんないんだし。一歩間違えたら礼拝所及び墳墓に関する罪でお縄だよ?」


「……そういうのは、求めてない」


 久義は眉間を揉みながら疲れた顔をする。凶相も手伝い、全身から滲む倦怠感は重力すら伴っているようだ。

 そんな彼の様子を見て、匡はなおも楽しそうに笑っていた。

 湯気が出そうな満面の笑みで、続ける。


「少なくとも主人公の男は大真面目さ。一見阿呆くさくとも、当人にとっては魔法陣を組んだり、呪物を捏ねまわすのと同じぐらい、真剣な行為なんだよ」


「……呪物についてなんだが……こいつも、どうにかできないか」


 久義は自分の頭上をポンポンはたき、毛づくろいの如く白髪探しをしている匡を退かしながら言った。


「呪物っていうのは、魔法のアイテムだ。だったら、もっと……龍の牙だとか、鬼の骨だとか、ゴブリンの肝臓だとか……さ。それが……何だって、市販の御守りなんだよ」


 匡はチッチッチッ、と指を左右に揺らした。


「全く、久義は分かってないなあ。良いかい? この作品において、呪物を呪物たらしめるのは我央だ。誰かの主観にとって、加護や霊威があるように見えることで、はじめて魔法のアイテムとして成立するんだよ。裏を返せば、誰もそれにありがたみを感じてないんなら、仏舎利だっておかきと変わんないさ」


 それに、と彼女はベッドから降り、近くに置いてある机の引き出しを開けて、言った。


「市販の御守りが駄目っていうんなら、君の今までの散財は全くの無駄になるんじゃないかなー」


 彼女の細い指につままれ、青色の巾着袋が揺れていた。

 そこに刺繍された『無病息災』の金文字も。

 彼女の腕を包み込む、上等な患者衣さえも。

 久義はもごもごと口を動かして、蚊の鳴くような声を出した。


「そ、それは……名うての寺院で買ってきたやつだから……市販のじゃないし……」


「でもさあ、売り物じゃん? 金で買える物じゃん? しかも、バイトもしてない貧乏学生の君が、ご両親から頂いた大切な大切なお小遣いを切り崩して買ったものだから、値段としてもお手頃じゃん? そういう御守りって、果たしてご利益あるのかなあ」


 久義は黙り込んでしまった。

 申し訳なさそうに目を伏せて、落ち着かない様子で指の腹をざりざりとこすり合わせながら、ひとまず小説を読み進める。

 主人公がデパートで一万円の御守りを買うシーンだった。自分が購入した物の倍ほどの値だ。さらに凹んだ。


「隙あり」


「うおっ!?」


 突然、脇腹をつつかれた。肩をびくつかせてそちらを見れば、匡が第二波を放っているところだった。

 視線が合い、彼女はクスクスと笑って、ベッドの上に腰掛けた。

 病院のベッドは清潔で柔らかく、その小柄な体をふかりと沈ませた。


「全く、人相はすこぶる悪いのに、性根が純な奴だなあ君は。ちょっとからかっただけで、今にもベソかきそうな顔するんだもの」


「……だがよ」


 久義は匡の開けた引き出しをちらりと見た。

 そこには幾重もの御守りの束が収まっていた。

 全て、彼が渡したものだ。

 彼女が入院した日から、今に至るまで。

 時間にして、十四年。

 久義がどれだけ御守りを渡そうと、彼女はベッドの上にいた。


「良いんだよ、これはこれで」


 匡は微笑み、青い御守りを掌の上に乗せた。

 その刺繍を指で愛おしそうになぞる。


「僕にとっちゃ、価値あるものさ。久義との長い友情の証だしね」


 久義は三白眼を僅かに見開き、逸らして、原稿用紙へ視線を落とした。

 無言で、顎のあたりを指の腹でざりざりと撫でる。

 彼は気まずさや気恥しさなどで、大なり小なり切羽詰まると、指の腹を何かにこすりつける癖がある。

 隣でぽすんと音がした。

 匡がベッドに腰掛けたまま、寝転がっていた。

 白い天井を見ながら「あーあ」と声を上げる。


「でもなー。万年入院生活の癒しである執筆活動に、唯一の読者からケチがつけられちゃったなー。辛いなー。このままじゃ僕、失意から筆をへし折ってミキサーにかけちゃうよ」


