抉じ開ける彼我
腸感冒
罪の鉄槌
黄昏時は世界が溶ける。
夕日の残りと夜の兆しが、オレンジと青に万物を彩り、あらゆる輪郭を曖昧にする。
そこが木々に囲まれた山なら、尚のこと。
近くの草に遠くの樹木、全ての影が蕩けて混ざる。
山の影法師に呑まれるように、その青年は立っていた。
背が高い。
身長は、百九十センチに届くだろうか。体も分厚く、身に纏う黒いジャンパー越しに、発達した筋肉が感じ取れる。
炎のように揺らぐ短い黒髪、くすんだ黄色人種の肌、眼元の影の如き深いクマ。
どこか、鬱々とした空気がある。
青年を構成する要素が、絡み合って、滲ませる空気。
黒い空気。
例えるなら、炭のような。
燃え尽きて、乾いて、少しの光沢も寄せ付けないような、煤けた黒。
ジャンパーから覗く拳だけが、白く濁っている。
大きな手だ。
尋常ではない手だ。
隅々まで角質化し、分厚くなった皮膚が、歪んだ指や太くなった節に、鎧の如く張り付いている。
素手ではない。
青年の右手には、鉄鎚が握りしめられている。
木の持ち手に、黒鉄の頭。年季が入っており、ところどころに傷や汚れが目立つ。
携えているのは、鉄鎚だけではない。
黒いホルスター。
太い四肢に、ホルスターが巻かれていた。無数の小さな筒を繋げ、輪を作ったような形をしている。
その筒の一つ一つに、黒い釘が差し込まれている。
奇妙な釘であった。
黒い胴部に、白い文字で、こう書かれている。
『伊国久義』
人名である。
青年の名前であった。
山の人影は、彼だけではない。
久義の前に、夕日を背にしたシルエットが一つ。
少女だ。
背丈は百六十センチほど。色素の薄い茶のボブウェーブが、ゆるく波打っている。肌はきめ細かく、十代の若さを感じさせる。
その栗色の瞳は、これからやってくる夜のように、冷たい。
名前を、
彼女もまた、素手ではない。
刃渡り十センチほどの、片刃のナイフ。シルエットだけ見れば、長い仏師小刀のようなそれを、右の順手に構えている。
銀色に光る刃が、夕日のオレンジを湛えている。
得物を構えた二人の影が、黄昏時の山の中で、向かい合っている。
密度の低い風が吹いた。木々が申し訳程度にざわめく。
ざわめきの後に、無音。
「丑の刻参り」
久義の乾いた唇から、低い声が落ちる。
草木の揺らぎに溶けるような、小さな呟き。
他者に聞かせるためのものではない。
久義自身が、聞くためのものだ。
「丑の刻参り」
久義は再び呟く。
呟きながら、久義は節くれだった手で、釘を一本抜いた。
指が、震えた。緊張から来る、無意識の痙攣。
黒い釘が、ぽとりと地面に落ちた。
(まずい)
彼の視線が、それを追う。焦燥の籠った視線。
その瞳に、次の瞬間、苦痛が宿った。
久義の右脇腹に、日々木の左爪先が突き刺さっていた。
彼女の履くスニーカーが、黒いジャンパーに埋まるようにして、隠れていた。
久義の肝臓が、そこだけ毒袋にでもなったように、激痛を溢す。
鋭い蹴りであった。
体格の差を感じさせない、刃物のように冴えた、凄まじい三日月蹴りであった。
「苦しいですか」
静かな口調で、日々木が尋ねた。
天気でも聞くような、何でもない口調。
栗色の瞳が、久義の負ったダメージを値踏みするように、覗き込んでくる。
苦しい、と思う。
それでも、久義は倒れなかった。倒れる訳には、いかなかった。
「ぐ、かぁ……!」
苦しみを跳ねのけるように、久義は叫んだ。
左拳を握りしめ、放つ。
鉄槌のような打ち下ろし。
ごう、と音がする。風を削ぐ音。皮膚に刻まれた無数の傷が、細かな気流を生み出す音。
