煤ける青年
「煤けるなあ」
何とも気分の落ち込む暗い天地だ。もっとも、この街は常日頃からこんな景色なので、久義の精神はいつだって高揚を知らず、炭化したように乾いているのだが。
甘倉は、古くは『天暗』という字が使われていた。字面がどうにも不吉ということで、時代と共に名前は変わったが、気候は昔のままらしく、抜けるような青空はあまり見ない。
大地のほうも、あまりぱっとしない。
緑は多い。山や田畑がいたるところにある。かと思えば、年季の入った傷だらけの道路が田園風景をぶつ切りにし、その先にスーパーやコンビニ、寂れたビデオショップなどがある。
心落ち着くほど田舎でもないし、便利すぎるほど都会でもない。そんな半端な土地である。
濃淡あれど目くそ鼻くそ、一様に寂れた町並みを、久義はトボトボ歩いている。
そんな彼を、道行く人は避けて通り過ぎていく。視線も合わせようとしない。
久義は特に何も思わない。自分の外見がどれほどの重圧を放っているのか、流石に理解しているつもりだった。
久義は背が高い。
百九十センチに届こうかという体軀には、余すことなく筋肉がまとわりついている。
だが、逞しいという印象は受けない。
脂肪が極限まで削ぎ落とされているため、皮の上から分かる肉はいっそ不健康なほど筋張り、膨らませた骸骨のようだ。
服からのぞく手足も、尋常ではない。
角質化が進んで白く濁り、分厚くなっている。ところどころに傷やタコがあり、形も不格好に歪んでいる。
拳などは石膏で包んだかのように、凹凸がなくなっている。
おまけとばかりに、顔も怖い。
ごつりとした額に太い眉。痩けた頬に薄い唇。極めつけはその目で、少し浮き出た涙袋はクマでくすみ、一重の血走った三白眼からは、陰鬱を押し固めたような眼光が放たれる。
髪型も遊びがなく、短く刈られた黒い縮毛が、まるで焔のように天へと揺らぐ。
生憎、金もファッションセンスも持ち合わせがないので、凶相を隠せるほど身なりは立派ではない。
纏っている黒のジャンパーは薄く、ところどころがほつれている。その下に来た赤いTシャツも色褪せて、よれよれになっている。錆を思わせる茶褐色の長ズボンは、比較的きれいに見えるが、目立たないところに醤油のシミがついている。
そんな久義であるが、こう見えてまだ十九歳の学生である。
湿気だけでグズグズになっていそうな、ぼろっちいアスファルトの道路を踏みしめながら、彼は一人で考える。
(今日買った御守り、効能なんだったっけ)
見た目に似合わず、久義は信心深い性格である。
といっても何か一つの宗教を深く信じている訳ではない。ただ、世の中には科学や物理の範囲外の何かがあって、それが運気やら因果応報やら魑魅魍魎に姿を変え、色んな形で自分たちに影響を及ぼしているのだと、ぼんやりと思っている。
彼はよく御守りを買う。
寺で神社でデパートで、多い時では週に数回のペースで購入する。それで幸運が転がり込んできたことはないが、未だ懲りることもない。もしも彼がこの見てくれでなければ、幸運の壺に埋もれて死んでいたことだろう。
今日もまた、そうだ。
ポケットの中から、収穫物を取り出す。青い巾着袋に金色の刺繍で『無病息災』と縫われている。健康祈願を目的として作られたものなのだ。効能もそれに準じている。
それは知っている。しかし、どうにも詳細が思い出せない。
あの寺の坊主は、俺に何と言ってこの御守りを売りつけたのだっけ。
何だか、ひどく精力的なセールストークでたたみ込まれたような気がするが。
それにしても、坊主自らが効能をぺらぺら謳うとは、少し胡散臭くはないか。能ある鷹は爪を隠す理論に乗っ取れば、爪をフル展開した上にマニキュアまで塗るような行為じゃないか。今思えば、顔もいかにも資本主義者然としていて、欲望で脂ぎっていたような――。
そこで、ふと思う。
(はて、俺は御守りについて、何を考えていたのだっけ)
このように、久義は頭が悪い。
小中高を乗り越えて、やっとこさ大学に入って二年経つ。世間一般で物心のつく時期がいつかは知らないが、少なくとも五歳からここまでは隅々まで頭が悪い。
何かについて深く考えようとすれば、膨れ上がる思考に食中毒を起こしたかの如く、脳髄が炎熱を発する。
悩み事なんて抱えようものなら、頭蓋骨で焚火をしているような感覚になる。
あまり根性のあるタイプでもないので、大抵そこで思考をストップする。だから、自分の中で生まれた問いに、答えを出せた試しがない。
「煤けるなぁ」
そんな溜息を溢しつつ、今日も今日とて、まとまらない思考を抱える。胡乱な視線を地面に這わせ、ぼんやりと歩く。
ぼんやりとしていたおかげで、また目的地を通り過ぎるところであった。
(危ない危ない)
自らを戒め、回れ右をしてそちらを見れば、広い駐車場を挟んで、真っ白い箱の群れが立っている。
もちろん、ただの箱ではない。
無数のベッドと品揃え豊富な売店、何より腕の良い医者を納めた箱である。
設備もよく、週刊誌が一週間遅れで店頭に並ぶことすらある甘倉で、この病院だけは多くの最新機材が揃っている。
勤務する多くの職員は軒並み優秀だ。腕は言わずもがな、人柄だっていい。
こんな片田舎に、こんな大病院が何故あるのか。
年々減る観光客は、揃って首を傾げるが、理由は簡単だ。
箱内病院は、この土地で生まれたのだ。
設立当初は主に、精神医療の役目を担っていたようである。
東京や京都に公立の癲狂院ができた十九世紀よりも、前から存在するらしい。疾患に『狐憑き』や『犬神憑き』という名がついていた頃からの古株である。
そこからだんだんと総合医療にシフトチェンジしていき、今に至るのだそうだ。
そんな歴史ある箱内病院に、久義は長い間通っている。物心つく頃から、ほぼ毎日だ。
診てもらうためではない。
見舞いのためだ。
久義は肩から提げている鞄を開き、中にしっかりと『無病息災』の御守りが入っていることを確認すると、歩き出した。
この箱の中に、友がいるのだ。
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