 久義は少し汗をかいた。

 匡のいう通り、彼女が小説を書き始めたのは、この閉じた病室から、想像力だけでも抜け出すためである。

 キャラクターを躍動させるのは、日々の閉塞感を紛らわす代償行為なのだ。

 それが失われれば、その痩身に降りかかるストレスはいかほどのものか。

 久義は困った顔を作り、罅割れた指の腹で、ガシガシと頭を掻いた。


「……どうしてほしいんだ」


 匡はガバッと起き上がろうとし、しかし腹筋の弱さから再びコロンと寝転がってから、言った。


「一緒にネタ出ししてよ」


 久義は片眉を上げて、小首を傾げた。


「ネタ出し……とは」


「簡単なことさ。僕が次の作品の構想を練るから、そこに横から口を挟むって感じ。悪くないだろ? 君は自分好みの要素を提案するだけで、お望み通りの異能バトル物を読めるんだぜ?」


「異能バトルは、確定か」


「無論さ。だって、夢があるだろう?」


 久義はクマの濃い目で、ちらりと引き出しを見た。

 中にある御守りを見た。今のところ異能など欠片も発揮しない、ただの巾着袋を見た。

 溜め息のような細い呼気を漏らし「そうだな」と答えた。

 少しだけ考え込み、口を開く。


「一つだけ……頼めるか」


「何?」


「『丑の刻参り』だけは……その……出さないでくれ」


 匡はポカンとして、一気に噴き出した。「んひひひ」と肩を揺らしている。相当ツボに入ったようだった。

 一方の久義は、炭でも齧ったような苦い顔をした。


「わ……笑いごとじゃあ……」


「だ、だってさあっ。んひ、君が僕を呪ったのは、それこそ大昔のことじゃんか。それを今もまだ引きずってるとか……んひひっ」


「……煤けるなあ」


 おかしくてたまらないといった匡に、久義はげんなりとした顔をした。

 丑の刻参りは、幼少期の苦い思い出なのだ。


 十四年前の夜のことである。

 当時五歳だった久義は、三本の蝋燭を頭にくくりつけるという半端に由緒正しい格好で、丑の刻参りを実行した。

 白装束も白粉も高下駄も鉄輪も藁人形さえなかったが、金槌とちんけな釘と、チャッカマンとケーキ用のカラフルな蝋燭だけはあったのだ。


 結果、彼は夜の山に押し入ると、小さな人型に切った新聞紙に釘を打ち付けた。

 その際、何度か金槌でしこたま指を叩き、次の日にはクリームパンのような手をこしらえながら、うんうんと高熱にうなされる羽目になった。

 人を呪わば穴二つというのを、肌で感じた出来事である。


 呪った相手も悪かった。

 久義はその時、友人である匡の名前を人形に書いていたのだ。

 理由は覚えていないが、きっと何でもないことだったのだろう。

 とにかく、彼は友を呪った。そして高熱で寝込んだ。


 熱が引いた頃に、匡が入院したと聞いたのだ。


 物事の道理がよく分かっていない頃である。

 自然法則も眉唾の儀式も、等しく実在すると思っていた時である。

 凄まじい自責の念に駆られた。

 久義は、一人で匡の見舞いに行った。床に手を突き、謝った。自分の丑の刻参りについて洗いざらい話した。


 返ってきたのは匡の爆笑であった。


「不思議な奴だなあ、君は」


 笑いすぎて、涙を浮かべながら、幼き日の匡は言った。

 これがきっかけとなり、二人は交流を深めた。

 そうこうしているうちに、十四年が過ぎた。

 彼らは幼馴染になっていた。


「あのさー、久義くーん」


 現在の匡が、あの時と同じぐらいの笑顔を浮かべて、言う。


「異能バトルじゃないんだし、釘で藁人形をめった刺しにしたところで、人が病気になる訳ないじゃーん。知ってる? 現代は科学の世なんだよー?」


 彼女の細い指が久義の頬をフニフニと押す。そのまま、髭の剃り残しをざりざりと擦り始める。