久義の拳が、唸りながら、日々木に向かう。
光が奔った。
それが何なのか、久義は一瞬分からなかった。
己の拳が、日々木に掠りもせず、空ぶったのが見えた。
彼女の綺麗な頬に、血が散るのを見た。
日々木の血ではない。
誰のものか。
久義は、手首が熱を持つのを感じた。
見た。
赤が、迸っている。
拳が当たる間際で、久義の手首を、日々木の刃が撫でたのだ。
理解した途端、痛みが膨らむ。しかし、それに構っている暇はない。
早く、防御を――。
重い前蹴りが、久義の胴の真ん中をぶち抜いてきた。
「ごぼっ……!」
肺の空気が茹ったように、口から溢れた。鳩尾を強く打たれたのだ。
呼吸困難になりながら、久義は飛びのくようにして下がる。
日々木との距離、約三メートル。
(まだ、安全じゃない)
経験則が告げる。
ここはまだ、彼女の間合いだ。
カツン。
来た、と思った。
聞きなれた短い音。影の染みた土と木、暗い森の大気を揺らす短い音。
日々木が、舌を鳴らしたのだ。
(防御を)
反射的に、身を固くする。全身の筋肉に力を込め、骨との隙間を埋めて、一塊になる。
次の瞬間、右腕が弾けた。
筋肉を、血管を、神経を、骨を、右腕を構成する全てをひしゃげさせる、巨大な圧。
圧倒的な暴力に、殴り飛ばされた。
一塊となった肉体がまるごと宙に浮き、樹木に叩きつけられる。
右腕が痺れている。血液に大量の気泡が混じったような感覚。
痛みが溢れ出す。脱臼したらしい。骨に罅も、入っているようだ。
腕がだらりと垂れ、力がうまく入らない。指の隙間から、鉄槌が不安定にぶら下がる。
「やはり貴方は、弱いですね」
日々木が冷たく言った。
彼女の脇には、木の幹が抱えられていた。
正確には、木の幹の造形が。
ひび割れた表皮、岩のような瘤、幹のあらゆるディティールを備えたそれは、透明な色をしていた。
これが、彼女の異能。
舌を弾いて生み出したクリック音。その反響で、周囲の造形を切り取り、手繰り、敵を打ち倒す。
この一瞬で、彼女は周囲の木の幹をコピーし、抱え、振り抜いたのだ。
凄まじい、と思う。
敵わない、とも思う。
手首の血が、止まらない。
意識が、ぼんやりとしてくる。今何が起こっているのか、うまく認識できない。
過去の記憶が、滲んでくる。
重要なことは。
良いかい? 重要なことは、世界がどうあるかではなく、どうあるように見えるかだ。
それが
(
まるで泡のように、浮かぶ。友の言葉だ。大切な少女の言葉だ。
唯一無二の、親友だったのだ。
ゆっくりと、立ち上がる。
久義は、肺を震わせて息を吸った。一回。二回。
意識がいくらか輪郭を帯びる。これでいい。
意識がなければ、術は使えないのだから。
匡は、そう言っていた。
我央。
ただあるだけの世界を見て、主観に任せ切り取った意味。
独りよがりで自分勝手で、そして全ての不可思議の骨格。
奇跡の設計図。
そして、
ただ、あるだけの事物。
衆生の価値観など関係なしに、存在するだけのもの。
例えば、釘。
例えば、小刀。
森も、血も、風も、星すらも、全てが彼周だ。
握りしめた、鉄鎚が重い。
質量は大したことないはずなのに、持ち手に食い込む。
食い込んで、苛む。
この鉄槌も、彼周だ。
久義の罪。
呼吸音。
甘いような苦いような、葉と泥の匂いが、酸素を伴って脳を潤す。
意識を明瞭に保つ。そうしなければ術は使えない。
術の源泉は己の主観だ。己の主観以外のものは、彼周でしかない。
彼周はただあるだけで、どのような奇跡も起こせはしない。
(空想を研ぎ澄ませ)
集中。
(まずは、現実を知覚する)
右腕を知覚する。
今の砕けた右腕を知覚する。
(次に、経験則を引っ張ってくる)
右腕を思い出す。
過去の右腕を思い出す。
(経験則を、膨らませて、ひずませる)
過去の数多の脱臼、骨折、外傷という外傷を思い出す。
それに伴った数多の治癒も。
(現実を、ひずませる)
どんな傷も、治る。
それは真実だ。引力や重力が存在するように、絶対的な治癒も必ず起こる。
世界は、そう在る。
(ここだ)
久義は、イメージした。
自分の中にしか存在しない、誇張と歪曲の入った世界。
それが、現実に滲む様を。
我央が彼周に、滲む様を。
空想の治癒が、現実の肉体に滲む様を。
右腕に、変化が訪れた。
砕けた骨が集まる。
裂けた神経が繋がる。
千切れた肉が噛み合っていく。
骨折が、脱臼が、鬱血が、巻き戻されるように消えてき、渦巻く痛みは霧散した。
脳にビニールを張ったような、鈍い感覚が残った。
まだ、術の行使に慣れていないのだ。
(無駄遣いは、出来ない)
負傷の全てを、この術で治すことはできない。
左手首からは、依然として血が滴っている。
カツン。
頬の肉を、何かが切り裂いた。
背後の大木に、透明な鋲が突き刺さった。
捻じれた鋲だ。
枝の造形である。
先程のクリック音で、日々木が生み出したのだ。
「次は喉ですよ」
彼女は冷たく言い放った。
このままでは、じり貧である。攻撃に、転じなければならない。
久義は、鉄鎚を握りしめた。
「我央、彼周、希宇」
言葉を紡ぐ。
友が世界の理に当てはめた言葉。
友と自分だけが共有する言葉。
匡と、久義だけの言葉。
日々木の右腕が風を切る。
透明が飛来する。
身をかがめて、避ける。
地を蹴る。
距離を詰める。
「直線的ですね」
日々木は木の幹を振る。
跳躍して、避ける。
「捉えた」
彼女の言葉が、鼓膜を揺らす。
その手には、透明な鋲。そのまま、放たれる。
空中での回避行動はできない。
久義は左ひじを曲げ、前腕で迎えた。
巻いてあるホルスター、そこに首を並べる釘で、弾く。
黒いシルエットが舞う。
衝撃で、釘が一本、抜けていた。
(釘)
スローモーションのように、尖った影がくるくる回る。
その影を見ていた。
見ながら、頭の中に、言葉を溢れさせていた。
(黒。夜。丑三つ時)
視線を、日々木に移す。
日々木の背後に。
沈みゆく夕日が、影を作っている。
黒い、人型。
(人型。似姿。身代わり)
あれが、藁人形だ。
「釘。貫く。呪い」
呟く。口からでた語が、耳を通り、脳に染み込む。
術の名や理論を言葉にすること。それが一番簡単に、我央を強化する方法である。
それも、匡が教えてくれたことだ。
「丑の刻参り」
手首にスナップを利かせる。
鉄鎚がゆらりと、風を切る。
吸い込まれるように、釘の頭を叩く。
夜の色をした先端が、大気に刺さった。
チリッと、肌がひりつく。釘を身代わりにしているのに、罰がうっすらと体を這い回る。
しかし、この釘がなければ、それでは済まない。
この釘がなければ、あの日と同じように、赤黒い炎に巻かれるだろう。
罪人は業火で焼かれるのだ。
湧きおこる青黒い夜。厚みを増す暗がりに、今にも溶けていきそうな黒い釘が、風を貫き飛んでいく。
草の匂いを通り過ぎ、泥の香りを追い抜いて、彼女までに存在するもの全てを背景にして。
目指すは、彼女自身ではなく、彼女の影。
久義は金槌を握りしめながら、自分の心が煤けるのを感じた。
いっそ焼けてしまいたいと思った。
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