 十秒ほど続けて、なおも久義が押し黙っているので、彼女はようやく「分かったよ」と言った。


「ま、別に僕だって、君を傷付けたい訳じゃないさ。了解。丑の刻参りなんて出しませんよ。絵面だって地味だしねー」


 ふう、と久義は安堵のため息を吐く。

 その様を見て、にんまりと笑ってから、匡は続けた。


「よし、気を取り直して。まずストーリーを決めようか」


 彼女はベッドの下からノートパソコンを取り出した。

 慣れた手つきで文書作成ツールを開き、カタカタと文字を入力していく。


「久義はキラキラした物語が読みたいんだよね。じゃ、王道な感じでいこう。主人公がヒロインを救い出すみたいな」


「……異能バトルで?」


「そうそう。不可思議な魔法を使って、囚われのヒロインを格好良く助けるんだ。なんというか、こう、深い闇の底から」


「ぼんやりだな」


「融通が利くと言ってくれ」


 匡が唇を尖らせて、上っ面で恨みがましい視線を向ける。


「……気を取り直して、次に決めるのは主人公だ。今まで、大体が青年とかだったよね? 今度は小柄な女の子にしようと思うんだよね」


「女の子?」


「そ、女の子。でも、なよっちいのは嫌だから、クールな感じにしようと思う。魔法も出来て肉弾戦もできるみたいなさ。こう、涼しい顔して睾丸を握りつぶすような感じの」


「それは……クールなのか。……背筋は凍るようだけど」


 久義が背中と股間にうすら寒いものを感じていると、匡は顎に指を添えてしばらく黙り、そして言った。


「それでヒロインは……よし、じゃあ逆に図体の大きな男にしよう。少女が青年を闇の中から救い出す話。これで決定!」


 久義は口を挟まない。黙って、白い天井の虚空を見つめている。考え事をしているのだ。暫くその状態で停止して、尋ねた。


「……その少女と青年は、どんな関係なんだ? 友達か?」


「え? ……そ、それは。……ヒロインが、空から降ってきた感じ?」


「大男がか」


「うん。空から根暗なゴリラが降ってきて、頭から地面に突き刺さって主人公と出会うんだ」


「せ……せめて抱き留めてやれよ。人は頭を強く打つと死ぬんだぞ」


 久義が、そう物申した時だった。


 ガツン。


 突然、音が聞こえた。

 廊下からだ。

 目の覚めるような、硬い音。石でも、床に落としたような。

 久義は扉に目を向けた。視線を外せなかった。

 扉越しだから、廊下で何が起こったのかは、全く見えない。

 嫌なイメージが、膨らんでくる。


 誰か倒れて、頭でも打ったのではないか。


「……見てくる」


 立ち上がろうとする。

 服に何かが引っかかって、転びそうになる。

 匡が、ジャンパーの裾を掴んでいた。

 彼女を見る。


「待ってよ、久義。きっと、そんな大したことないって」


 先程までとはうってかわって、匡の瞳は不安げに揺れていた。

 突然の物音に、動揺しているのか。そう思う久義に、彼女は続けた。


「看護師さん呼べばいいじゃん。ね? ナースコールもあるんだし」


 久義は少し考えた。


(やっぱり、行こう)


 自分で確認したほうが、早く不安を取り除ける。

 それに、本当に人が倒れていたならば、放っておけない。

 病室の白い床を踏みしめ、心配そうな顔の匡に背を向け、少し躊躇してから扉を開けた。


 ぴちゃりと、靴が何かを踏んだ。


 赤い液体だった。

 久義は更に視線を動かし、息を呑んだ。

 少女が。

 ウェーブがかった栗色の髪の少女が。

 まるで、火にあぶられたような真っ赤な肌をした少女が、倒れていた。


 口から血反吐を、溢れさせて。

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